迷走ボーダー中山一郎

Photo: Kazuki Suzuki
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ウィスラーに来たスノーボーダーならその名を聞いたことがあるだろう「イチローさん」@ichiro.nakayama.411。弟のジローさんとナベさんとGREEN.LABを共に立ち上げ、イチローさんは主にライディングを通してPRを続けている。
「飛ばなければスノーボーダーではない」とばかりに、48歳になった今でもバリバリに雪山を攻め、時には狙ったスポットを目指し10キロ近くのハイクアップも敢行するタフネスぶり。
常に楽しいセッションをするイチローさんの周りには、いつも笑顔いっぱいの若いライダーたちの姿がある。その様子は、傍から見るとガキ大将というか、ギャング集団のボスでもあるようだ。「今日はどんな企みを考えているのだろう!?」と思う。

先週、偶然ビレッジで会った時に、「来年のために山の上にある湖を下見に行って来ますよ」と目を輝かせて語り始めた。
7年ほど差はあれど、ほぼ近い同じ年代の私としては、今なお衰えないその情熱に圧倒される。果たして、そのエネルギーはどこからやって来るのだろう?
そこで気になったので、メッセンジャーで「インタビューしませんか?」と伝えたところ、早速、承諾をいただき会うことになった。

実際、インタビューしたら、果てしない旅へ向かうことになった…。ユニークな家庭環境が、今のイチローさんの行動に現れていること探るために途方もないところも歩むことになった。そこには、今のネット世代の若者には考えられないような飛んでもない話も飛び出す。しかし、これだけ様々なことに挑戦し、いろいろな経験したにも関わらず、イチローさん自身、まだ生き方に悩んでいると言う。それでも彼は迷いながら走り続けているのだ。

エーイ、こうなったらもうとことんイチローさんワールドに入るぞ!ということで、ロングインタビューとなった。
今、人生で疲れながら満員電車に揺られているあなた!ぜひ、これを読んでみて。迷走ボーダー中山一郎を知ったら、ちょっとは元気がもらえそうだよ。

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インタビューアー:飯田房貴 @fusakidmk

Photo: Takehisa Tanaka

【迷走】
定まった道筋・進路を通らず、不規則に走ること。

【ボーダー】
① へり。縁。端。国境、境界線「—ライン」。また、ギリギリ、危ない、という意味も。
② スノーボードやスケートボードなど、ボード(板)を使うスポーツをする人、または愛好家。

episode1: 競技スキー時代

現在ウィスラーを拠点にスノーボードをしているイチローさん。単に雪面でカービングするだけではなく、ハイクしてジャンプして、クリフに挑戦してトリックを決める。自分が48歳の時、こんなスノーボーディングができただろうか?と考えると、今のイチローさんの全力でスノーボードに打ち込む姿勢には頭が下がる思いだ。
そもそもそんなイチローさんは、どのようにしてスノーボードと出会ったのだろうか。
元々、少年時代はアルペンスキーヤーでかなり本格的に取り組んでいたという。
まずは、イチローさんがスノーボーダーになる前の競技スキー時代を振り返ろう。

Photo: Takashi Hirano

--もう本当、昔から知っているけど、意外にも初インタビューとなりましたね。
今日は、イチローさんのスノーボードへの情熱、愛、そのへんのことをたっぷりと伺っていこうと思いますので、よろしくお願いします。

一郎:こちらこそ、めっちゃ嬉しいです。

--以前、誰かからイチローさんは「飛ばなければスノーボーダーではない!」というような言っているということを聞いたのですが、本当ですか?

一郎:言ってたかも!オレ、たまに記憶喪失なんですよ(笑)。
スノーボードって、もちろんターンもしたくなるけど、跳ねたくなっちゃうじゃないですかフリースタイル。
ホップ、ステップ、ジャンプ、トリップ、パウダー、フライハイって。
いろんな飛び感覚が雪の上で感じますよね。
たくさん雪が降ったら、もっと大き良いの狙っちゃおうみたいな。
そんな勢いでイっちゃう感覚がたまらないんですよ(笑)。

--ホップ、ステップ…、というのはイチローさんのスノーボーディングの神髄のような言葉ですね(笑)。
そもそもスノーボードを始めたきっかけは?

一郎:ちょっと長くなるけど、いいですか?

