-笹岡祐治氏に聞く、あの時の長野五輪騒動-
インタビュー:飯田房貴 [email protected]
資料提供ご協力:サンライズプロダクション大石裕久
先日、行ったOGASAKA Snowboards 笹岡祐治が語る30年ヒストリーは、とても評判が高く、業界関係者の方からもメールで「とてもおもしろかった!」という嬉しいメッセージをいただいた。
このインタビューは、オガサカで30年以上もスノーボード事業に奮闘された笹岡祐治氏のヒストリーを紹介するというものだったが、そのインタビューの記事内容を選ぶために、笹岡さんからはいくつかのトピックもいただいた。
その中には、とても興味深いものもあったが、笹岡さんのオガサカ・スノーボード30年史というテーマであったので、そのストーリーは壊さないように心掛けた。
しかし、どうしても気になる話題があり、これはいつか伝えたいという思いが募った。
それは、あの長野オリンピック騒動だ。
当時のオリンピックのサマランチ会長の一言で突然決まったスノーボードのオリンピック種目決定。それも、トライアルなしでの公式種目。
そのことで、揺れたのは当時の世界のスノーボード協会だった。そして、その波は当然、日本にも来て、日本スノーボード協会と全日本スキー連盟は、選手派遣というポイントで対峙することになった。
そもそもなぜ長野オリンピックでスノーボード種目が採用されることになったのか、その背景を伝える必要がある。その参考となる重要な記事、当時の専門誌スノースタイルも笹岡氏に提案していただいたので、ご紹介しよう。(※のちに当時、このコラムを書かれた大石 裕久氏から直接スキャンされた素材をご提供していただき、以下その資料リンク。 「SNOWSTYLE1998年3月発売より抜粋」
サマランチ会長の爆弾発言、「長野でスノーボード」は1994年8月26日のIOC理事会で発せられた。
それまでのオリンピックとサマランチ時代の大きな変化は、商業主義。オリンピックは莫大なお金を生むもの。そのためには、若者に注目されるような種目を採用したい。それが、スノーボードだった。
※当時のサマランチ会長の商業主義の姿勢を示すことを伺える内容が、先月リリースされた朝日新聞記事(2019年9月24日付け)でもアップされた。(五輪をめぐる)ローザンヌ:1 「五輪の首都」157億円かけ本部新築
https://www.asahi.com/articles/DA3S14190704.html
しかし、4年後の長野には公式種目には間に合わなかった。なぜなら、オリンピック種目するのには、7年前にトライアル種目として行い、その後にオリンピック種目にするというルールがあったからだ。そこで捻りだしたアイデアが、「スノーボードはスキーの一部」という考え方だ。それなら、長野でできるということになったのである。
スノーボーダーは、決してスキーの種類の一部の乗り物だとは考えていないが、この時からオリンピック種目としてのスノーボードは、スキーの中に入るということが決まっていたのだ。
あの時、業界に関係していた方は、選手派遣に関しては勝手にスキー協会が決めることになっていたと思っていた。しかし、実際には選手派遣に関しては、JSBAスノーボード協会の協力の下で選手選考を行う方向で話し合っていた事実があったというのだ。
そのことを笹岡さんから聞いた時、とても驚いた。
全日本スキー連盟としては、まったくの管轄外だったスノーボードという種目を与えられて、大いに戸惑っていた。また、スノーボード協会の方は、自分たちが育てた子供(スノーボード種目)が、大きな舞台に飛び立とうという時に、突然さらわれるような格好となって憤った。
改めて思うのは、すでにスノーボードの普及に携わっていたスノーボード協会が、オリンピックの選手派遣や実行される競技を管轄することで、よりスムースになるハズだったこと。
歴史に「もし」はないが、もしもスノーボード協会がオリンピック種目を行うことになっていたら、あの長野オリンピックの初代ハーフパイプ金メダリストはスイスのジャン・シーメンでなく、長野をボイコットしたノルウェーのテリエ・ハーコンセンだっただろう。
しかし、オリンピックはFISを選んだ。
SAJは、JSBAを外した。
結果、起こったことは、当時あったインターナショナルなスノーボード協会、ISF国際スノーボード連盟の消滅だ。
テリエをはじめ、多くのライダーや関係者は怒った。
その憎悪の炎は、今でも完全に消えていない。
だが、日本にはスノーボード協会、JSBAが続いている。
そこにはアイデンティティを消さないアイデアと努力があったからだ。
今、笹岡氏が明かすスノーボード協会ヒストリーのパンドラの箱。
-- 先日行ったインタビューが大反響でした。ありがとうございます。
笹岡: SNSでの退社あいさつに対して多くの方に反応していただき、その結果フサキさんの目にとまり、私の30年史にまでまとめていただきまして、とても光栄でした。反響もあったようで嬉しいことです。
-- ところで、今日は自分がどうしても気になったあの話なのですが、なんと、長野オリンピックの選手派遣は、JSBAで行く予定だった、と。
笹岡: 行く予定と言うと断定的に聞こえますが、JSBAでは日本で開催されるオリンピックに最高の選手を出したいと考えて、当時前例があったグラススキー協会のように団体ごと加盟する、方式を提案したのです。
-- 今思えば凄いアイデアですね。
すでに何年も続いていたJSBAが、団体ごとSAJスキー協会に。
具体的に加盟するという内容は?
