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2022年の北京にて、日本悲願のスノーボード界で初となる五輪金メダリストとなった平野歩夢。彼のお陰で今、日本中でスノーボードが注目となり、嬉しいことにスノーボードを始める若者が増えている。今ではウィンタースポーツを代表各となるスノーボーディングだが、その確かな歴史を知る者は意外と少ない。ウキペディアやスノーボードに関する各書籍でも、スノーボードの歴史を伝えてくれて参考になるが、しかしそれでもうまく伝えきっていないようにも思うのだ。
そこで、1985年11月からスノーボードを始めて、その間、ずっとこの業界に何らかの形で携わって来た私が、将来世代に向けてスノーボードの歴史をできるだけわかりやすく簡潔に伝えることにした。
スノーボードの歴史の旅をぜひお楽しみください!

編集:飯田房貴 [email protected]

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1963年トム・シムスが13歳の時に作ったスキーボード

スノーボードというものが、雪山で横に乗る板という定義ならば、すでに1900年代初頭、狩猟や山登りの際、深雪を楽に滑り降りる道具として利用されていた。
しかし、現在のスノーボードに繋がると思われる流れは、1963年トム・シムスが、13歳の時、学校の木工課題として作った「スキーボード」に始まっていると言えるだろう。
彼は、当時スケートボードに夢中になっていた少年で、冬でもスケートボードのような感覚を楽しみたいという思いから、雪上用スケートボードを作ったのだ。その板は、現在のスノーボードのような足と板を固定するためのゴムチューブでできたようなストラップもあるので、これが世界で初めてのスノーボードと言っていいのかもしれない。

1965年スノーボードの祖父シャーマン・ホッパーが作ったスナーファー

トム・シムス少年が、工作でスキーボードを作った2年後、1965年シャーマン・ホッパーは、子供用のスキー2本を揃えて横に乗る板を思い付いた!
ことの発端は、当時、数日後に第三子を出産する妻の体調が悪くて、10歳と5歳の娘たちを冬に遊ばすために思い付いたものだった。
この発想から、翌年1966年に紐を付けた横乗りボードを特許申請。そして、1968年には商品化してSNURFER(スナーファー)という名称で販売開始。(※スナーファーの名称は、「スノー」と「サーファー」から掛け合わされたところから来ている)
このスノーファーが、後に現在のスノーボードの形に導いたジェイク・バートン少年(※当時14歳)の目に留まり、BURTON SNOWBOARDSへと繋がっていく。
そのため、シャーマン・ホッパーは「スノーボード界の祖父」と呼ばれ、またジェイク・バートンは「スノーボード界の父」と呼ばれるようになる。

しかし、今、歴史を改めて振り返ると、スナーファーは子供の遊び道具として開発され、また足を留めるための用具がなかったので(※後に滑り止めのようなものはあったが)、先に紹介したトム・シムスが工作用に作ったスキーボードの方が、現在のスノーボードに共通したギアだったと言えるだろう。

1981年に世界初のスノーボード・カンパニーを立ち上げたジェイク・バートン

ジェイク・バートンは、14歳で出会ったスノーファーを改良したい思いがずっとあった。この夢のような可能性を持った乗り物に対して、誰も発展させようしていないことに驚きを持ち続けて、遂に10年後の1977年バートン・ボード社をバーモンド州で立ち上げた。試作品を作り続けて、その3年後にはいよいよバートン・スノーボード社に改名。世の中に「スノーボード」という言葉が正式名称として呼ばれたスタートが切られたのである。
ジェイクは、当初から板とブーツを繋ぐビンディングの役割の重要性を認識しており、商品化されるまでに100本もの試作品を作り試行錯誤を重ねながら新しい世界の扉を切り開いた。
スノーボード創世記時代から現在に至るまで、Burton(バートン)は世界中のスノーボーダーに最も支持されるスノーボード・メーカーである。


1976年に冬用のサーフボードとしてウィンタースティックが販売へ

1970年ディミトリ―・ミロビッチがたまたま手にした雑誌に「雪用サーフボードを自作している」という記事を見つけて、そのサーフボード職人ウェーインストーブケンを訪ねる。
実際に試した板に乗ると、その魅力に憑りつかれ、ミロビッチはボードの削り方の対価として特許料を払った。
そして1972年ソルトレイクシティで冬用サーフボードを開発を開始。
1976年には冬用のサーフボードとして、ウィンタースティック社をスタートさせて、世界でも初めての本格的スノーサーフボードを販売した。
それは、ジェイク・バートンがスノーボード会社を立ち上げた1年前のことであった。

1979年に世界で初めてビンディング付きの板をリリースした国産ボードMOSS

驚いたことに、ミロビッチよりも早くスノーサーフィンの可能性に導かれた人物が、日本にいる。MOSSの創始者の田沼進三は、1971年にスキー場の遊び用の板として、スノーサーフィンを設計して完成させた。女性の友達からスキー場に行くことを誘われたのだが、スキーができないサーファーだった田沼氏は、雪上でサーフィンすることを思い立ったのだ。


それから改良を加えて、1979年にスキーブーツをビンディングで留めることができる画期的な板を完成させ、モス・スノースティックの販売を開始した。
(※初期の頃のバートンも足を固定する革製の留め具はあったが、スリッパのように履くようなもので、完全に固定するという留め具はモスが初めてだろう。)
この時に発明された固定式ビンディングは、スキーの解放型プレートを改良したもので、現在アルパインボードに使用されているハードバインディングの原型となっている。

またあまり知られていないが、現在Burtonのボードで採用されているビンディングをスライドさせてスタンス幅を調整するシステムも、MOSSはすでに1980年代に開発している。

1982年 本格的なスノーボード大会の幕開け!

1982年は、スノーボードの歴史において、大きな出来事があった。
それは、本格的なスノーボード大会の幕開けだ。

1970年代後半から、スナーファーを中心に、小規模の大会が各地であったが、いずれもローカル規模のものだった。
おそらく、そのへんのスナーファー腕自慢のライダーたちが、「誰が一番か決めようぜ!」くらいのレベルだったと思われる。
その中で一際目立つライダーがいた。それは、初めてのスナーファーのプロとして知られるポール・グレイスだ。
彼はスピードを争うスナーファー大会の中で一人、勝手に360度回るようなトリックをしたりして、周囲を驚かせていたという。

そんなポール・グレイスが強さを誇ったスナーファーの大会で、突如、スノーボードを引っ提げて登場した男がいた。それは、スナーファーから改良してスノーボードに変革させたジェイク・バートンだった。
しかし、ジェイクが持って来たスノーボードは、スナーファーではない、大会にふさわしい用具ではない、と拒否されてしまった。
だが、グレイスが主催者に掛け合った結果、ジェイクの出場が許され、特別オープン部門で出場。
結局、特別参加枠はジェイク一人だけが出場することになり、優勝者となった。

小規模なスナーファー、スノーボードの大会が開かれる中、遂に本格的な大会を目指しポール・グレイスが全米規模の大きな大会を目指した。それが、1982年に開催された全米スノーサーフィン選手権(National Snow Surfing Championships)だ。

この記念すべき大会は、バーモンド州スイサイドで開催され全米から126名の選手が集まった。
その中には、バートン・スノーボードの創立者ジェイク・バートン、そしてスケートカンパニーからスノーボード・カンパニーに発展させたシムス・スノーボードのトム・シムスも出場した。

種目は2つで、1つはスピードを争うダウンヒル。ほぼ真っすぐに滑る度胸試しのようなコースで、スピードは60マイル(およそ96キロ)出たというから驚かされる。まさに当時のスノーボーダーたちの破天荒ぶりが伝わるレース内容だ。
優勝したのは、当時、バートンとバチバチのライバル関係が始まっていたトム・シムスだった。

一方、スラローム部門では、バートンチームのダグ・ブートンが優勝した。

この大会は、全米ネットワークのNBC TODAY、ABC放送のグッドモーニングアメリカなど主要メディアに取り上げられ、またスポーツ・イラストレイテッドにも紹介された。俄かに新しい横乗りの楽しさを理解した若者たちが出場した大会は、一躍アメリカ中から脚光を浴び、彼らはさぞ鼻が高かったことだろう。

(スノーボード創世記時代の大会で一番速かったトム・シムス)

大会を成功したことを機会にポール・グレイスは、翌年も同大会を開こうとしていたが、大会場所を見つけることができず困っていた。
そんな時、ジェイク・バートンが、地元の小さなスキー場、スノーバレーと交渉し再び開けることになった。
1983年の春に開催されたこの大会は、全米スノーボード選手権(National Snowboard Championships)となったのである。
そう、ジェイクの「スノーボード」の思い、新しいスポーツに掛ける情熱が、この大会の名称を決めたのである。

全米スノーボード選手権では、ダウンヒル、スラローム、総合部門の3つあったのだが、すべてにおいてバートンとのライバル関係にあったトム・シムスが優勝した。

また、その後もこの大会は続き、あとのUSオープン選手権に繋がっていくのである。正式には、1985年からUS OPENという名称が使われ、場所もストラットン・マウンテンに移され、より本格的な大会へと成長していく。

