挫折ライダーの新しい生き方/高石 周

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高石 周

専門誌で見るカッコいいプロ・ライダーたちのパフォーマンス。誰もが憧れて、「いつかオレもワタシもあんな風に滑りたい!」 そして「できればプロになっていみたい!」と思う人も多いことだろう。しかし、実際にはプロに憧れプロを目指し、スポンサーまでゲットしながら新しい進路へと歩んだ者もたくさんいる。そこで今回のグローバル・インタビューでは本邦初公開、現在カナダのスシ屋さんに勤めるある元ライダー、つまり今ではスノーボード業界とはまったく無縁の一人の男の話を紹介しよう。

 

フサキ(以下F):まず最初に周くんのスノーボードとの出会いを教えてくれる。
周(以下S):1990-1991シーズン、ウィスラーにワーキング・ホリデーでカナダに来た時ですね。あの時は北米でスノーボードが流行り始めて来た頃でした。山本健二さんというその当時日本のトップ・アルペン・レーサーだった方に薦められたのがキッカケですね。そんで何かカナダに来た意味を模索していた時だったので「本当におもしろかったら本気になってプロを目指そうか」とウィスラーでレンタルしてやってみました。そしたらハマッた。そんな感じですかね。で気付いたら数人の日本人スノーボーダーが既にガンガン滑ってて、それがフサキさん、ゴロー(小松吾郎プロ)、良平(元キング・スノーボードのデザイナーで吾郎の親友)なんかだった。

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F:最初からプロを目指していたということは、相当な覚悟だね。何かスノーボードに対するインスピレーションというか愛のようなものを感じたの?
S:元々スキーを19歳まで真剣にやってきてたので、やっぱり雪の上かな? なんて考えたのと、横乗りをずっとやってみたかったってのが「ピタッ」と来たという感じで、始める前からなんかいい意味で危険な香りがしてましたね。あと山本健二さんが「今なら簡単にプロになれるんじゃない?」と言ってたのもその気にさせられたなあ(笑)。

F:確かにその頃は、まだまだスノーボード人口も少なかったし。誰でもプロになれるチャンスがあったよね。今でも覚えているのだけど、周くんまだ始めたばかりの時から速かったなあ。なんか危なっかしいのだけどガムシャラについて来るみたいな。やはり「プロになるぞ」という覚悟がそのど根性を生んだのかな?
S:やっぱりまず楽しいし気持ち良かった! それが一番だと思うんです。スキー場も凄く広いしブッ飛ばすには最高だった。あとスキーのバックグラウンドがあったのでその感覚のまま滑れましたね。

高石 周F:当時はアルペンのスタイルも全盛だったけど、周くんがフリースタイルに目覚めたのはどんなきっかけ?
S:たぶんですけど、その当時のスノーボード・ビデオでクレイグ・ケリーやダミアン・サンダースの影響が大きいかもしれない。あとゴローとかといっしょに滑ってて自然にフリースタイルばっかりになってたというのもありますねえ。トリッキーなことの方がアルペンのカービングよりおもしろかった。2足草鞋じゃあゴローに敵わなくなるというか。そんな理由だったと思います。ちなみにアルペンは今でも月に一回くらいはやってみたいと思いますね。

F:ゴローとの関係では周くんの方が師匠格になると思うのだけど、当時からゴローをライバル視するほどのエネルギーを感じたの?
S:ライバルとか師匠格いう関係は正しくなくて、しょせんあの頃のレベルの話なんですけど、あえて言うならオレは技術系、ゴローはブッ飛び系だったんです。お互い自分にないモノを持ってたし、楽しく本気で滑れる仲間も欲しかった。それにゴローはあの頃(当時14歳)からカナディアンよりブッ飛んでたし、オレには何か「かなわねえなあ・・。」というものは最初から感じてましたよ。でもお互いいつも「~ができるようになったよ」とか「~で~ぐらい飛んだよ」なんてやってオレも一生懸命それができるように頑張ろうとしてましたねえ。いつも先に飛ぶのはゴローだったし、本当にいい影響を受けましたね。