--はい、もちろん。

一郎:元々、小学校から競技スキーをやっていました。
当時、自分の通ってた菅平小中学校は校技がスキーで、冬になると、3時間目4時間目は体育スキーがよくありました。

小学3年生から全員部活強制、すでに1年生から競技は始まってるんですけど、1、2年生は希望者だけです。
冬はアルペン、クロスカントリー、ジャンプの中から一つ選ばなければいけなかったんですよ。
夏は男子サッカー、女子バスケ。

--今のイチローさんにはちょっと似合わない体育会系のようなアルペンスキー部だったんですね。

一郎:はい。小学校は全員、朝学校ついたら学校の外周、1周600メートルのランニングを低学年は1周、中学年2周、高学年は3周やらせれていました。
冬はクロスカントリー3キロやってから、朝の会。部活は、ほぼ毎日でした。

中学の冬は、学校の日は朝7時から8時15分まで特別リフト動かしてもらって滑って、そのまま学校の玄関までカバン背負って滑って通学して。
午後は5時間目から体育と称してスキー部活開始、ゲレンデの上にカバン置いてナイターまで続くぐらい、熱狂的昭和スタイルでしたね(笑)。

--昭和だ(笑)。

一郎:小中時代は雪にどっぷりの生活を過ごしてたんですが、高校もスキー部を選んだんだけど、山の上から街に降りたオレはオフトレもろくにせず、ダラダラとゲーセン通いで、ストリートファイターIIでした。
スキーはもちろん成績なんか出ないし、つまらなくなって高2で辞めました。

--頑張っていた糸がまるでプッツリを切れてしまった感じですね。

一郎:今でも覚えてますけど、辞めたって決めた時、目標?生きがい?を諦めた感じでしょうか。
スキー人生終盤はそんな熱くなかったけれど、小さい頃から好きでやってきたことを失った感じですかね。
燃え尽き症候群だったよーな。

--海外と比べると、特に日本の子供って頑張り過ぎちゃって、燃え尽きが多い印象があります。

一郎:高校時代の自分は、心のどこかで気持ちがくすぶっていて、唯一スキーが救いだったんだけど、中途半端に終わったし…。心の自由への開き方がまだわかってなかったんですよね。

それでも実家は、スキーイン、スキーアウトできる環境だったので、高3の冬はゲレンデクルーズしてました。
どこか気持ちがポッカリ穴が空いちゃって、山は変わらずきれいで気持ち良かったけど、なんか退屈で…。

そんなシーズンのゲレンデ最終日にスノーボードに乗る機会がありました。
当時1993年バブル崩壊後の就職氷河期とスノーボードバブルの始まりぐらいでしょうか?
地元の峰の原高原スキー場にもスノーボーダーをよく見かけるようになりました。

--なるほど、そこでスノーボードと出会ったんですね。最初に乗った板は?

一郎:たぶん、隣のペンションのパパさんに借りたような…。板、なんだったかなブランド?ブーツはソレル(※雪山用の長くつ)でしたね。
中学一年生の時にちょっとやった経験があって、それ以来の人生2回目のスノーボードはメッチャ新鮮でした。
転ぶし曲がれないし、ブーツ柔らかいし、リフト乗ったら足がスキーと比べてめっちゃ軽くて。フリースタイルを感じました。これまで束縛されていたものから解放されたような気分です。
最初は、滑れなかったからおもしろかった!数本滑りましたが、リフト乗るたびにだんだん上達していくのが楽しくて。
来シーズンはスノボだなって決めましたよ。

(イチローさんの故郷、峰の原の綺麗な夕焼け)

episode2: トイレ掃除

そもそも中山一郎を形成したものは何だったのだろうか。
つまり、イチローさんは、フレンドリーで面倒見が良くて、自然をリスペクトし、海外に興味を持ち、スノーボードに情熱を注ぐ人なんだけど…、それはどこから来たものだろう?
今回、インタビューをさせていただき、そうした現在のイチローさんの性格のようなものは、お母さんのフクナガ・カズミさんの影響が大きいと思った。フクナガさんは、菅平峰の原でペンションを経営されていたそうで、そこでイチローさんは2つ下の弟、ジローさんといっしょに育った。
ちなみにイチローさんは、母親のことを「カズミさん」と呼んでいるそうだ。ちょっとユニークな教育方針なのだ。でもお話を聞いていると、とても感銘受けるというか、逆に今の子たちにも学んだほしいことを当時からされていた方だと思った。

--今、お話を聞かせていただいて、お母さんの教育方針がかなりイチローさんに影響を及ぼしていると思いましたが、どんなお母さんだったのですか?

一郎:はい、自分のルーツが今の自分にかなり影響してますね。
カズミさんは、うーん、とても教育熱心って言うのでしょうか…。
覚えているのは、公文式の算数と、小学校入学から目覚まし時計買ってくれて、ミッキーマウスのやつ、園児だった弟はドナルド。
そっから自分で起きる練習と、3年生から起きたらトイレ掃除してからじゃないと、学校に行かせてもらえなくなりました。

--えっ、凄っ!

一郎:学校も5、6キロ歩いて通ってたんですが、寝坊してもトイレ掃除してからなんでバナナを口に含みながら、めっちゃ走って学校に登校した時もありました。
弟も一年生になったらトイレ掃除が始まり、早く起きた方が、便器の少ない女性用を掃除してましたね。
ウケるでしょ。

--いやあ、素晴らしい教育だと思いますよ。学校とかの詰め込み勉強よりも、そういうことの方が大事だと思います。

一郎:義務教育は中学生までなんだから、炊事、洗濯、掃除も全部やらされました。卒業したら自立できるようになってほしいって。
朝食は自炊、洗濯と自分の部屋の掃除は自分でやることになりました。
おかげで今はトイレも、掃除も進んでやっちゃいますし、オレがきれい好きってみんな知ってますね(笑)。

--素晴らしいと思います。たしかに義務教育は中学までなんだから。お母さんのおっしゃる通りだと思います。

一郎:小学生の時は、「片付けしなさい」って言われても、そのまま部屋の床に物無造作に物を置いてたら、学校から帰るとゴミ箱に捨てられてたりしてて、厳しかったっすよ。
中学を出るときには、その辺の新社会人よりは身の回りのことはできてたかも。

--受ける。捨てちゃうって最高!(笑)。身の回りのことができたのは、お母さんのお陰ですね。

一郎:さらに同時に、早く好きなことを見つけなさいって求められて、メッチャ困りましたよ。
スキーが好きなことだったけど、カズミさんはそれは違うみたいな言い方だったし。オレがスキー辞めるのわかってたのかな…。にしても難しかったっす。

--普通その若さで将来ことや好きなことを見つけるって、なかなかできないと思います。

一郎:本当、困りました。中2だったかな、まだ好きなこと見つからないから、楽しい学校一週間ぐらい休まされて、結局何もみつけられなかったすね。

数年して好きなこと見つかった時に思ったけど、メッチャ難しいテーマですよ。
人生の一つのテーマじゃないですか、好きなことってたぶん。
今でも同じようなテーマで、もがいてるけど…。笑えてるだけ良かったかな。

episode3: 環境問題

現在、イチローさんと弟のジローさんと共に販売しているGREEN.LABスノーボードは、信州の森から考える「自然との共存」というテーマとなっている。長野県産材を使ったスノーボード・スキーのウッドコアの企画・製造、持続的な生活文化やグリーンライフ産業を推進しているのだ。そんなイチローさんの環境への意識を目芽生えたのは、カズミさんの教育方針に繋がっている。
自然をリスペクトする気持ちは、現在のイチローさんのスノーボードライフには欠かせない。そして世界へ旅へするようになったきっかけを与えたのも、この環境問題を意識し始めた同時期にあった。

--環境問題というのもずいぶん前から意識されていたようですね。

一郎:自然をリスペクトする気持ちは山で育ったのもあるけど、カズミさんの教育の一つでしたね。

朝日か信毎、新聞どっちだっけな。メキシコ市に住んでる8歳の少年オマールくんが、 大人になったら行きたかったジャングルが、大量伐採されていることをを知って、大統領に森林伐採の中止の手紙を書いたり、 メキシコ市から1400キロ離れたジャングルまでの道のりをお父さんと、ジャングルを救おうって書いた旗を持って歩いて抗議した記事が載ってました。
カズミさんはすぐに問い合わせて、翻訳したタミコさんと繋がり、そこからNPOを立ち上げ小6のジローが代表になったのです。アルミ缶を回収し換金したりして資金集めをしました。子供が主体で活動する感じでした。自分もいっしょにアルミ缶回収や、地元の森の散策、キャンプなど小学生と一緒に体験しました。そん時のジローが潰したアルミ缶をもった写真がタイムの表紙になっちゃいました! 日本人で3人目ってその時言ってました(笑)。

--マジっすか!凄いな(笑)

一郎:オレが環境問題に関心するようになったのはカズミさんの影響もありますが、小学5年生の担任の小岩井先生の影響も大きいです。
当時の日本は「環境問題」って言葉がまだ一般的ではなかったじゃないですか。
パタゴニアがペットボトルのリサイクルでフリース出したのだって、オレが高校出た歳ぐらいだったんですよ。

--環境問題ってその頃は全然ですよね。バブルの頃だし、経済発展ばかりに力を入れていた時期だから。

一郎:当時の担任、小岩井先生からは自分たちの周りの自然環境について特別で大切な場所だってことを教えてもらいました。
何気なくなく育った標高1500メートルの峰の原高原、菅平高原は、上信越国立公園内にある自然豊かなハイランドです。
小岩井先生は天気が良いとすぐに国語とか算数でも青空授業に変更して、裏山に遊びに連れて行ってくれました。

--まるでウィスラーにある小学生みたい。ウチの近所に私立の学校があるのですが、子供たちはいつも森の中でよく授業を受けています。

一郎:自然の中で学べることは、多いです。
先生は、動植物のことなど教えてくれて。学生時代に雷鳥の研究もしていて野鳥にくわしくて。
クラス全員で鳥を覚えて山で双眼鏡と野鳥ブックとフィールドノート持ってましたね。

教室でも、先生が大学時代にネパールでシェルパ族の家に民泊した話や、エベレスト初登頂したヒラリーさん(※人類初となるエベレスト山頂到達に成功したエドモンド・ヒラリー)との写真や、イエティー(※ヒマラヤ山脈に住むといわれている未確認動物・雪男)の頭の皮っていうのかな。雑誌ムー(※オカルト情報誌)とかでも出てるような写真をスライドで見せてくれました。
ネパールの歌も教えてくれました。
おかげでネパールに行った時に現地の人と一緒に歌えたのを覚えています。

--本当、ザ・先生という感じの素晴らしい恩師ですね!

一郎:はい。先生は自分たちに世界人になりなさいってよく言ってました。世界人って言葉、その時に初めて聞きましたよ。
ツアーで旅行に行くより、自分でチケット手配してルートを考えたり。現地の人たちと触れ合うこと。肌で現地を感じるってことですよね。
それまで、テレビで見る世界しか知らなかったけど、先生の話がきっかけで海外に行きたい気持ちが芽生えました

--なるほど。あとのイチローさんの海外生活を始めるようなきっかけが、そこにあったんですね。

一郎:初海外は、実家の宿にオープン当初、宿泊したお客さんが、マンモス(※カルフォルニア州マンモスマウンテンスキーリゾート)に住んでいて誘われたのがきっかけです。そこの息子さんがオレの一つ下で、アルペンもやっていました。
そこのお母さんのヤスコサンとウチのカズミさんが当時手紙でやりとりを続けていて、「イチローくん遊びに来たら」って話になったのです。中学生一年の時11月中旬日から一月末ぐらいかな、学校に伝えてホームステイでスキーしに行く機会をゲットしたんですよ。

--中一でホームスティですか。刺激的で、良い経験になったんだろうなあ。

一郎:はい、今でもいろいろ覚えてます。
行きの飛行機でなぜか財布失くしちゃって、LA入国で、言葉全くわからないから通訳の方にお世話になりました。

--えっ、いきなり大変な目に…。

一郎:ロスのお家はプール付きで、マンモスのお家も室内ジャグジーがあるぐらいのお家でした。
そこの娘のユーコは16歳でポルシェ買ってもらってました。

--16歳でポルシェ!?

一郎:当時は子供すぎてよくわかっていなかったけど、今思うと立派なお家柄でした。お金持ちだったんだと思います。
マンモスのスキーチームに入って息子の通称「ノブユキakaノビー」(※お世話になったホームスティの息子さん)と、同年代の子たちと滑りました。
レイクタホまでチームでレースに行ったり、ノビーたちの学校のクリスマス・キャンドルイベント行ったり、映画行ったり、仲良くなった友達の家に泊まりに行ったりしましたね。
そん時は、映画カクテルの年だったから、そこで友達になったジェイソンといっしょにビーチボーイズのKokomo(ココモ)を聴いていました。
最終日に友達みんなでサプライズパーテイーしてくれて、日本では味わったことがない、たくさんの新しい経験と、人との触れ合いを体験しました。

--可愛い子には旅をさせよ、というけど、まさに旅がイチローさんを成長させたんですね。

一郎:はい。その時に一日だけノビーとジェイソンとノビーのパパに、隣のジューンマウンテンに連れて行ってもらて、初めてスノーボードをやったんです!
長いリフトでしたが、転びまくって、一本滑るのに相当時間かかったのを覚えています。
楽しかったですよ。転ぶことが新鮮で。物心ついた時からスキーしていて、雪の上で転ぶって感覚がなかったですから。
うまく滑れないことに、逆にテンションが上がりました。

(もし、よかったらこの後のインタビューはKokomoをバックミュージックでも聞きながら、お楽しみください)

episode4: 100万円の手切れ金

母であるカズミさんは、ジローさん(※イチローさんの弟)といっしょに環境問題の取り組みでコスタリカに行ったことがある。そこのグアナカステ保全地域、熱帯雲霧林へたまたま取材に来ていたのが、ジャーナリストの田島さんという方だった。カズミさんが、タイに行く計画をした時に、たまたま田島さんがアテンドしてくれることになったのだ。そこに同行したのが当時高2のイチローさん。
マンモスマウンテンで初のホームステイを体験したイチローさんはゴージャスなアメリカンライフから、一転タイではこれまで見たこともない貧困生活というものを見ることになる。まるでお釈迦様が出家に至るきっかけの出来事のようだ。
一方、タイでは美しい自然にも出会い、イチロー青年にとっては大きな刺激となった。


--カルフォルニアでのホームスティ体験は、日本にいたら体験できないような刺激的でゴージャス感もある旅となったようですが、今度は環境問題の一環でタイですか。

一郎:2度目の海外経験は高校2年生の時にカズミさんと、ジャーナリストの田島さんといっしょにタイに2週間連れて行ってもらいました。
バンコクでお寺や、人々の暮らしや、繁華街パッポンで夜の世界を軽く眺めたり。バス乗ってチェンマイ行って軽いトレッキングしましたね。
そんな経験もあって、卒業後の進路相談でカズミさんと担任の先生と三者面談した時は、「海外に行きたいです」って漠然に言いました。
そしたら、卒業アルバムかなんかに進路先が「留学」ってなっていて、先生うまいように受け取ったくれました(笑)。

--カッコいい!(笑)卒業した後の進路が海外留学かあ。

一郎:卒業後の進路先も決定したというのか。
高校生時代には、人生2度目のスノーボード体験もして、遂に卒業という段階でカズミさんから、「これであなたも社会になるから、ヘルプはこれで終わり!」ってことで学資保険の中から、100万円手切れ金ってことでサポートしてもらいました!

--えっ、凄い展開。高校卒業して100万円渡して、いきなり「さようなら」って。

一郎:高校出て100万円ゲット!何に使おうか考えて、パタゴニアのフリースのジャケット、ウィンドストッパー付き買っちゃいました。

(高校を卒業してすぐに勝ったパタゴニア)

--肝心の独立後の仕事は?

一郎:就職氷河期で。高校出てからは近所の知人のガソスタでバイト開始。今、思えば、「フリーター」という言葉の走りだったのかも。
右も左もわからなくて、バイト先でも軽油とガソリン間違えて入れた気がします(笑)。
そん時に事務所にパソコンがあって、音楽ソフトの中にスカってジャンルを見つけて、なんともリズムが気に入ったのを覚えています。

夏には、2度目のタイに小岩井先生とカオノイチュチ低地熱帯雨林保護活動の参加、視察って名目も兼ねて行きました。

--先生とまた旅した!?

一郎:はい、先生とは仲いいんですよ、小学校卒業してからも。
日本子供のジャングルが支援しているカオノイチュチ、タイ南部のクラビ県、映画ザ・ビーチの舞台ピピ島のある県です。

--あーあ、あの有名な美しいアイランド!

一郎:熱帯雨林の森を歩いて、木の高さや太さ、社会科で習った板根やハエトリグサ、たくさんのヒル、日中でもちょっと影かかっていてジメジメとした森の中。
倒れた木々のