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文:飯田房貴 [email protected]

2000年代前半、彗星のごとく現れた新時代のスノーボード界のニューヒーロー、シモン・チェンバレン。
JPウォーカーやジェレミー・ジョーンズというジブの世界を切り開いて来た先駆者からバトンタッチし、次世代の担い手として脚光を浴び、当時の人気スノーボード・ムービーに登場し大きなインパクトを残した。
またシモンが来ている象徴的なロゴ・Tシャツ&フーディーに掲げられたNOMISブランドも、瞬く間に大人気!当時は、最も躍進したアクションスポーツ・ブランドとして名を轟かせた。

おそらく2000年代のスノーボード界のプロとして最も歴史に名を刻んだのは、このカナダから誕生したシモン・チェンバレンと、その数年後に台頭したノルウェー出身のトースタイン・ホグモだろう。この時代、スノーボード・ムービーの世界やXゲームスなどで、この二人が主役を張って来た。
しかし、一方のヒーローは、7年ほど前に忽然と姿を消した。同時にNOMISというブランドもなくなってしまった…。

一体何が起きたのか!?

その真相を伝える動画が、この程、air time podcastユーチューブ・チャンネルから公開された。なんと7年ぶりにシモンが現れたのだ!

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今、彼はいったい何をしているのだろう?
7年前に突然消えた理由は?


この2時間30分以上にも及ぶインタビューで、シモン・チェンバレンは赤裸々に過去のSTORYを語った。

17歳の高校生が突然に世界中から注目された経緯
最初のプロ・スノーボーダー月収が500ドルであったこと
最盛期のNOMISの売り上げが20ミリオン(約20億円)の売り上げを記録!

Xゲーム出場前に兄弟・仲間たちが次々に解雇されて、自分だけがとり残された辛かった思い出
など。

自分は幸運にもシモンが17歳の時に出会い、それからずっと彼のプロ・スノーボードの活動を見ることができた。いっしょにハウツーのビデオ、vitamin JIBやDVDマガジンのPEAKを作った。さらに、彼の家族と仲間で作ったNOMISブランドの日本代理店ディトリビューション・ワークも行った。当時、撮影を手伝ってくれたアキ(株式会社カムサイドCEO松澤 聡比古)は、現在は映像プロデューサーとして花開き、大活躍中だ。あとで紹介する代理店ムラッチョ(株式会社フィールドゲート代表・村田善夫)との関係を含め、シモンとNOMISがあったからこそ、現在の自分がいるのは間違いない。

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シモンのことはよく知っていたと思っていたが、今回、このair time podcastでのSimon Chamberlainインタビューは、さらに深く当時の彼の思いを知ることができた。

そこで、スノーボード界に与えた功績を称えて、改めてシモン・チェンバレンというプロ・スノーボーダーのことを伝えてみたい!

いったい、このSTORYがどこまで長いものになってしまうのは、今の自分にはわからないが、できる限り多くの人に興味をもって知ってもらえるように努力する。

特に、これからスノーボードでオリンピックを目指すキッズや親御さん、さらにはスポンサーを得ながら、なかなかプロとして喰っていけないジレンマを抱えているアマチュア・ライダーに向けて、メッセージを伝えたいと思うのだ。気になる方はぜひ僕といっしょにこのSTORYの旅に付いて来てほしい。

協力:TOPEND

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プロローグ 17歳のシモン・チェンバレンと出会い

春のウィスラーのイベントの中でも最も注目されていなかったスノーボード種目だった思う。
小雨が降る中、僕はフィルム一眼レフNIKON片手に、ビレッジ・スクエアで行われたジブ大会の取材に向かった。当時のフィルムカメラは、32枚でフィルム交換だったので、シークエンス撮影では常にフィルム枚数をチェックしながら、撮影していた。
撮影アシスタントは、ライダー志願者だったハジメだ。彼は、後にNOMISのライダーとして活動し、アドバイザーとしても頑張ってくれた貢献者である。スノーボード専門誌の撮影の手伝いや、DMKサイトのコンテンツのアイデアなどでもアドバイスしてくれて、僕にとっては重要な弟分でありパートナーだった。後にハジメが、ホリエモンの運転手になったと聞いた時には超笑ったけど、彼らしい破天荒な生き方だとも思った。その後の活動はスキー場のバーテンダーであったり、メーカーのチーム・マネージャーだったり、今はどこにいるのかわからないが…。僕にとって初期の頃のシモンとNOMISを繋ぐ上で、重要なピースになってくれたことは、今でも感謝している。

ともかく!そんなハジメと取材に行ったジブ大会で、とんでもない才能の持ち主と出会った。それが、後にスノーボード界を席巻するシモン・チェンバレンだった。

無名なのに、あきらかに異質のうまさだった。特別に派手な技をやる印象はなかったが、アイテムに乗る姿、そしてアイテムを擦っている姿がともかく印象的なのだ。おそらく当時から培っていた、プレス力にその魅力が隠されていたのだろう。まるで川が流れるようにスムースに放つ技は、他のライダーたちを圧倒したのである。シモンがアイテムに乗った瞬間に、まるでその周りの世界がスロービデオのように静かな空間になってしまうのだ。
当時、僕は日本の専門誌、SnowBoarderの取材も兼ねていて、彼の魅力に迫る大会の様子をレポートしていた。そして、優勝インタビューしたのが、シモンとの始めての会話だった。
初めて話した時の第一印象は、「好青年」。これまでのプロ・スノーボーダーでありがちな悪っぽさがなく、スマートなハンサムボーイで、言葉の発し方も和やかでやさしい。礼儀正しい若者だった。

そして、このジブ大会の撮影の後に、ハジメがとんでもない情報を持って来た!

「フサキさん、大変です!あいつ、ニクソン・ジブ・フェスタで優勝していますよ。」

えっ、マジか!

僕は、そのメッセ―ジを聞いた時、地球がひっくり返るほど驚いた。
なぜなら、Nixon Jib Festa(ニクソン・ジブ・フェスタ)は、当時のスノーボードの大会で最も熱い一大イベントだったのだ。
今でこそスノーボーダーにとっては、オリンピックは大きなものだが、あの当時は五輪もなくUS OPENよりもAIR&STYLEよりも!刺激的な大会だったのだ。一般層はともかく、特にコア層にとってNixon Jib Festaはヤバい大会だった。

で、あまりにも気になるライダーだったし、どうしても撮影したくて、ハジメに撮影の斡旋するように指令を送った。そう、当時の彼は僕の忍者でもあったのだ(笑)。

最初にシモンに会ったのが、ウィスラーのクロージング・ディだったので、撮影は夏になってしまった。ブラッコムで行われていたサマーキャンプ、Camp Of Championsはシモン・チェンバレンの夏場のステージとなるが、当時のシモンはまだまだガキンチョ扱い。キャンプのアイテムには勝手に入れない身であり、僕たちは秘密裏にパークに侵入し撮影したのだった。

シモンは、当時ルームメイトであり同じStepchild Snowboardsの若きライダーであったサイモン・フレイザーと共にやって来た。
ヒップでスイッチバック9を決めて、レールでもほぼノーミスでバシバシで決める!文字通り、NOMIS(ノーミス)男。サイモンもうまかったけど、シモンの抜きんでたスタイルには、驚かされた。

この帰りのバス(と言てもセブンスヘブンからの山道の帰りだよ)で、Stepchild Snowboardsのオーナー、ショーン・ジョンソンから突然に電話があった。彼は、おそらく当時のスノーボード界において、最も天才的野生なビジネス感があった人物であるが、ジョンソンのことは後々紹介していきたい。

シモンはバスの中で、「ショーンがフサキと話したいって」と、いきなりケータイを渡してきたのだ。

「Hello!」

「やあ、フサキ。今回はオレの可愛いがっている若いライダーたちを撮影してくれて、ありがとう!で、どうだった?」
「ヤバかったよ。ノーミス連発だし、スタイルも抜群で驚いたよ!」
「そうだろ。本当にヤバいライダーだよ。これからもよろしく頼むよ」

結局、「よろしく頼むよ」から僕とシモンは毎年いっしょに撮影するようになる。そして、シモンは毎年、様々なニュータレントたちも引き連れて来てくれた。当時、シモンが紹介してくれたガキンチョたちは、あとのスノーボード界で羽ばたいていったプロ・スノーボーダーだ。

マーク・ソラーズ、ジョー・セクストン、ジェド・アンダーソンなど。
今、振り返れば、とんでもないライダーたちと古くから付き合ったもんだ。
それもシモンが紹介してくれたお陰である。

(左から中坊時代のジェド・アンダーソン、ウィスラーのハイスクール生だったマーク・ソラーズ、シモンに多大な影響を与えた長兄マット・チェンバレン、まだヤンチャだった頃の当時19歳のジョー・セクストン)

簡単ではあるが、以上が僕とシモンの出会い、そして後々までに続くSTORYのプロローグだ。

エピソード1 ママはレンタルボードを許さない!

