OGASAKA Snowboards 笹岡祐治が語る30年ヒストリー

「私事で恐縮ですが、8月20日で長年お世話になりました小賀坂スキー販売株式会社を退社いたします。
SNSや現場でお付き合いいただきました皆様には感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。
スノーボードに出会ってからの人生は楽しかった!」

長年、オガサカ・スノーボードの販売に携わり、日本のスノーボード界において多大な功績を残した笹岡祐治氏のSNS上での突然の退社宣言には、驚かされた。
230件以上のコメントを拝見すると、笹岡さんがこの長い年月、どれほどまでにスノーボード製作に力を注がれ、また多くの人に親しまれていたのかわかる。

1980年代、まだ世間にまったくスノーボードという言葉が浸透していない頃から、この業界で邁進。日本スノーボード協会の公式用品委員会の委員長にも重任し、業界の発展に力を注いで来た。
おそらく、世界中を見渡しても、これほどまでの長い期間スノーボードの仕事に関わり活躍された方もあまりいないだろう。

そんな笹岡さんに、30年以上にも及ぶOGASAKA Snowboardsのヒストリーをお聞きし、この長い期間で得た教訓を、ぜひこれからのスノーボード界に活かしていきたいと考えた。早速インタビューをお願いしたところ、快く受け入れていただいた。

インタビュー:飯田房貴 fusaki@dmksnowboard.com

--長い間、おつかれさまでした。まずは、OGASAKA Snowboardsの仕事を終えて、今の率直なお気持ちは?

笹岡:今考えると仕事と生活が混然一体となっていたので、身体の一部をもぎ取られたようなとても落ち着かない日々を過ごしています。でもこのインタビューを受けるようになって昔のことを思い出しながら、過去と向き合いながらけじめをつけ始めています。

--そもそも笹岡さんが、オガサカでスノーボード販売に関わることになったきっかけは何ですか?

笹岡: 小賀坂スキーでは、すでに1985年頃からスノーボードの開発は始まり、1987年に発売開始となりました。
しかし、社内で「スノーボードは売れないからもう止めよう」ということになっていました。
その頃、私は、仙台のスキー営業担当していたのですが、スノーボードのことはまったく知りませんでした。
当時、小賀坂にはすでに数名のスノーボード開発テスターがいたのですが、その一人だった照井英樹がICI石井スポーツ仙台店に遊びに来ていて、私が仙台に営業に行っていた時に当時の店長に紹介され、スノーボードに対する熱い想いを聞いたのです。

--具体的には、どんな話を聞いたのですか?

笹岡: スノーボードの将来性や、OGASAKAの開発力など。話を聞いているうちに引き込まれて、スノーボードの可能性を感じるようになりました。
そしてもう一人のテスターだった相澤盛夫を紹介してもらい「売れそうだという予感」が、「必ず売れる!」という確信に変わったのです。

当時すでに活躍していた相澤プロの言葉が、スノーボードは必ず売れる!という確信に。


--しかし、すでに会社の方ではスノーボードを止めるという方針だったわけですが、それがどのようにして覆ったのですか?

笹岡: 開発の方では、ライダーの将来を心配して、他のメーカーを探すように言い始めていたのですが・・・。私は、移籍を少し待つように相澤、照井に話をしました。そして、上司から先代の社長に掛け合ってもらって、止めないようにお願いしたのです。
一度目は駄目で、数週間後もう一度掛け合ってもらいました。ようやく「勝手にしろ!」との内諾をえたのです。そして、上司から話を取り付けてきたから、「お前が担当して販売しなさい。」ということになりました。

--凄い情熱ですね。まさにそこからOGASAKA Snowboardsの本格展開が始まったのですね。始まった当時の状況は?

笹岡: 営業担当は一人では無理と思いもう一人指名して藤本亨の二人と、開発担当の山田義人の3人で再スタートを切りました。
スノーボードのことは何も知らないので毎晩、照井と相澤に長電話して少しずつ勉強していきました。デザインのことや宣伝のこと販売店の開拓などを相談しながら進めて行ったのです。

--最初のOGASAKA Snowboardsのというのは、どういうものだったのですか?