笹岡: 団体ごと加盟するとはJSBAの自治を認めて口を出さない、対外的にはSAJから日本代表として参加する、というものです。
SAJとしてもノウハウのない競技なので、検討はしたと思います。
しかし最終的には当時の八木専務理事(故人)を筆頭とする理事会の判断で!?
認めなくなってしまったのです。
自分の記憶が定かでないこともあり、協会事務局の山田繁氏と専務理事の田沼進三氏に確認しました。
SAJ側とは数度会合を持ち選手選考に関して提案したことは事実であったが、調印寸前というのは、なかったとのことでした。SAJサイドがどこまで検討したかについては故人でありその当時の理事さんたちは今は理事ではないので確認できません。
以上、記事 SAJ八木氏のSNOWSTYLE,SNOWing共同インタビューは、「SNOWSTYLE1994年11月発売より抜粋」
-- そういう具体的な話や提案があったことは知らなかったので、驚きました。
どうしてまとまらなかったのですか?
笹岡: オリンピックの統括競技団体になった以上、JSBAは近いうちにつぶれてしまうと判断したからだと思います。
事実数年後、 ISF(国際スノーボード連盟) は倒産しました。
-- オリンピックはスノーボードをメジャーなスポーツに押し上げてくれたけど、一方でこれまでスノーボードを普及して来た団体がなくなるというのは、複雑な心境でした。
笹岡: オリンピックに関しては利権が絡み組織が政治的に対立することが多く発生していました。
純粋にスノーボードを楽しんでいるスノーボーダーの気持ちを忘れがちになります。
そもそもは、IOC(国際オリンピック委員会)が突然、スノーボードを正式種目にすると言うところから始まりました。
そこで統括団体にスノーボードをやったことのないFIS(国際スキー連盟)を指名したのです。
FISの傘下にあったSAJ(全日本スキー連盟)にそのまま指示が下りて来ました。
この時点でISF(国際スノーボード連盟)とJSBA(日本スノーボード協会)はオリンピック関係から外されてしまいました。
ただ日本国内では、教育(インストラクター)の世界では繋がりができていて、スノーボード教程を3団体共著で作って利用していました。(※1993年11月20日に初版)
3団体とはSAJ(全日本スキー連盟)、SIA(職業スキー教師協会)、JSBA(日本スノーボード協会)です。
-- 当時、教育の世界で3団体が繋がっていたというのは、知りませんでした。
笹岡: SAJがオリンピックの統括団体になってから急に組織対立が表面化しましたが、JSBAが進めていたインストラクターの養成や検定制度などは3団体とも協調しながら進めていました。このインストラクター関係の教育の世界の協力関係はその後つい最近まで続いて来ましたが、競技関係の世界は2つの全日本選手権など、対立関係が表面化しました。
-- 当時の反発エネルギーは凄まじいものがあったし、日本国内で行われていたISF大会にしても、ただならぬ空気が漂っていました。
笹岡: 国外でも似たような騒動が起きていました。
オーストリアの選手たち、たしかマーティン・フライダナメッツ(注:当時のアルペンを代表する選手)だったと思いますが、オリンピックボイコット運動を起こしていました。
また少しあとになりますが、テリエ・ハーコンセンがチケットトゥライド(※後のTTR)という競技会を開催したのも、FISスタイルを嫌ったからだと聞いています。
表面的にはそのように報道されていませんが。
-- 本来なら真の世界一のスノーボード王者を決める長野オリンピックが、当時のハーフパイプとアルペン(注:長野はその2種目しかなかった)の絶対的な王者が参加していなかったのは、残念です。