F:なるほど。だけど、ゴローと飲む時によく話すのは、周くんが始めてクリフ・ジャンプ(注:ウォーターフォールと呼ばれるウィスラーの有名なジャンプ場所)に行った時のこと。飛ぶのを躊躇したゴローに、かなり周くん脅したとか?(笑)
S:それはホント(笑)。オレはすでに始めて1週間目に1度飛んでて、というか落ちて? ゴローがオレも男になる!みたいな感じでその日、自ら飛びに行ったんですよ。その時にオレ自身は飛んだかどうか覚えてないんですけど、先に下で待ってたんだけどなかなか降りて来ない。たぶん20分は待ったと思う。そこでどうでも飛ばなきゃならないように仕向けたんですね。「もう待ってらんないから先に行くよ~」とか「飛ばなきゃ男じゃない!」とか。今考えれば体もできあがってない15歳のゴローには可愛そうなことを散々言ったんですよ。で、結局飛ぶのをやめてすごく自己嫌悪に落ちてたなあ。「ゴロー、あん時はごめんね。」という気持ちです。あんなところ今考えれば「飛んだからってなんなの?」って感じですよね。ゴローがケガしないで良かったですよ。ちなみにオレはその後、飛んでバインディングと腰を壊したから。ゴローにいたっては、今ではご覧の通りの活躍。あんなところ無理やり飛ばないで本当に良かった!

F:それ笑えるなあ(笑)。しかし、周くんも始めて1週間で10メール以上も落下するウォーター・フォールを飛ぶってかなりの猪根性だね。それで思い出したけど、周くんのライダーの歴史ってケガとの戦いでもあるように思えるのだけど。
S:そうですねえ。骨折3回、じん帯3回、アバラは数知れず・・・。厄年の頃なんか1ヶ月に2度骨折しましたよ。大体辛抱強く順序を踏んで練習しなかった。あれもこれもできるようになりたい。勢いがある時はそのまま行っちゃう。こういうスノーボーダーよくいますけどオレの場合はまさにそんなのがケガの原因だったと思います。だから当然よく転びました。ケガが多いというのは下手だということですよね。若い頃にタイム・スリップできたら自分で自分をコーチングしたいですよ。

F:うわあ、凄いなあ。そんなにもケガしているなんて、知らなかったよ。過去のケガを振り返ってみて何か1つの共通点、例えばこんな時にケガしてしまう、ということある?
S:恐怖心を持ったまま飛んだ時、調子に乗ってイケイケの時、気の抜けてる時。オレの場合キーワードは「気合!」ですかね。「危険」に対して真剣さ、集中力に欠けてるというか。それから練習はしっかり順序をふまないと危険ですね。180°にトライするする前にストレート・ジャンプでしっかり踏み切れるようにマスターしておく。同じように360°の前に180°で軸がブレないようにしっかり踏み切れるようになっておくとか。もちろん全ての技において充分なイメージトレーニングも欠かせませんよね。さっきも言いましたけどオレはそういったものを面倒くさがったんですよ。

高石 周

F:うーん、なるほど。このコメントは今、これを読んでいただいている方にも役立ったと思うよ。じゃあ、そろそろ周くんのライダー時代の話を。スポンサーがついたきっかけは?
S:ウィスラーで3シーズン滑った後、日本でスポンサーがつきました。実はそれもゴローが関わっているんですよ。その当時ゴローはカナダで「LIMITED」にサポートされていて、日本の輸入は「カーメイト」がやっていたんです。ゴローは本当にいいやつで、オレをカーメイトに推薦してくれたんですよ。そしたら滑りも見ないで即サポート決定でしたね。もちろん「LIMITED」。それから「SPECIAL BLEND」に「FLUX」のバインディングとブーツ。ゴローの一言が今となってはこんなに影響力を持つようになってるんだあって、その時初めて気付いたんですよ。そんでその冬に長野で佐藤圭吾さんというプロの方がオレの滑りを気に入ってくれて「bolle」を紹介してくれて、そのついでに1年後グローブもサポートがついたんです。ちなみにそん時カーメイトのチームメイトにライオがいましたね。

F:圭吾さんって確か関西方面の方だよね。以前、CCCデザインのプロテクターを使ってもらって、とても良くしてくれたので覚えているよ。それで、ライオとの同じチームだけど、確かその当時は周くん、ライオ、そしてもう一人のライダーで3人で売り出すという体制になったんでしょ?
S:当時のカーメイトは3つのメーカーの板を売り出そうとしてて、それに各1人ずつ、これから弾けそうなアマチュアライダーを付けたんです。まず「DIVISION23」にひばりという神奈川のスケーター、「ONE」にライオ、そんで「LIMITED」に俺が付いたんです。あと永田学さん(注:北海道でのフリーライディング・シーンで今でも活躍)も「LIMITED」でしたね。それでその夏カーメートにサポートしてもらって3人共フットのキャンプに参加したんです。そしたらその冬出たアメリカのビデオにオレとライオはワンシーンづつ出たんですよ。もうイケイケでしたね。そうそうキャンプのコーチにブレイク寸前のピーター・ラインとブレイズもいました。