シモンが育ったのは、カナダの東オンタリオ州にある小さな町だ。
彼には、年が離れたお姉さんがいて、また3つ年上の兄マット(※後にNOMIS代表)がいる。そして12分だけ先に生まれた双子の兄のアンドレ(※後にNOMISチームマネージャー)がいる。
基本的には、お姉さんはずっと年が離れているので、シモンとアンドレの双子の兄弟がやっていたことは、3つ上の兄マットにすべて影響を受けたと言ってよい。

子供の頃、シモンがハマっていたのは、スケートボードとアイスホッケーだ。カナダではどこの子供もやりそうな遊びである。
その内、長兄のマットが、突然、スノーボードをやってみたくなって板を買ったという。その板は、300ドルの板、Kemper Snowboardsだった。

当然、何でも長兄の真似をしたがるアンドレとシモンだったので、いっしょにスノーボードに行くようになった。
だけど、子供を4人も抱えたチェンバレン家族には、ホッケー用具とスノーボード・ギアを買う余裕などはなかった。
「あなたたち、スノーボード・ギアとシーズンパスを買うか、ホッケー用具にするか、どちらかにしなさい!それがクリスマス・プレゼントよ」とママに言われたそうだ。そこでアンドレとシモンは、スノーボードとシーズンパスを選んだ。

ママは、シモンたちにレンタルのボードを借りることを許さなかった。

レンタルのボードを借りたところで、どうせスノーボード一式を買うことになる。そのお金がもったいない。またシーズンパスを買えば、ホッケーができなくなるけど、スノーボードでずっと遊べる。「だったら、最初からボードを買って始めないさい」ということなのだ。そこでシモンは、中古の板、Nitro Snowboardsを200ドルほどで買った。
こうしてシモンは、「スノーボードを絶対にやらなくていけない」という退路を断った状況で始めたのである。

その頃のオンタリオ州のスキー場には、まだスノーボードを禁止しているところも多かった。また、周りにもスノーボーダーはいなかった。
ただ運が良いことにシモンたちがシーズンパスを買ったスキー場は、家から25分という近い距離にあった。

すでにスノーボードを始めていた長兄マットのショート・レッスンがあった。
一言、二言ほどスノーボードの滑り方を説明すると、そのままシモンとアンドレを置き去りにして滑り降りていってしまった。当然、シモンたちはそのへんで転がり回ることになる。相当痛い思いもしたが、幸運にも転がりながらもなんとかサバイバルに成功!3日ほどで軽くジャンプも決めれるようになったという。

三兄弟があまりにもスノーボードが好きなことを知って、お父さんはある日、SNOWBOARD CANADA誌(※当時あった専門誌)を買って来てくれたそうだ。そこには、その頃のスター、ケビン・ヤングがフロントロデオ5を決めているシークエンス・ポスターがあり、それをずっと眺める日々が続いた。シモンの最初の憧れのプロは、自国のスター、ケビン・ヤングだったのである。

筆者が、初めてカナダのウィスラーに来たのは、90-91シーズンでその頃、たまたま自分が住んでいたアパートにやって来たのがケビン・ヤングだったので、この話を初めてair time podcastで知って凄く縁を感じた。ケビンは、春のWestbeachクラッシック大会のためにやって来て、3週間ほどウチのアパートに転がり込んだ。僕とケビンは、同じキッチンをシェアしていたので、よくいっしょに夕食を食べて、ビールを飲みながら寿司を作った楽しい思い出もある。

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(自分が出会った頃のケビン・ヤング。おそらく92年夏の頃の写真。シモンは、この後、2、3年後のケビン・ヤングに影響を受けたのだろう。ロデオフリップはピーター・ラインによって誕生したトリックと言われているが、実際にはケビンの方が早く、命名もケビンが行ったトリックだ)


シモンの話に戻そう。
シモン兄弟たちが、最初にハマったビデオは、SIMPLE PLEASURES(シンプル・プレジャー)だ。このビデオを何度も何度も巻き戻しながら見た。
そして、さらに彼らをノックアウトさせた作品が、DECADE(ディケード)だった。この一撃を食らった後のシモンは、寝ても覚めてもスノーボードのことばかりを考える青年に育っていった。当時のトップ・フィルムプロダクションズのマックダウ(Mack Dawg Productions)は、さらにTECHNICAL DIFFICULTIES(テクニカル・ディフィカルティーズ)というウェポンを放った!

結果、シモン兄弟は、学校に行く前にDECADEを見て、学校から帰るとすぐにTECHNICAL DIFFICULTIESを見るという生活になった。あまりにもVHSビデオテープを巻き戻すことから、その内にピーター・ラインのパートがテープが擦り切れて見れなくなってしまった。

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(90年代、当時のキッズたちを夢中にさせたマックダウ・シリーズ。その頃のスノーボーダーたちは、この作品にイチコロだった)

その姿を見ていたお父さんは、相当あきれたという。だが、シモン兄弟のお父さんは、あれをやれこれをやれ、というようなことを制限せず、子供たちが好きなことを応援する父親でもあった。いつでもスノーボードをしたいシモンのために、裏庭にジブ施設を作るのを手伝った。また、夜でも滑れるようにナイター照明も付けてくれた。
またシモンは、オフシーズンになると、家の中にマットを敷いて、ジブの練習するようにもなった。当然、ドタンバタンうるさいのでママに叱られるが、シモンが本当にスノーボードが大好きだったエピソードである。

エピソード2 スポンサー獲得のために夢のサマーキャンプへ

シモン兄弟たちが住んでいた隣町には、ブラッド・マーティン(※)というちょっと年上のスノーボーダーがいたという。
彼がある日、シモンたちに言った。
「オレ、ウィスラーに移り住んで、スノーボードするよ。で、ウィスラーというところは凄いんだ。夏でもスノーボードができるんだぜ」
「マジ―かよ!ヤベー!」とシモンは叫んだ。
「ああ、お前さんもこの夏、遊びに来いよ」

そんなことできたら、どんなに素晴らしいことか!シモンにとって真夏のブラッコム・グレーシアで滑ることは大きな憧れとなった。
いつか夢を実現したいと、心からそう願った。

しかし、当時のシモンは14歳。お父さんは、大学で海洋関係の講師であったことから、夏には臭いフィッシュタンクを掃除するバイトをしていた。だが、そんなバイト代では、到底、東のモントリオールから、西のウィスラーには行くのは不可能だ。カナダの国は大きい。トロントからバンクーバーまでは飛行機で5時間以上も時間が掛かる。

そんな困っていたシモンに、ママは遂に音を上げて、飛行機代を出すことを申し出てくれたのだった。
「まったく、いつもあなたたちの頭の中にはウィスラーに行くことばかりね。そんなに行きたいのだったら、行けばいいわ。でも、あとの小遣い、生活費は自分たちで払うのよ」

シモン一家は大家族で、両親は子供を養うのが大変で、これまで飛行機に乗るような大きなトリップに行ったことがなかった。そこで、ママはウィスラーに行きたいシモンたちの気持ちを汲んで、飛行機代を出してくれたのだった。

大喜びしたシモンは、長兄マットと双子のアンドレと共にウィスラーへ向かった。
初めて飛行機の窓から見る景色は、とても新鮮でシモンの胸が躍った。
だけど、まだ14歳であったシモンとアンドレによくぞトリップを許したと思う。ママとしたらしっかり者の長兄マットがいれば、安心だったのだろう。何せマットは、後に二十歳そこそこでNOMISの社長で活躍するほどの立派な人物。常に弟たちの面倒を見て来た頼れるお兄さんだった。

僕もマットと初めて会った時から、彼の人格に惚れ込んだ。
常にプラス思考で明るく、思いやりがある。聞き上手だったので、ついついマットを話していると、時間が経つのが忘れるほど楽しかった。