笹岡: スノーボードの担当になって最初にやらなければいけないことが、デザインでした。
と言っても私はまったくの素人で、デザイナーはどうするのから始めなければなりません。スキーで親しくしていた横浜市スキー協会の廣松楽山さん佐禧さんご夫妻に一から教えていただきました。デザインは奥様の佐禧さんにお願いして、版下製作その他はご夫婦に面倒を見ていただきました。
ボードのデザインがどのようなものがいいのか、よくわかっていないのに自分の好みで進めるしかなく不安いっぱいの中、進めていきました。今思うと恥ずかしい限りです。

笹岡氏が最初にOGASAに携わり自身でデザインしたという91-92モデル。

-- カッコ良いと思いますが、この笹岡さんが最初にデザインしたというボードには、OGASAKAという文字がなく、Acrossという文字が見えますが、それがブランド名だったのですか?

笹岡: 僕が関わる前の話ですが、スキーメーカーのブランド名では売り難いのではないかということになり『SNOW ACROSS』と言うブランドで展開していました。僕はそのまま引き継いだわけです。

でもこの件に関しては、後日談があります。スノーボードの営業は相変わらず苦戦していました。そして僕が関わって2年経過したときに、相澤と照井から直訴されまして、ブランドを『OGASAKA』に変更してほしい、と。
「イメージ悪くないか?」「カッコ悪くないか?」と再三問いましたが、イメージ は悪くても長年の信用のある『OGASAKA』ブランドで行きたい、となり3年目のデザインからOGASAKAに変更しました。

余談ですが、ヨネックスさんも初めはGATTAでした。

OGASAKA創世時代から今なお活躍を続けるリビング・レジェンド・プロ、 相澤盛夫 。


--ヨネックスの方でも確か3年ほどGATTAで行き、その後、YONEXに。当時は苦戦されていたイメージがあります。しかし、時代はいよいよスノーボードのバブル期が来る頃になりますね。

笹岡: ちょうどその頃、スノーボード業界はようやく盛り上がりをみせて来たのです。そんな時、サンシャイン60で開催された展示会に出展しました。

--懐かしいですね。あの頃の展示会と言えば、サンシャイン60でしたから。狭いビルの中に多くのメーカーが出展し、新しいアクティブスポーツに向かうエネルギーに満ち溢れていました。

笹岡: しかし、当時スキーの営業はネクタイスーツ姿であったので、その場にまったくそぐわなくて、ほとんど相手にされませんでした。初戦は惨敗であったのが、強烈な印象として残っています。

当時の展示会の賑わいを伝えるスノーボード専門誌、SNOWing。

--展示会では、惨敗だったということですが、そこからどのようにボードを売っていったのですか?

笹岡: 当時は、スノーボード専門誌には、SNOWINGとSNOWSTYLEがあり、そこの後半ページに全国のショップ案内が載っていたのです。そのショップに飛び込み営業を始めました。
スノーボード業界の先輩達の評価は辛かったです。
「スキーメーカーにスノーボードのことはわからないでしょう!」
「スキー業界はすぐ安売りするでしょう!」
「非対称ボードは作らないの?」
とか、もっともなことも含めて言われて、新規の取引は難航しました。

--あの時代のスノーボード・ショップは、独特な雰囲気ありました。今では考えられないようなラフ過ぎる接客。そんなところからどのようにして打開していったのですか?

笹岡:一つのきっかけとなったのは、横浜にある『ブラフ46』というショップがあって、そこで話をすることができたことです。確か6月頃だったと思いますが、「毎週乗鞍に滑りに行っているので、そこにボードを持ってきたら乗ってみるよ。」と言うことになりました。新規営業を始めてちゃんと話を聞いてくれたのは初めてのことで、とても嬉しくこのチャンスを逃すまいと準備したのを覚えています。
当日は相澤盛夫と試乗―ボードを持ってブラフ46の練習会に参加した。その結果OGASAKAを認めてもらって取引開始となったのです。このことはとても嬉しくて、今でもとても印象に残っています。しつこく粘っこくという営業スタイルはこのことがきっかけとなったかもしれません。

オガサカ・スノーボードの初期に行われたユーザー・キャンプでの記念撮影。

-- 初期の頃にはアルペンボードの比重が高いように思いますが、その要因は?

笹岡: 担当者にスノーボードの知識がなかったのでライダー主導でした。サーフィンルーツのライダーはフリースタイルもアルパインも両方楽しんでいたのですが、ウィンドサーフィンルーツのライダーはアルパインしかやらなくて必然的に、アルパインのラインナップが増えて行きました。スケートボードルーツのライダーはいなかったのでフリースタイル要素はかなり遅れました。

-- 1998年(97-98シーズン)に長野オリンピックがあり、おそらくそのあたりがスノーボード市場のピークだったと思うのですが、その当時のオガサカの販売の状況は?

