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日本悲願のスノーボード界で初となる五輪金メダリストとなった平野歩夢。彼のお陰で今、日本中でスノーボードが注目となり、嬉しいことにスノーボードを始める若者が増えています。今ではウィンタースポーツを代表各となるスノーボーディングですが、その確かな歴史を知る者は意外と少ないよう。ウキペディアやスノーボードに関する各書籍でも、スノーボードの歴史を伝えてくれて参考になるが、しかしそれでもうまく伝えきっていないようにも思います。
そこで、1985年11月からスノーボードを始めて、その間、ずっとこの業界に何らかの形で携わって来た私が、将来世代に向けてスノーボードの歴史をできるだけわかりやすく簡潔に伝えることにしました。スノーボードの歴史の旅をぜひお楽しみください。
この特集記事は、不定期に更新していきます。

編集:飯田房貴 [email protected]

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1963年トム・シムスが13歳の時に作ったスキーボード

スノーボードが、雪山で横に乗る板という定義ならば、すでに1900年代初頭、狩猟や山登りの際、深雪を楽に滑り降りる道具として利用されていた。
しかし、現在のスノーボードに繋がると思われる流れは、1963年トム・シムスが、13歳の時、学校の木工課題として作った「スキーボード」に始まっていると言えるだろう。
彼は、当時スケートボードに夢中になっていた少年で、冬でもスケートボードのような感覚を楽しみたいという思いから、雪上用スケートボードを作ったのだ。その板は、現在のスノーボードのような足と板を固定するためのゴムチューブでできたようなストラップもあるので、これが世界で初めてのスノーボードと言っていいのかもしれない。

1965年スノーボードの祖父シャーマン・ホッパーが作ったスノーファー

トム・シムス少年が、工作でスキーボードを作った2年後、1965年シャーマン・ホッパーは、子供用のスキー2本を揃えて横に乗る板を思い付いた!
ことの発端は、当時、数日後に第三子を出産する妻の体調が悪くて、10歳と5歳の娘たちを冬に遊ばすために思い付いたものだった。
この発想から、翌年1966年に紐を付けた横乗りボードを特許申請。そして、1968年には商品化して「スナーファー」という名称で販売開始。(※スナーファーの名称は、「スノー」と「サーファー」から掛け合わされたところから来ている)
このスノーファーが、後にさらに現在のスノーボードの形に導いたジェイク・バートン少年(※当時14歳)の目に留まり、後のBURTON SNOWBOARDSへと繋がっていく。
そのため、シャーマン・ホッパーは「スノーボード界の祖父」と呼ばれ、またジェイク・バートンは「スノーボード界の父」と呼ばれるようになる。

しかし、今、歴史を改めて振り返ると、スナーファーは子供の遊び道具として開発され、また足を留めるための用具がなかったので(※後に滑り止めのようなものはあったが)、先に紹介したトム・シムスが工作用に作ったスキーボードの方が、現在のスノーボードに共通したギアだったと言えるだろう。

1981年に世界初のスノーボード・カンパニーを立ち上げたジェイク・バートン

ジェイク・バートンは、14歳で出会ったスノーファーを改良したい思いがずっとあった。この夢のような可能性を持った乗り物に対して、誰も発展させようしていないことに驚きを持ち続けて、遂に10年後の1977年にバートン・ボード社をバーモンド州で立ち上げた。試作品を作り続けて、その3年後にはいよいよバートン・スノーボード社に改名。世の中に「スノーボード」という言葉が正式名称として呼ばれたスタートが切られたのである。
ジェイクは、当初から板とブーツを繋ぐビンディングの役割の重要性を認識しており、商品化されるまでに100本もの試作品を作り試行錯誤を重ねながら新しい世界の扉を切り開いた。


1976年に冬用のサーフボードとしてウィンタースティックが販売へ

1970年ディミトリ―・ミロビッチがたまたま手にした雑誌に「雪用サーフボードを自作している」という記事を見つけて、そのサーフボード職人ウェーインストーブケンを訪ねる。
実際に試した板に乗ると、その魅力に憑りつかれ、ミロビッチはボードの削り方の対価として特許料を払った。
そして1972年ソルトレイクシティで冬用サーフボードを開発を開始。
1976年には冬用のサーフボードとして、ウィンタースティック社をスタートさせて、世界でも初めての本格的スノーサーフボードを販売した。
それは、ジェイク・バートンがスノーボード会社を立ち上げた1年前のことであった。