バンクーバー空港に付いたシモンたち一行。しかし、右も左もわからず、どのようにしてウィスラーに行けば良いのかわからなかった。費用を少しでも安く抑えたい兄弟たちは、空港からの直行バスを使わずに、なんとかバスを乗り継いで、ウィスラーに到着することに成功。それにしても、重くてどデカいスノーボード・バッグを持ちながらローカルのバスに乗ったのは、今、振り返るとなんとも滑稽だったと言う。

それからは毎日のようにブラッコム・グレーシアに上がり、キッカーやジブを攻めた。
そして、お父さんが学校で使用していた古いビデオ・レコーダーがあったので、それで毎日、兄弟で撮影し合った。
パブリックのパーク・アイテムだけだとフッテージ(映像)としてはインパクトが弱いので、時にはお金を払わないと入れない巨大サマーキャンプ、Camp Of Championsのパークにこっそり入って、撮影することもあった。

そんなウィスラートリップも無事終了し、家に帰ってからビデオ編集。
シモンは、スポンサーを獲得するために、編集した映像を持って、当時のOption Snowboardsのレップ(メーカーの各地域の代理店のこと)、さらには地元のショップにアプロ―チした。
その甲斐あって、なんとかプロディール(※安くボードを買えるシステム)ながら、スポンサーを獲得することができた。プロ・スノーボーダーという階段を1つ駆け上がったシモンだった。

(※ここでシモンが語ったブラッド・マーティンは、おそらく2006年トリノ五輪にも出場しているカナダ代表のオリンピック選手だろう。ブラッドもシモンと同じオンタリオ出身で、ウィスラーに住んでいたという資料が見つかった)

エピソード3 最初のプロ・スノーボーダーの月給は500ドル

ウィスラー・トリップの後、ますますスノーボードの熱が高まったシモンは、翌年もさらに2年後もウィスラーで過ごすことになる。合計3シーズン、ウィスラーの夏を経験した。
普段はお父さんの仕事、フィッシュタンク掃除を手伝いながら小遣いをためて、冬の間、地元モントリオールの方ではパイプばかりに入っていた。というのも当時のモントリオールのスキー場は、ジブなどのパーク施設がなくパイプだけしかなかったのだ。

だが、パイプを目指した人ならわかるが、パイプほどスノーボードのフリースタイル・テクニックが凝縮されているようなところはない。多くのプロ・スノーボーダーたちがかつてパイプ戦士であった理由は、パイプはまるで道場のようにフリースタイルの滑走技術を鍛えてくれるからだろう。

夏のサマーキャンプ・シーズンでは、お金がないシモンたちはパブリックのパークしか滑れなかったが、当時のCamp Of Championsのコーチが隠れて(?)キッカーを飛ばせてくれたそうだ。その時、いくらかコーチに支払って、シモンは大きなキッカーを飛んだという。

こうしたキッカーで飛んだ姿が、当時すでにプロ・スノーボーダーからフィルム・プロダクションズのSkids(スキッズ)を始めていたケビン・サンサローンの目に留まった。そこで、ケビンは自身のシグネチャーの板をシモンにプレゼントした。この板を乗ったシモンはSkidsに出演し、またSNOWBOARD CANADA誌の撮影にも参加する機会を得た。シモンにとって嬉しい初マガジン掲載ショットも収めた。

それにしても当時からケビン・サンサローンは天才的ビジネスマンだ。シモンに自身の板を乗ってもらえば、それが露出されてシグネチャー・ボードが売れることにつながる。そうなれば、ケビンのスポンサーからの報酬も増えることになるのだ。
ちなみに、ケビンは当時、X Gamesのビッグエア大会に参加し、ピーター・ラインを破って金メダルを獲得するほど、有名なプロ・ライダーでもあった。

あとに彼はSkidsからSandboxというフィルムクルー名に変更し、さらにヘルメット・ブランドを始めた。そして、Sandboxヘルメットが最も世界中で売れている時期に、バンクーバーにあるスノーボード・カンパニー、Endeavor SnowboardsにSandboxブランドを売却している。そのタイミングは、ちょうどコロナでこの業界が苦戦するのこと。偶然に過ぎないかもしれないけど、この業界の身のこなし方は天才的!