笹岡: 新規参入当初はかなり苦戦しましたが、その後のスノーボードブームに乗り、少しづつ伸びてきていました。アルパインレースとハーフパイプというコンペ以外に、テクニカル選手権というのが始まりまして、相澤盛夫はじめ何人かのライダーの活躍で、そこそこ知られるブランドになってきていました。順調でした。

テクニカル選手合宿での記念撮影。

-- オガサカというと、さらにファミリーブランドとして、スクーター(96-97スタート)やノーベンバー(03-04スタート)が思い浮かぶのですが、それぞれの生まれた背景、役割は?

笹岡: 再スタートして5年くらい経ったころ、スケートボードルーツの新入社員が入って来ました。その人は佐古さん(故人)と言いますが、京都大学出身で、いいスノーボードを作りたいということで、OGASAKAに入社して来ました。しばらくOGASAKAブランドの企画やデザインを担当していたのですが、彼がOGASAKAブランドでは将来性に不安を感じて、ブランドを変更したいと言い出し始めました。

-- せっかく成長したオガサカを辞めさせるわけにはいかなかったと思いますが。

笹岡: そこで、再び相澤と照井が登場するわけです。2度目の直訴です。「OGASAKAを変えないでほしい」と。その結果、佐古が新ブランド、笹岡がOGASAKAブランドと二つに分化しました。
初年度は『SMART』でしたが、こちらは登録商標の関係で2年目からSCOOTERで新登場したわけです。しかし担当の佐古さんはSBJ展示会の準備をすべて終えた段階で交通事故で亡くなってしまいました。

-- (絶句)

笹岡: 私と藤本はSCOOTERブランドをどうするか悩んで、ライダーに相談したら、「絶対にやめないでほしい!」と懇願されたので、続行を決定しました。
この半年前に曽根和広がバートンから移籍していたのもブランドの発展には大きく作用しました。曽根和広が移籍した理由はオリンピックに出たかったのが理由で、SCOOTERの存在を知らずにOGASAKAに移籍するつもりでいましたが、社内で相談してSCOOTERがふさわしいだろうと言うことになってSCOOTERに移籍となりました。
曽根の加入で初年度から注目されて順調にスタートしました。

-- そう言えば、あの時代、スクーターというと曽根和広ブランドというイメージがありましたが、そうした経緯があったのですね。

笹岡: 新たに担当社員として市川文弘が入社して、SCOOTERが再出発しました。
どこから聞きつけたか、STORMYショップの野末氏がグループ企業に呼び掛けて取り扱いを増やしてくれたこともあったりして、初年度から一気に伸びました。
(※ STORMYは、当時横ノリの旗頭のようなショップで、独特な雰囲気のプロショップが巨大化したようなイメージのショップだった。)

スノーボードブームと一緒に急成長して数年のうちに〇千本まで達しました。そのころには社員にスケートボードルーツの阿部修が入社して、社内にもスノーボードのことが解る人間が増えてきていました。
阿部はスノーボードをやりたい一心で九州から、すぐ滑りに行ける環境の信州大学教育学部を選んだ人間です。その頃すでに社内ではSCOOTERがこれ以上伸びると危険だと感じて、もう一つブランドを増やして分散しようと言うことになって、NOVEMBERが誕生しました。

-- この危険管理の察知能力素晴らしいですね。リスク分散から生まれたのが、ノーベンバーだったのかあ。

笹岡: NOVEMBERの誕生と同時に笠原啓二郎の移籍がありまして、こちらも初年度から話題をさらい順調に発展してきました。今ではフリースタイルの神髄を追求したブランドに成長しています。
社内にライバルブランドがあるということはOGASAKAにとっても刺激的で、いい結果をもたらしたと思っています。

ブランド間のすみわけはSCOOTERはフリースタイルを含むフリーライディングNOVEMBERフリースタイルOGASAKAカービング系をメインに、3ブランドがゆるく分けるようにしてきました。

クオリティ高い国内産のボードを製作するオガサカ工場。前列にはオリンピックで輝いた広野選手の姿も。

--市場の流れに身を任せるように、発生されて来たブランド誕生の話はとても興味深いです。
スノーボードは90年から盛り上がり、90年後半に一気にピークとなりバブルが弾けたように思います。その時代のオガサカの戦略は?