このUSオープンは、近年、オリンピックXゲームズ(X Games)と並んでスノーボードの3大メジャー大会とも呼ばれるようになった。

しかし、このバートン主催のUSオープン選手権は、昨シーズンのコロナ禍で幕を遂げ、今季は新たにミステリーツアーという形で復活している。
だが、USオープンの歴史を見て来た人にとっては、スノーボードの伝統的な大会名称がなくなったことは、残念な思いだろう。

この項目の参考リンク:
Woodstock 1982
http://www.snowboardinginsouthernvermont.com/woodstock-1982.html

Burton US OPEN HISTORY
https://events.burton.com/burton-us-open/history/

※この章では、下に紹介しているスノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生 / 福原 顕志 (著)を参考にさせてもらいました。読み始めたら止まらないほどおもしろい!ジェイク・バートンの伝記です。スノーボード業界やブランドのヒストリーに興味がある人には、強くオススメします。

1983年 日本でも第一回全日本選手権大会が開催!

1983年、スノーボードの発祥の地アメリカで全米スノーサーフィン選手権(National Snow Surfing Championships)が行われた翌年にはすでに!日本でも第一回全日本選手権大会が、秋田県の共和スキー場で開催されたのである。
優勝者は、初期の国内スノーボード創世記時代を牽引し、ムラサキスポーツのライダーでもあった松島勝美だ。(※種目不明だが当時の歴史を考えるとレース系であることは間違いないだろう。MOSS田沼氏の記憶ではスラローム。※2022年6月3日に取材確認)
また同年、第1回日本スノーサーフィンチャンピオンシップが、湯沢国際スキー場で開催されており、そちらの優勝者も松島勝美だ。種目は男子ダウンヒル。ちなみに当時、松島が使用していた板はバートンで、このスノーサーフィン大会自体はモスが仕掛けたもの。当時出場した選手は、20名程度と言われている。
その甲斐あって、スラロームではモスのライダー、広瀬裕昭が優勝。女子ダウンヒルとスラロームでもモスのライダー、和田千鶴が優勝している。
ちなみに和田さんは、かつて私のスノーボードの師匠であり、彼女からスキー場滑走許可を得るためのリフト係のおじさんにお菓子をお土産で持っていくことや、スノーボードという新しい遊びの魅力を伝えるために、雑誌撮影の時に収まる写真では笑顔をふりまくことなどを教わった。

その後に続く丸井スノーサーフィングランプリでは、玉井太郎、高橋邦彦、ジャンボ古川ら80年年代後半の国内スノーボード界を支える数々の名選手が生まれるている。

当時は、国内スノーボード協会3団体時代で、1982年に小倉貿易「バートン」販売開始しバートンによる日本スノーボード協会、モスによる日本スノーサーフィン協会、アヤックによる日本サーフスキー協会があり、それぞれに普及活動を行っていた。その後、画期的に統合。アヤックが販売不振から自然消滅し、モスとバートン代理店(小倉貿易)がスノーボード普及のために1987年に協会をまとめた。それは、日本スノーボード協会が日本スノーサーフィン協会を吸収合併という形となった。これにより、国内の活動を一元化し各地区大会、全日本選手権大会を毎年開催へ。さらに、新しい滑走技術の向上に努め、急速に改良される用具とともに発展していくこととなった。

(※以下、参考サイト『MOSSスノーボードの歴史』
http://www.pioneermoss.com/mosssnowboards/0910/history/history.html

●関連記事
スノーボード創生期時代から今に生きる「超」業界人/安藤 友規
https://dmksnowboard.com/tomonori-ando-snowboarding-in-its-early-days/

1983年 世界初のハーフパイプの大会がカルフォルニアで開催!

日本において初の国内スノーボード大会が行われていた頃、スノーボード誕生の地アメリカですでに世界初のハーフパイプの大会が行われていた。それが、トム・シムスが仕掛けたThe World Snowboarding Championships(場所:カリフォルニア州ソーダ・スプリングス)だ。
これまでスキーを模範としていたスノーボードの大会はスピードを争うダウンヒルとスラロームに限られていたが、ハーフパイプは初めてのフリースタイル種目。現在、フリースタイルの種目がスノーボード大会のメインストリームに在ることにおいて、こては大きな分岐点であったと言えよう。

そもそもスノーボードにハーフパイプという発想をもたらしたのは、ノース・タホの高校に通うマーク・アノリクという青年と仲間たちによるものだった。1979年の冬、当時、彼らの周りではスキー場以外でスノーボードすることは禁止されていたので、滑る場所を求めて周辺を探っていたのだ。すると、ゴミ捨て場周辺で、まるでハーフパイプのような地形の場所を発見。その遊び場を「タホ・シティー・パイプ」と命名した。このタホ・シティー・パイプで頭角を現したのが、スノーボード・フリースタイル界の父と言われるテリー・キッドウェルだ。キッドウェルはスケートボーダーだったので、スケートの技術をうまく利用して、そのパイプでトリックを行った。

テリー・キッドウェルの活躍を聞きつけ、トム・シムスが現場に開発中のボードを持参してやって来た。シムスはキッドウェルの卓越したフリースタイル技術に驚きチームに勧誘。そしてフリースタイル用のスノーボードの製作に取り組んだ。トム・シムスのフリースタイル・マインドが、遂にThe World Snowboarding Championshipsという形で1983年3月26日、27日に現れるのである。

それから2年後の1985年に、シムスは世界初となるラウンドテールのスノーボードをリリース。そのフリースタイル用ボードのモデル名には、テリー・キッドウェルの名が使われた。

1985年 スノーボードが世界に注目される映画『007』に登場!

スノーボードは、おそらく1980年後半になっても、ほぼ誰にも知られるものではなかった。日本ではもちろんアメリカでも、この時期にスノーボードという言葉を放ったとたんに、みんな「?マーク」の状況だ。私は1987年に高校生だったが、その時、アメリカにLAでホームスティをした経験がある。その当時のアメリカ人の中でも、スノーボードのことを知らない人が多かった。スノーボードというのは、1990年に入って急激に世の中に広まるのだが、1980年台はまだまだ世界中の極々一部のマニアックな人たちだけに楽しまれていたものだったのだ。

そんな80年代にアメリカ中、いや世界でもスノーボードを知られる大きな出来事があった。それが、ジェームス・ボンド主演の映画、『007』でスノーボードが登場したことだ。このスタントを買って出たのは、トム・シムスである。

悪い集団にボンドが乗っていたスノーモービルを破壊されると、モービルの片方のソリを利用してスノーボードをするという名シーン。おそらく全米中で「こんな雪上の遊びがあったのか!」と驚かれたに違いない。

ちなみに私は、1990年のニュージーランドでトム・シムスと似たような経験をしたことがある。
それは、まだ当時、日本でもスノーボードというものが知られていなかった時代、アルペンのテレビコマーシャルで真木蔵人さんの代わりにスタントとして、スノーボードをしたことだ。当時のCM映像は、実を言うと持っているので、いずれかの機会にご紹介できればと思う。ここでは本題であるトム・シムスのスタントシーンを、ユーチューブで見つけたのでご紹介しよう。主役のボンドがピンチの状態から、起死回生のスノーボードで悪者から逃げるシーンは今見ても痛快だ。


1987年 映画『私をスキーに連れてって』で日本で大スキーブーム到来!

スノーボードの歴史を紹介する記事だが、この出来事だけは外せない。
それは、1987年にリリースされた映画、『私をスキーに連れてって』の影響もあり日本で大スキーブーム到来したことだ。

当時の日本はバブル経済で、苗場プリンスなどをはじめ西部王国を築き上げた堤義明(つつみ・よしあき)氏は、世界一の富豪になった。今の時代で言うイーロン・マスク氏、ビル・ゲイツ氏の地位を日本人の堤さんが持っていたということである。
いわゆる土地バブルで、スキー場の価値が上がり、小さな島国の日本に230ものスキー場が誕生(注:1980年~1993年の間にできたスキー場の数)。その後もバブルの余韻で1993年にはマックスで630ものスキー場があったというから驚きである。そのスキー人気の象徴を決定すべき映画、それが映画『私をスキーに連れてって』である。

アフタースキーという言葉が流行したのもこの時期で、当時の若者はみんなスキー場に行きたがった。スキーを楽しみ、スキーの後のディスコで盛り上がった。マイカーを利用する者も多かったし、貧乏学生たちは夜行バスでスキー場にアクセスした。本当、誰もがスキーをやりたかった時期であり、1億2千万人にいる日本全国民の10%以上、1千万人以上がスキー人口になった時代。

この時期、日本人の多くはスキー場で遊ぶという体験を得たのである。
その経験があったからこそ、後に紹介するスノーボード・バブルという出来事に繋がっていった。

ちなみに、堤義明さんの息子さん正利さんは、スノーボーダーでスノーボードの良き理解者であった。苗場の隣にあった浅貝スキー場がスノーボードのたまり場となったのは、正利さんのスノーボードへの理解の深さだったと思う。
だから、当時、私たちは正利さんのことを親しい気持ちを込めて「マーちゃん」と呼んでいた。スノーボードに行くと、お付きの人が警備していたりして、ちょっと大変そうだった。

90年初期スノーボードブームの立役者!『ROAD KILL』が放ったニュースクール革命

1993年、その後のスノーボードのカルチャーを示唆するモンスタービデオ、『ROAD KILL(ロードキル)』がFALL LINE FILMS(フォールライン・フィルム)から放たれた。

https://youtu.be/nuVb-VTCRAY

この24分のVHSビデオには、4人のライダーたちが登場する。
ジョン・カーディエル、テリエ・ハーコンセン、マイク・ランケット、ブライアン・イグチらが古めかしいアメ車に乗って全米を旅をしながら、スノーボードのカッコ良さや楽しさを伝えるという作品だ。

すでにスノーボードのビデオ作品はあった時代だったが、振り返ればこの作品が大きく反コンペティション、反健全スポーツの旗頭だったと言えよう。今でもスノーボード界に脈々受け継がれる『スノーボードはコンペでなく、映像で表現されるべき。なぜなら、スタイルとはスノーボーダー民衆が投票で決めるもの』というカルチャーは、ロードキルが決めたようにも思うのだ。

1988年US OPENで初めてハーフパイプ競技が採用され、1990年にパイプ専用の重機、パイプドラゴンが開発された。1991年には国際的なスノーボード協会、ISF(国際スノーボード連盟)、そしてさらに同年、国内においてはJSBA(全日本スノーボード協会)も始動。スノーボードが、将来に向けた健在なスポーツ化が進む中で、ロードキルはその流れをぶった切るニュースクール革命をもたらしたと言えよう。

日本経済はバブル崩壊という津波を受けていたが、スノーボード界だけはちょうどこの時期、最も盛り上がったのだった。1993年には日本のスノーボード人口は20万人に達し、『私をスキーに連れてって』でバブリーな国内のスキーメーカーとスキー場もその後、急速なバブル経済崩壊でスノーボード人気にあやかることになる。
その結果、当時のスノーボード雑誌、SNOWing誌SNOWSTLYE誌の秋にリリースされるカタログ号はメーカーが増えすぎて、電話帳のような分厚い雑誌に成長。当然この時期、スノーボードショップも増えるし、大手スポーツショップはスノーボード売り場を拡大していくことになる。
同年、日本スノーボード教程も出稿されて、スノーボードはその後、一気に広がって行くことになるのだ。

(90年代に入ってスノーボード・ブームが来ると、専門誌がどんどん増えて行った。その中でもスノースタイル誌とスノーイング誌は、その先駆け。写真提供:帰ってきたスノウボヲド・マン

急にこの市場に参入し始めた様々な人たちの思惑の中、バブル経済崩壊後もなぜかスノーボードだけは盛り上がった。ケータイもなかった当時、遊び場が東京ディズニーランドしかなかった多くの若者たちがスノーボードに群がったのだ。彼らの一部は大会を目指したが、多くはロードキルのようなスノーボードならではの新しいムーブメントに憧れて、スノーボードを始めた。
スキー場のビギナーコースには芋畑のように座った初心者が集まっていたが、一方でロードキルに感化されたフリースタイル・ボーダーたちは、「スノボと略して呼ぶのは止めてくれ!」と叫んでいた。
これは言わばスノーボード・バブルと言う出来事だった。

この時、私は神田にあったビクトリア、さらにはミナミ・スポーツという大手チェーン店でバイトしていたが、お客さんから10万円以上もするスノーボード2点セット(ボートとブーツ)を接客せずに「これください」と言われたことに閉口したものである。あの時、週末一日のバイトで100万円の売り上げを立てていた。冬前には、Burtonのテリエ・モデルとジム・リッピーが売り切れていて、12月に買い求めるお客さんに、「もう、ありません」と言い続けていたことを思い出す。

実家に残っていた90年初期のスノーボードビデオVHS。
左)FEAR OF A PLANETはバートンチームの作品。アルペンとフリースタイルが融合していた当時ならではの作品。
中)BOARD WITH WORLDは、スノーボード神を呼ばれたクレイグ・ケリーをフューチャーした作品で、このフッテージは今なお切り取られて使用されることがある。
右)Critilacal Conditionは当時台頭して来たFALLLINE FILMSの作品で、当時を代表するライダーの一人、ダミアン・サンダースのぶっ飛びには完全にやられてしまった。

1998年 長野オリンピックで初のスノーボード種目が開催

US OPENで初めてハーフパイプが行われてからわずか10年という期間で、スノーボードは正式にオリンピック種目に加わった。行われた競技は、スピードを争うパラレル大回転と演技のレベルを競うハーフパイプだ。
当初、スノーボードはその4年後のソルトレークシティー五輪で正式種目デビューを飾る予定だった。しかし、IOC国際オリンピック委員会は、世界の若者から注目されてスポンサー企業からお金を生むスノーボードを一早くオリンピック種目にしたかったのである。結果、当時あったスノーボード国際連盟ISFを無視するような形で、これまでスキー種目を一任していたFIS(スキー連盟)にスノーボード種目を管轄するようにIOCは、指示したのであった。
(※ISFはFISのような育成システムが発達しておらず、現在のX Gamesのようなイベント団体であったこともIOCに支持されなかった大きな要因の一つ)