ウィスラーで3回目の夏を終えて、モントリオールの自宅にいたある日、家の電話のベルが鳴った。当時はケータイを持っている人が少なかった時期だ。その受話器を取ったママが、「シモン、ショーン・ジョンソンという方からお電話よ」と伝えた。

シモンは、驚いた!ショーン・ジョンソンと言えば、有名な業界人。元プロ・スノーボーダーで、あの憧れのマックダウの撮影なんかもしていた人物だ。ショーンがシモンを知ったきっかけは、ケビンが作ったビデオSkidsでシモンを発見したからだ。たった2つのフッテージ(映像)だけで、シモンの才能を見抜いたショーンも、その道の天才であった。

そこでショーンがシモンに言ったことは、「キミは凄く才能がある。オレが作ったスノーボード・ブランド、Stepchild Snowboardsのライダーにならないか?」ということだった。さらに、その契約金に驚いた。なんと、毎月、500ドルも給料を払ってくれるというのだ。このオファーは、当時、用具支給しか受けて来なかったシモンにとって、とてつもなく大きかった。心の中で「マジか!」と大きく叫んだという。しかも、誘ってくれているのは、この世界の天才、ショーン・ジョンソンなのだ。

正直、シモンは戸惑った。というのも、ちょうどその頃、Optionチームからも認められて初めてチームチャレンジという大きなイベントにも誘われていたからだ。そこで、Optionチーム・マネージャーやケビンにも相談した。

シモンは、考えた。
「ステップチャイルドは小さい会社だ。だけど、僕への優遇は大きい。一方のオプションは大きな会社だ。だけど、僕はその大きなチームの中の一人のライダーに過ぎない…」

だが、もうシモンの心の底では、Stepchildチーム行くことは決まっていた。
しかし、問題が残っていた。まだハイスクールの生徒で、学校を卒業していなかったことだ。そこでシモンはママに相談することになる。ママは本当はシモンを行かせなくなかったが、オンライン授業で高校を卒業することを約束させ、行かせることを許可してくれたのだ。

17歳の可愛い末っ子が旅立つ日は、ママにとっても切なかったに違いない。
だが、シモンは明るい声で「ママ、僕は今日からプロ・スノーボーダーになるんだ」と伝えてカッコよく旅立った。

今、振り返れば、たった500ドルの報酬でプロ・スノーボーダーなんてと、シモンはair time podcastで笑いながら語っているが、当時17歳の青年にとっては秘める思いが強かっただろう。「この世界で活躍するぞ!」と夢に満ち溢れていたに違いない。

こうしてシモンは、2月にウィスラーへ引っ越した。
家賃は、一か月300ドル。食費は150ドル掛かった。そしてバスの定期券は50ドル。
プロ・スノーボーダー最初の給料500ドルの生活がスタートした。


エピソード4 夢はNixon Jib Festに出場すること

夢と希望を持って憧れのウィスラーに引っ越して来たシモン・チェンバレン。
その時の彼の心情は、他のライダーのようなステップアップし、この業界で生きていくことだった。
まずは、ケビン・サンサローンのビデオ、Skids 3でパートを勝ち取ることだ。
ところが、本人も思いもしなかった上昇の竜巻の中に入るのは、もうあと数日のことであった。

シモンにスポンサードをして、これからのシモンのプロ・スノーボード人生を歩む上で父親のような存在となったショーン・ジョンソンは、宿題を出した。

「お前のこれからのスノーボード人生の目標を書くんだ」

そこで、シモンはメモ用紙にビデオパートを獲得すること、トランスワールド誌に出ることなど書いた。そして当時、最も熱いジブ大会、Nixon Jib Festに出場するという夢も書いておいた。
その書いたメモ用紙をショーンは、ポケットに突っ込み、「よっしゃ、シモン、これから寿司を食いにいくぞ。お前が食べたことがないようなおいしいご馳走だ」と言うなり、当時、ウィスラーのクリークサイドにあった高級日本料理レストランに連れて行った。シモンにとっては人生で初のお寿司。喜んで付いて行った。