1979年に世界で初めてビンディング付きの板をリリースした国産モス・スノースティック

驚いたことに、ミロビッチよりも早くスノーサーフィンの可能性に導かれた人物が、日本にいる。MOSSの創始者の田沼進三は、1971年にスキー場の遊び用の板として、スノーサーフィンを設計して完成させた。女性の友達からスキー場に行くことを誘われたのだが、スキーはできないサーファーだった田沼氏は、雪上でサーフィンすることを思い立ったのだ。
それから改良を加えて、1979年にスキーブーツをビンディングで留めることができる画期的な板を完成させ、モス・スノースティックの販売を開始した。
(※初期の頃のバートンも足を固定する革製の留め具はあったが、スリッパのように履くようなもので、完全に固定するという留め具はモスが初めてだろう。)

1982年 本格的なスノーボード大会の幕開け!

1982年は、スノーボードの歴史において、大きな出来事があった。
それは、本格的なスノーボード大会の幕開けだ。

1970年代後半から、スナーファーを中心に、小規模の大会が各地であったが、いずれもローカル規模のものだった。
おそらく、そのへんのスノーファー腕自慢のライダーたちが、「誰が一番か決めようぜ!」くらいのレベルだったと思われる。
その中で一際目立つライダーがいた。それは、初めてのスナーファーのプロとして知られるポール・グレイスだ。
彼はスピードを争うスナーファー大会の中で一人、勝手に360度回るようなトリックをしたりして、周囲を驚かされていたという。

そんなポール・グレイスが強さを誇ったスナーファーの大会で、突如、スノーボードを引っ提げて登場した男がいた。それは、スナーファーから改良してスノーボードに変革させたジェイク・バートンだった。
しかし、ジェイクが持って来たスノーボードは、スナーファーではない、大会にふさわしい用具ではない、と拒否されてしまった。
だが、グレイスが主催者に掛け合った結果、ジェイクの出場が許され、特別オープン部門で出場。
結局、特別参加枠はジェイク一人だけが出場することになり、優勝者となった。

小規模なスナーファー、スノーボードの大会が開かれる中、遂に本格的な大会を目指しポール・グレイスが全米規模の大きな大会を目指した。それが、1982年に開催された全米スノーサーフィン選手権(National Snow Surfing Championships)だ。

この記念すべき大会は、バーモンド州スイサイドで開催され全米から126名の選手が集まった。
その中には、バートン・スノーボードの創立者ジェイク・バートン、そしてスケートカンパニーからスノーボード・カンパニーに発展させたシムス・スノーボードのトム・シムスも出場した。

種目は2つで、1つはスピードを争うダウンヒル。ほぼ真っすぐに滑る度胸試しのようなコースで、スピードは60マイル(およそ96キロ)出たというから驚かされる。まさに当時のスノーボーダーたちの破天荒ぶりが伝わるレース内容だ。
優勝したのは、当時、バートンとバチバチのライバル関係が始まっていたトム・シムスだった。

一方、スラローム部門では、バートンチームのダグ・ブートンが優勝した。

この大会は、全米ネットワークのNBC TODAY、ABC放送のグッドモーニングアメリカなど主要メディアに取り上げられ、またスポーツイラストレイテッドにも紹介された。俄かに新しい横乗りの楽しさを理解した若者たちが出場した大会は、一躍アメリカ中から脚光を浴び、彼らはさぞ鼻が高かったことだろう。

(スノーボード創世記時代の大会で一番速かったトム・シムス)

この大会を成功したことを機会にポール・グレイスは、翌年も同大会を開こうとしていたが、大会場所を見つけることができず困っていた。
そんな時、ジェイク・バートンが、地元の小さなスキー場、スノーバレーと交渉し再び開けることになった。
1983年の春に開催されたこの大会は、全米スノーボード選手権(National Snowboard Championships)となったのである。
そう、ジェイクの「スノーボード」の思い、新しいスポーツに掛ける情熱が、この大会の名称を決めたのである。