F:それって、凄いなあ。周くんもライオと同じでナイス・ガイであり、また礼儀正しい体育会系でもあり、業界の底辺層からトップまで見れる本当のプロ意識があるように思えるのだけど、ある意味、周くんが今のライオの位置にいてもおかしくないと思える。その全盛期(?)とも言えた時代から、どんな波乱があったの?
S:日本に帰ってまず北海道のカムイスキー・リンクスというところでパイプのディガーと、ちっちゃなパークを造ったりしてたんです。その当時は、日本にはまだパークとかなかった時期です。当時のカムイには、アマチュアの大会でもその後プロでブレイクした連中がひしめいていてレベル高かったですよ。そういった環境の中で相内康夫君(手摺狂会)が中心になって日本で初めて全国発売する、北海道のライダーだけで撮ったビデオを撮影してたんです。その時にオレとナオト(注:大金直人、現在もライダーとして活躍、90年初期ウィスラーではゴローなどとも常に行動を共にする。さらに注釈、元祖dmkのステッカー・デザインを考えたのも彼!)は相内君に気に入ってもらってパートは短いけど特別に出演させてもらったんです。「コンタクト・ハイ」っていうんですけど見たことあるかなあ? その後は長野の木島平に移って高井富士やハイツなんかで滑ってたんです。そん時はプロに上がる前の曽根くん(注:加藤高正プロも尊敬するスクーターの教祖的存在)や高橋玲(注:日本人でも初期の方に世界
大会でブレイクしたライダーで当時まだ珍しかったシグネチャーも出す)なんかがいつも出ていた大会に出ていました。予選は1位だったり、だけど決勝でぶっコケちゃいましたけど。本番にとにかく弱かったんです。

高石 周F:うーん、本番でダメだったのかあ。しかし、今、考えると凄い面子を相手にしていたんだね。それで、その後は?
S:さっきも言いましたけど佐藤圭吾さんに気に入ってもらってスポンサー紹介してもらったり、夏にはアメリカのビデオにワンシーンですけどライオと出たりと、とにかくそのシーズンはどこに行っても周りから注目してもらって、もう自分の中ではイケイケでしたよ。次のシーズンまた北海道に行ったんだけど、間もなくして凍ったパイプで骨折しちゃいましら。次に日に石川健二に札幌空港まで送ってもらって帰郷、入院手術。1ヶ月位経って地区大会に出たいと思い、ある日完治してないのに高井富士で練習を再開したのがいけなかった。軽く転んだ拍子に凄くソフトな雪の上にヒジを付いて受身を取ったら今度は複雑骨折。それは6時間の大手術でしたね。そん時はライオに病院に連れて行ってもらいました。病院に連れて行ってくれた2人が今、有名人なのがちょっと自慢なんです(笑)。

F:その経歴も凄い。なんかこのインタビューはもっとたくさんの人に見てもらう雑誌でなくていいのかな?という気になったけど、まっいいか(笑)。そのケガの後はどうなったの?
S:これで2月初旬からシーズンを棒に振ったんです。そん時厄年くらいだったんですけど、プライベートでも色々辛いことが起こってたのもあったし精神的にかなりやっつけられたんですよ。「もうスノーボードなんて辞めなさい」て言われてるような。始めた時の決意、情熱が強かっただけにもの凄い挫折感を感じました。その時、実際自分の中で半分あきらめたんです。でもそんな状態のまま、自然とまたスノーボードをやってしまった。心中は「オレはまだ魅せるスノーボードができる。でももうあそこには戻れないかな」といった感じ。この中途半端な気持ちを打破できないままダラダラ数年間滑ったのがいけなかったですね。気持ちが半端だから目標も立てれない。いつも「これぐらいできてれば今は満足」ってやってたと思います。ライオみたいに「世界一」って大きく目標は持たないと結局どこかで妥協しちゃうのかなあ、って思います。目標はでっかく!練習はしっかり計画立てて順序を踏んで!もちろん自分が「できる!!」と強く信じてなきゃいけないですけど、こういうことが実践できる人は結果が残せる
と思いますね。