これまでスノーボード大会を運営していたISF、これまでプロ大会に出場していたスノーボード選手たちは、そのIOCが下した処置に大憤慨し、現場は大混乱となった。
例えば、オリンピック前に行われたISF主催のワールドカップでは、「Fワード」を付けたFISに対する怒りのTシャツなどが選手や関係者に配られていた。
象徴的な例は、世界の圧倒的な頂点に君臨していたライダー、テリエ・ハーコンセのオリンピックのボイコットだろう。当時、誰もが金メダル間違いないと思っていたスーパースター選手が、オリンピックが出ないことで、長野大会は本当の意味での世界最高峰のスノーボーダーを決める大会ではなくなってしまった。

当時のゴタゴタぶりや、スノーボードがオリンピック種目になった経緯は、以下のリンク記事でも紹介しているので、ぜひ一読していただければ、と思う。

●関連記事
長野オリンピック選手選考はSAJ決定ではなくJSBA選考の話が出ていた
https://dmksnowboard.com/nagano-orympic-uproar/

記念すべき最初のオリンピックの金メダリストはパラレル大回転種目のカナダ出身ロス・レバグリアティ。女子は、フランスのカレン・ルービー。
しかし、メダル獲得後にレバグリアティの循環器からマリファナが検出され、メダルを剥奪された。これに対してマリファナはカナダでは非犯罪であり、競技のパフォーマンスを強化する効能は発表されていないとレバグリアティは主張し、結局はメダルが戻った。しかし、この一件でスノーボードのイメージを改めて世間に対し悪影響を及ぼしたことも事実だ。

一方、注目のハーフパイプ種目では、スイスのジャン・シーメンが金メダル。女子は、ニコラ・トーストが金に輝いた。
しかし、当時のシーメンはノーマークの選手で、彼が金メダルを獲ったことで、大会のジャッジメントへの疑問が残った。実際、この大会に出場した当時のスター選手の一人、メダル獲得を逃したアメリカのトッド・リチャードは「テリエは正しかった。オレもオリンピックに出るべきではなかった」とジャッジメントへの反対意思を伝えた。トッドは今年開催された北京オリンピックのテレビ解説でも、平野歩夢の決勝2本目のスコアの低さに「あり得ない!」とコメントしており、まさか24年後もハーフパイプ・ジャッジに文句を伝えることになるとは!

スノーボード界の父と呼ばれるBurtonスノーボード創始者のジェイク・バートン氏もオリンピック観戦のために来日したが、テリエが出ないスノーボード大会よりも、ホッケーの試合の方が興味があったようで、「アメリカのドリームチームを応援しに来た」とコメントを残している。
ちなみにバートン氏の妻の父は、北アメリカのプロアイスホッケーリーグの1チームのオーナーでもあり、ホッケーに関心が強い。

ともかく、てんやわんやで始まったスノーボードのオリンピック・デビューだが、結果的にはその後、より世界中の人たちに関心を寄せることになった。ややマイナー感があり、コア層に支持されて来たスノーボードだが、この長野オリンピックを機会にスポーツ化となっていったように思う。世界中でスノーボードのナショナルチームが誕生し、育成機関も設けられた。この後、オリンピックに出場する選手たちは、スポンサー契約金額も上がっていき、ショーン・ホワイトという超スーパースターを誕生させることになる。
しかし、一方でスノーボードが培った来たカルチャーが吹っ飛ばされてしまったとも思う。オリンピックでは表現され難いスノーボードのカッコ良さ、ライダー間で伝えられて来たスタイリッシュさもないがしろになってしまった。このことは、現在のスノーボードのシーンを見ても明らかで、業界はオリンピックという巨大なイベントにノックダウンされてしまったのだ。今ではオリンピックで金メダルを獲ることが、スノーボードの頂点と見られるようになってしまった。

https://youtu.be/8h3tTGRgV9o

●以下リンクは、長野オリンピックに出場した日本人7人の選手一覧。
https://www.joc.or.jp/games/olympic/nagano/sports/snowboard/team/


●参考:1988年長野オリンピック前後の主なスノーボード界の出来事

1994年、オーストリアのインスブルックで初のビッグエア・イベント、AIR & STYLEが開催。
ちょうどこの年にFISがスノーボードをスキー競技の公認種目に加えた。

1995年、アメリカの大手スポーツ専門テレビ局ESPNが、X GAMES(Xゲームズ)を開始。

2001年、東京ドームでX-TRAIL JAM開催。その模様は日本テレビ系で日本全国へ放送され、スノーボード・ブームを牽引。しかし、スポンサーである日産が撤退し、2009年に消滅。