全米スノーボード選手権では、ダウンヒル、スラローム、総合部門の3つあったのだが、すべてにおいてバートンとのライバル関係にあったトム・シムスが優勝した。

また、この後もこの大会は続き、あとのUSオープン選手権に繋がっていくのである。正式には、1985年からUS OPENという名称が使われ、場所もストラットン・マウンテンに移され、より本格的な大会へと成長していく。

このUSオープンは、近年、オリンピックXゲームズ(X Games)と並んでスノーボードの3大メジャー大会とも呼ばれるようになった。

しかし、このバートン主催のUSオープン選手権は、昨シーズンのコロナ禍で幕を遂げ、今季は新たにミステリーツアーという形で復活している。
だが、USオープンの歴史を見て来た人にとっては、スノーボードの伝統的な大会名称がなくなったことは、残念な思いだろう。

この項目の参考リンク:
Woodstock 1982
http://www.snowboardinginsouthernvermont.com/woodstock-1982.html

Burton US OPEN HISTORY
https://events.burton.com/burton-us-open/history/

※この章では、下に紹介しているスノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生 / 福原 顕志 (著)を参考にさせてもらいました。読み始めたら止まらないほどおもしろい!ジェイク・バートンの伝記です。スノーボード業界やブランドのヒストリーに興味がある人には、強くオススメします。

1983年 日本でも第一回全日本選手権大会が開催!

1983年、スノーボードの発祥の地アメリカで全米スノーサーフィン選手権(National Snow Surfing Championships)が行われた翌年にはすでに!日本でも第一回全日本選手権大会が、秋田県の共和スキー場で開催されたのである。
優勝者は、初期の国内スノーボード創世記時代を牽引し、ムラサキスポーツのライダーでもあった松島勝美だ。(※種目不明だが当時の歴史を考えるとレース系であることは間違いないだろう。)
また同年、第1回日本スノーサーフィンチャンピオンシップが、湯沢国際スキー場で開催されており、そちらの優勝者も松島勝美だ。種目は男子ダウンヒル。ちなみに当時、松島が使用していた板はバートンで、このスノーサーフィン大会自体はモスが仕掛けたもの。当時出場した選手は、20名程度と言われている。
その甲斐あって、スラロームではモスのライダー、広瀬裕昭が優勝。女子ダウンヒルとスラロームでもモスのライダー、和田千鶴が優勝している。
その後に続く丸井スノーサーフィングランプリでは、玉井太郎、高橋邦彦、ジャンボ古川ら80年年代後半のスノーボード界を支える数々の名選手が生まれるている。

当時は、国内スノーボード協会3団体時代で、1982年に小倉貿易「バートン」販売開始しバートンによる日本スノーボード協会、モスによる日本スノーサーフィン協会、アヤックによる日本サーフスキー協会があり、それぞれに普及活動を行っていた。その後、画期的に統合。アヤックが販売不振から自然消滅し、モスとバートン代理店(小倉貿易)がスノーボード普及のために1987年に協会をまとめた。それは、日本スノーボード協会が日本スノーサーフィン協会を吸収合併という形となった。これにより、国内の活動を一元化し各地区大会、全日本選手権大会を毎年開催へ。さらに、新しい滑走技術の向上に努め、急速に改良される用具とともに発展していくこととなった。

(※以下、参考サイト『MOSSスノーボードの歴史』
http://www.pioneermoss.com/mosssnowboards/0910/history/history.html

●関連記事
スノーボード創生期時代から今に生きる「超」業界人/安藤 友規
https://dmksnowboard.com/tomonori-ando-snowboarding-in-its-early-days/

(次回、シムスがはじめた世界初のハーフパイプ大会へ。レース一辺倒だった大会から画期的なフリースタイル種目の誕生!)

参考文献&サイト

スノーボードの誕生 なぜひとは横向きに滑るのか/ 田嶋リサ (著)

スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生 / 福原 顕志 (著)

●この特集記事は、以下のサイトも参考にさせていただきました。

全日本スノーボード協会
スノーボードの歴史
https://www.jsba.or.jp/information/history/

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スノーボード 歴史

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