F:うーん、ふーむ。もう言葉が出ないとはこのことだよ。周くんはまるで脚光を浴びたスノーボーダーたちの幸運というシーソーの逆側で不幸というものをすべて受け止めたようにも思える。なんで神様はそんなに辛い試練を与えたのだろう?
S:実は思い当たる節もあるんですけどここでは言えません!? 実際は本当に辛かったですけど、それがキッカケでその後はまたおもしろい人生というか考え方ができたと思います。今だから言えるんですけど、あの時期に挫折して得た経験は、成功して得るものよりも長い人生のスパンで考えた場合凄く強いものを得れたと思えるんですね。その人それぞれ受け止め方は違うと思いますけど、いい意味で「これは何かに与えられた試練だ」って受け取って、それに意味を見つけられたら救われた気持ちになれませんか? そういう風に思いたいし心掛けたいですね。

F:確かにオレもいつもすべての自分でやったことには、意味があったというプラス思考の解釈をするようにしている。実際、そういう境地に立てると、ひじょうに強い自分を感るし。
S:フサキさんは、まさにそういう人ですよね。

F:そう言ってもらえるのはありがたいけど、そうでありたいという感じかな。まっ、最終的には強引にも「この時のために!」って持ってっちゃうけど(笑)。ところで、周くん、なぜカナダに戻って来ようと思ったの?
S:やっぱり幼い頃から夢だったことを叶えたかったからかな。小学校の頃から「外国で暮らしたい」って思ってたし、高校生になったら皆に「絶対外国に住む!」と公言してましたよ。

F:へえ、じゃあ今の生活は夢が叶ったということなんだ。実際、カナダでの生活はどう?
S:いろいろ大変なことがあって、やっと永住権を手にしたけど、今度は次の目標がなかったんですよ。日本にいた時は奥さんと「オレたちにはしっかりとした夢と目標がある!」って勝手に自負して生きていたところもあったんですね。ところがいざカナダに来たら、自分は目標を失った上にここで生きていくためのスキルも何もないじゃないかって気付いて、すごく自信喪失したんですよ。最近はウィスラーに移住している周りの日本人の人たち、特にフサキさんに強く影響されて、急に自分の未来がポジティブなものに感じられてすごく楽しく未来を考えられます。まあ10年ここで生活してもワクワクしてられるかはわかりませんけどね。

F:明日のことはまったくわからないけど、周くんならきっと思ったことを成功すると思うよ。これはオレの感だけど、周くんからはそういうエネルギーを感じる。最後に改めて夢を聞かせてください。カナダに来ることまでは成功した周くんファミリー。ここから先のドリームを!
S:ファミリーとしての夢は、子供を3人つくってウィスラーに家を買うこと。そしていつまでも家族とウィスラーを楽しむことかなあ。まだカッコイイこととか言えないですけど、自分に厳しく生きることを前提に、常に自分の「カッコイイ」を貫き通し、自分だけの「ワクワク」とか「気持ちいい!」を追求していけば、どんどん夢は湧いて出てくると思ってます。あっ、これスノーボードで学んだことかも。お後がよろしいようで・・・。

高石 周高石 周


インタビュー後記
プロになることがすべてではない。ライダーになることがいいのではない。一番カッコいいのは、やはりその人が今、どれだけ何かに向かってチャレンジしている姿だと思う。人間は結果よりも、その目標に向かっている姿の方が何倍も素敵なことのように思える。そういった意味では、周くんは今、とても輝いているように見える。もちろん気持ちの中では、日々いろいろな葛藤と戦っていることは想像できるが、それを外に見せない強さも持ち合わせている。
ところで、今回、僕がぜひ周くんにインタビューをお願いしようと思ったのは、人間は様々な生き方があるし、いくらスノーボードを愛していてもプロになったり、まして業界に入るだけが道ではないということを知ってほしかったから。僕たちがスノーボードのことを愛し続ければ、スノーボードは永遠に恋人だと思うし、また生活の糧としてきちんと他の仕事をやりつつ、スノーボードを続けるという道があると思うのだ。実際、インタビューしてみたら、その他にも様々な興味深い話が聞けた。特にケガの話はひじょうに説得力があったし、またその境地に達しながら、今、目の前で明るい笑顔の周くんを見ていうると、何か僕の方が学ばされたような気持ちになった。周くん、ありがとう!

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