2002年、スノーボードの国際連盟、ISFが消滅。その後、世界スノーボード連盟WSFが発足し、現在に至る。


ショーン・ホワイトがスノーボードの大会種目を世界最高峰へ昇華

2002年に開催されたソルトレークシティ・オリンピックの男子ハーフパイプでは、アメリカ勢が表彰台を独占。金メダルにロス・パワーズ、銀メダルに当時ひじょうに人気が高かったライダー、ダニー・キャス、そして銅メダルはJJトーマス(※後のショーン・ホワイトのコーチも務める)であった。
一方、女子の方の金メダルはケリー・クラーク。
この結果は、徐々に五輪でのスノーボード種目が、世界最高峰になっていくことを意味していた。ただ、この時期はまだスノーボードの真の世界一を決める大会とは言い難がった。というのもプロ選手たちは、オリンピック直前イヤーで出場するためだけに、FISが主催するワールドカップに出場する傾向があったからだ。金メダルを獲ったロス・パワーズは、このオリンピックを機会にスノーボード・ファンから認めれていくが、以前からスノーボードを親しむファンにとっては、オリンピックに出場している選手が、本当の意味でトップと言い切れないような印象があったのだ。テリエによるオリンピックのボイコットは、まだ尾を引いていた時代と言えよう。

ちなみに2010年のトリノ五輪では、スノーボードクロスも初開催されたのだが、当時のスノーボーダーたちは同競技名を「ボーダークロス」と呼んでいた。しかし、この名称には特許が存在していたので、オリンピックで同競技を採用したいFISは、「スノーボードクロス」と改めたのである。このことも当時のスノーボーダーからは、嫌悪感をもたれた。オリンピックにおいて、スノーボードという種目はどこか外様な存在であった。

ところが、2010年のバンクーバー五輪でショーン・ホワイトが金メダルを獲得してから、オリンピック競技においてのスノーボードが一変していく。私的には、このことをアフター・ショーン時代ビフォワー・ショーン時代と呼びたい。

https://youtu.be/OAfc-nj3bgM

ビフォワー・ショーン時代では、オリンピックにおいてのスノーボードはまだマイナーな存在。また真の世界一をふさわしい選手が揃っていなかったように思う。また、メダルを獲得した選手が、ミリオネアになることはなかった。
一方、アフター・ショーン時代では、オリンピックこそ世界一を決めるスノーボードの大会となり、事実、大会の度に新たな技が誕生していく。オリンピックの中で、スノーボード種目が花形種目となっていき、この後、スロープスタイル、ビッグエアという種目も加わっていくことになるのだ。自然、オリンピックで活躍した選手は、より注目されるようになり、オリンピック後には頻繁にテレビなどのメディアに出て有名人に。結果、オリンピックで活躍できるライダーこそ、お金をより稼ぐ選手となっていく。

かつて、不良の遊びのようなスノーボードは、より健全なスポーツとなっていき、世界中で選手の育成システムが急速に発展。例えば、日本においてもハイスクールでスノーボード選手を支援するプログラムも誕生している。

ショーン・ホワイトが活躍した2010年から2022年という12年間の歳月は、スノーボード界にとって重要な格上げ期間となったと言えよう。
スノーボード選手は、よりお金を稼ぐことができるようになり、世間に知られる存在となり、尊敬される対象になったり、あるいは逆に非難を浴びる有名人になったりもした。
そして、技の難易度は年々増す一方で、さらに選手たちは命を懸けて戦うようになるが、一方でスノーボードが昔から培われて来たスタイルがメインストリームから失われていくことになる。


北京オリンピックで日本人スノーボーダー平野歩夢が初の金メダル獲得!

平野歩夢の登場は、日本のスノーボード歴史において、大きな分岐点となったと思う。
1998年の長野オリンピックの時に、日本人がメダルを獲得することなどなかなか想像できなかった。

俄かに期待が高まったのは、ソルトレイク五輪の時だろう。あの時、中井孝治は疑惑のジャッジとは言われながら4位入賞。
同時に出場した選手の中には、現在コーチとして活躍する村上 大輔の姿もあった。
トリノ五輪では國母和宏が出場し、続くバンクーバー五輪ではあの國母の服装騒動。カズはメダルを期待されながらも8位入賞となったが、あのへんの時代から日本人選手のメダル獲得の雰囲気が高まっていった。
同大会には、村上と共にコーチとして青野 令も出場し9位となっている。