レストランに行くと、シモンは驚いた。なんとそこにはピーター・ライン、ケビン・ジョーンズ、アンドレアス・ウィッグというその頃のスター・ライダーたちがいたのだ!シモンは超ナーバスになる。ビデオに登場していた憧れのライダー、Xゲームスで活躍するトッププロたちが目の前にいるのである。
ショーンは言った。
「まず、こうした高級の寿司レストランに入ったら、そのプレートの隅っこにある丸くてグリーンのボールを食べるのが礼儀ってもんなんだ」
シモンは言われるまま、グリーンのボールがワサビとは知らずに、口の中に入れてみた。
食べるなりむせこんで転げ回るシモンの姿に、周りは大爆笑で場は一気に和んだ。当時のトップライダーたちへの挨拶は、ショーン流の悪ふざけで大成功だ。

この寿司レストランの後、ウィスラーのビレッジのハンバーガー屋でシモンとショーンはミーティングをした。ショーンは、リストの1つ1つの項目を見ながら、「それは、できる」と回答していった。ところが、Nixon Jib Festの欄に目を移すと、難しそうな顔をした。
「出たいなら、ビデオを撮って編集した素材を送る必要があるなあ」
幸いにも、JP(ウォーカー)とは、面識があるので、紹介できるということだった。

早速、シモンは翌日、ケビン・サンサローンのオフィスに行って、映像をピックアップ。即席でパートを編集してもらいVHSテープにまとめた。
またJPへの手紙も書いた。これまでたくさんのJPのパートを見て憧れていたことなどを綴った。

その数週間後にJPからショーンへ電話があった。
「お前のキッズはスタイルあってうまいけど、残念ながら選ばれなかったよ」

シモンは、それを聞いても、それほど残念という気持ちにはならなかった。ケビン・サンサローンが持っていた映像は、パーク内のジブアイテムでのライディングやキッカーでのバックサイド・ロデオなどで大したことはないと思っていたのだ。また、そのセレクションのハードさを理解していたのである。
Nixon Jib Festは、JPウォーカー、ジェレミー・ジョーンズ、ディブ・ダウニングという3人の大御所が、世界から13名のライダーをセレクトしていた。まったく無名のヤングボーイだったシモンが、そこに参加することなど、本当に難しいことだったのだ。だから、選ばれなかったことよりも、JPに自分の映像を見てもらえたことが何よりも嬉しかったのだ。

シモンは、落ち込むこともなく、ウィスラーでライディングする日々を続けた。パークに入ってトリックを磨き、いつか憧れの地に行くことを夢見ながら。

そんなある日の朝、シャワーを浴びていると、突然、ルームメイトのフレイザーからけたたましいノック音が聞こえた。
「シモン、大変だ!ジョンソン(ショーン)から電話だ。なんか超重要な話だって」

なんだろうと思って電話に出たシモン。
「Nixon Jib Festで一人怪我で欠場者で出た。それでお前が出れることになったんだよ!」

電話を切ったあとに、シモンはあまりの歓びのあまりフルチン姿のままでルームメイトと共にベッドの上で飛び跳ねた。
その2日後にシモンは、Nixon Jib Festの会場に向かって旅立ったのである。シモンがウィスラーに引っ越してからまだ1か月も立たない内に、歴史は動き始めていた。

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シモン17歳の夏に初めての撮影セッション。前はシモン、後ろは当時ルームメイトだったフレイザー。

次回、『エピソード5 補欠で参加したNixon Jib Festで優勝』

更新未定、気ままに続く…

エピソード5 補欠で参加したNixon Jib Festで優勝

まだ17歳のシモンにとって、Nixon Jib Festに出場していたライダーたちは憧れのビデオスターばかり。
しかし、コンテストとは言っても、彼らはすでに1つのクルーのような集まりでもあり、多少なりともアウェー感を感じたという。そんな中でも同じカナダ出身でサマーキャンプでも知り合ったクリス・ダフィシーは、よく声を掛けてもらっていた。

しかし、そんな人間関係は、当時のシモンにとってはどうでもよかった。コンテストは3日間だけ。目の前にはこれまで見たこともない凄いパーク・アイテムがあるのだ。あのテープが擦り切れるほど何度も見たマックダウも撮影してくれていた。そんな夢の舞台で滑れるなんて!シモンはともかく滑るのが楽しくてしょうがなくて、ランチも取らずに滑りまくった。 (37.45~)


エピソード6 兄弟で始めたNOMISはマクドナルドから始まった
エピソード7 年商20億もの売り上げがあった一方でファミリーたちは低年収


エピソード8 栄光からの転落 突然の引退の真相
エピローグ

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