笹岡: 僕はそれまでスキー業界にいて、スキーバブル崩壊を間近でつぶさに見てきました。だから何をやったら危ないかを知っていました。スノーボードバブルに乗りきれなかったこともありますが、意識的に抑えてきました。この流れに乗っては危険だと。
我々国産メーカーは生き残らなければならないしずっと商売をしていきたかったから、急激に伸ばすことは危険だと考え、しっかりした取引先を少しづつ増やしてきました。オファーをお断りしたお取引様もたくさんありました。だから数年後バブルがはじけた時には影響を最小限で済みました。
やることはそれまでやってきたことといっしょで、ライダーたちとよく相談してお客様の喜びそうな商品の開発と、適正な供給を心がけて続けて来たのが生き残れた理由だと思います。

-- 私は、個人的に海外ブランドと仕事をして来ましたが、海外ブランドにはこの抑えるという発想がない。だから、一気に盛り上がってつぶれてしまうことが起きます。この笹岡さんのお話は、とても勉強になります。

笹岡:企業規模にもよると思います。我々は小規模なメーカーですので、急激な上昇のあとの急激な下降が困るわけです。

-- オガサカのライダーを見ると、 凄くライダーを大事にしているというか、 長くお付き合いされているなあ、という印象があります。
そこに笹岡さんの気持ちがあるように思うのですが、ライダーに対しては、どんな気持ちで選んだり、付き合っていかれたのですか?

笹岡: 基本的に僕はスノーボードのことをわかっていない、と言うことが前提にありますので、ライダーの意見やお客様の気持ちを大切にしました。
その結果ライダーを大事にしているように見えることはとても嬉しいです。
ライダーたちはいろいろなことを犠牲にしてスノーボードに打ち込んでいます。スノーボードをしている時にもやめた後も、みんな幸せになって欲しいと常に考えて相談に乗ったりしています。
一旦ライダーとして迎えた以上、その人の人生にも責任を感じますので、こちらからライダーを外すということはなかなかできません。だから迎え入れる前にはもの凄く悩み、慎重になります一度付き合いだしたら、相手から嫌われるまで付き合い続けて行きたいと思っています。

-- 凄い。逆に言えば、それだけの覚悟を持って新しいライダーとお付き合いを始めているのですね。

笹岡:僕が歳をとっているので、父親のような存在になっていたようです。辞めてみてはっきりわかりました。メーカーの担当と契約ライダー以上の関係になっていました。

元ICI石井大野店長(左)と笹岡氏(右)。


-- これまで笹岡さんのお話を聞いて、様々なことを学んで来ました。
しつこく粘っこく営業していく姿勢。バブル時代のかじ取り方法。ライダーとの付き合い方、ユーザーの意見に耳を傾ける基本的方針など。
最後になりますが、これからの日本のスノーボード界に何か他にアドバイスいただけませんか?

笹岡: 一時のブームは去ってしまいましたが、スノーボードの楽しさがなくなったわけではありませんので、担当者自ら楽しむことをもう一度始めたらいいと思います。楽しいということを発信できたら影響を受ける人も増えると思います。
噂で聞いたのですが、田原ライオさんがハーフパイプの大会に出て全日本を目指す、らしいです。素晴らしいことだと思います。僕もまた関東大会に出てみようかなと思いました。仕事が忙しくて出れなかったので。

-- おお、素晴らしい!ところで、オガサカをお辞めになって、今後はどうされていくのですか?

笹岡: 辞めた当初は毎日呆然としていました。でも今回このようにインタビューの話をいただいてから、昔を振り返ることが多く当時のことがありありと思い出して、今は楽しく過ごさせていただいています。また元気が湧いてきました。身体は丈夫なので、縁のあるところで働きたいと考えています。
冬は滑りに行きたいし、大会にも出てみたいと思っています。

笹岡祐治プロフィール
1954年1月5日生まれ
出身地:長野県の野沢温泉村
大学卒業後に一般企業に就職、結婚を機に長野県の会社に転職を希望し、スキーが好きだったので小賀坂スキー販売株式会社。入社して10年間はスキーの営業、その後の30年はスノーボードの営業、今夏退社。