笹岡: JSBAもレッドカードなどを出して対抗しましたが、対立が表面化しただけで溝は埋まらないまま推移しました。
-- このままでは、JSBAの存在価値が薄れて行くという、難しい場面だったと思いますが。
笹岡: JSBAのそれまでやってきたことは競技会だけではなく、インストラクターの養成やスノーボードパトロールの養成など幅広い分野にわたりますので、オリンピック以外のスノーボーダーのために活動をしっかりやろう、と言うことでまとまって前に進んでいきました。
協会同士の対立は新聞等メディアの話題にはなっていましたが、歩み寄りもないままそれぞれが独自の道を進んでいきました。
方向転換を図った結果、JSBAは倒産せずに今日まで残っています。
-- 世界のスノーボードの協会、連盟などが大会というメインステージで動いている中、JSBAはもっとスノーボードというものを広い視野で見ていたのですね。
笹岡: ISFが倒産してJSBAが倒産しなかった理由は、活動内容によると思います。
スポンサーありきのイベント中心(競技会)の活動と、2万数千人 (当時)の会員を抱えてその会員に対するサービス(競技会、イントラ養成、安全対策)を中心とした活動だった、草の根運動の違いが一番の違いだと 思います。
ただオリンピックの問題が発生した当時は僕も理事の一人として熱くなっていました。対抗心丸出しで。もちろん歩み寄りも含めて行動もして行きましたが。しかし、何も変化はありませんでした。
そして理事会も少しづつ冷静になって来て、もともとやってきたことに専念しようということになって落ち着いてきました。
オリンピックはSAJに任せて一般のスノーボーダーに価値のある活動をしっかりやろうとまとまったわけです。
その結果JSBAは残れました。
-- 歴史に「もし」はないと言いますが、もしあの時、オリンピック委員会が、これまでのスノーボード協会の歴史を認めて、日本の選手派遣などJSBAが行っていたとしたら?
今日の五輪スノーボード競技の取り巻く状況は、どうなっていたと思いますか?
笹岡: サマランチさんの一言による騒動は今も完全にはなくなっていないのも事実ですが、今やそんなことさえ知らない世代が中心になって来ています。でも当時、スノーボード 協会が選手選考に少しでも関われていればばもっとスッキリとした体制ができ て、スノーボーダーが納得のいくカタチで発展してきたと思います。無駄な争いをたくさんしてきましたので、今もそう思っています。そう思いたいです。
あの当時スノーボード業界は爆発的に伸びて、いい大人が冷静さを欠いてバブルに酔いしれていました。20数年が経ち熱病も冷めて、業界も落ち着いて安定しています。今、業界の中心にいる人たちはスノーボードの魅力に魅せられた人だけが残り、利害を度外視して好きだから続 けているというスタンスで、楽しんでいるように感じます。
スノーボードはコンペだけではありません。ビデオ映像での表現やイントラも、バックカントリーも遊び方は無 限に拡大する要素のある素晴らしい遊びです!まだまだどのように発展するかわかりません。
その行く末を見守りながら、これ からもスノーボードの様々なポテンシャルを信じて、陰ながら応援していきたいと考えています。
●その後のISF
ISFが倒産してすぐにWSF(世界スノーボード連盟)が立ち上がった。WSFは、アマチュアの大会を中心に活動を続けている。
一方、プロ組織は WST(ワールドスノーボードツアー)を運営していたTTR Pro Snowboarding(TTR)が請け負うことになった。そして、現在、TTRとWSFは合併し、世界のスノーボード競技を統括している。