現在の平野歩夢の世代は、カズに影響され村上、青野の両コーチに支えられ、また中井のテレビ解説でオリンピックで活躍を始めたのである。

言い換えれば、もう少しでメダル獲得できた世代が現役選手を引退し、彼らが支える土壌で日本人はスノーボード大国へ成長したのである。

そして2014年、ソチ五輪で遂に平野歩夢がオリンピック日本人台頭の風穴を開けた!
15歳74日でのメダル獲得は冬季オリンピックにおける日本人史上最年少記録を達成。同種目で銅メダルを獲得した平岡卓と共に、日本人史上初のスノーボード競技でのメダル獲得となった。

平野は続く平昌五輪でも銀メダルを獲得し、そして遂に今年の北京五輪でトリプルコーク1440を決めて金メダルに輝いた!
女子ハーフパイプでも冨田せなが銅メダル。
スロープスタイル女子では、村瀬心椛が銅メダルに輝いた。

メダルを獲った選手はもちろん素晴らしいが、メダルを獲れなかった選手たちも充分に可能性を感じさせるほどの実力者ばかりだった。
おそらく今後のオリンピックでは、これまで以上に日本人メダリストが増え、日本は世界の中でも最もスノーボードがうまいライダーたちが現れるだろう。

かつてもう少しで世界に頂に届いた選手たちが、若いライダーたちをサポートする時代に入った。
また、日本はキングスやクエストなどオフ施設も盛んだ。
何より、日本人の小柄な体型はスノーボードのフリースタイル向きなのである。
今の若い選手は、90年代に日本人スノーボーダーが感じた世界の壁はまったくない。「自分たちが世界の頂点に立てる!」というマインドでスノーボードをしているよう。

気づけば、オリンピックのスノーボードがメインストリームに立った感があり、日本だけではなく世界のスノーボードシーンもオリンピックの影響化が強まった。
スノーボードのエアは、さらに高くなり、トリックの回転数も増えていった。
そのことは、スノーボードが古くからあったスタイルを阻害することにも繋がってしまったが、一方で、かつて脚光を浴びた映像の世界では、まるで伝統芸能のように密かに発展も続けている。

スノーボードのメディアは、かつてのように専門誌でブイブイ言わせることができなくなったが、一方で世界の各ライダーたちが、SNSという新しいコンテンツで伝統芸能を昇華させてくれるようになった。オリンピックという枠に収まることができない彼らだが、しっかりとスノーボード・カルチャーを築き上げてくれている。
ストリート、バックカントリー、パウダーシーンなどで、彼らはさらにスノーボード・アート感を高めてくれているのだ。

おそらく、今後のスノーボード界もオリンピック競技の方では一般の人に大いに脚光を浴び、一方でアンダーグランドの中でスノーボードのコアの部分が密かに成長し続けていくに違いない。

●2010年代にスノーボード界の2つの巨星落つ

2012年 トム・シムス他界(享年61)
2019年 ジェイク・バートン・カーペンター他界(享年65)

Credit: Gatting image

The Story of Snowboarding(MOVIE)

参考文献&サイト

スノーボードの誕生 なぜひとは横向きに滑るのか/ 田嶋リサ (著)

スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生 / 福原 顕志 (著)

●この特集記事は、以下のサイトも参考にさせていただきました。

全日本スノーボード協会
スノーボードの歴史
https://www.jsba.or.jp/information/history/

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スノーボード 歴史

飯田房貴
1968年生まれ。東京都出身、カナダ・ウィスラー在住。
シーズン中は、ウィスラーでスノーボードのインストラクターをしており、年間を通して『DMKsnowboard.com』の運営、Westbeach、Sandbox、Endeavor Snowboards等の海外ブランドの代理店業務を行っている。日本で最大規模となるスノーボードクラブ、『DMK CLUB』の発起人。所属は、株式会社フィールドゲート(本社・東京千代田区)。
90年代の専門誌全盛期時代には、年間100ページ・ペースでライター、写真撮影に携わりコンテンツを製作。幅広いスノーボード業務と知識を活かして、これまでにも多くのスノーボード関連コラムを執筆。主な執筆書に『スノーボード入門 スノーボード歴35年 1万2000人以上の初心者をレッスンしてきたカリスマ・イントラの最新SB技術書 』『スノーボードがうまくなる!20の考え方 FOR THE LOVE OF SNOWBOARDING』がある。
今でもシーズンを通して、100日以上山に上がり、スノーボード歴は38年。
スノーボード情報を伝える専門家として、2022年2月19日放送のTBSテレビの『新・情報7daysニュースキャスター』特集に、また2022年3月13日に公開された講談社FRIDAY日本が「スノーボードの強豪」になった意外な理由にも登場。
インスタ:https://www.instagram.com/fusakidmk/
ツイッター:https://twitter.com/dmksnowboard

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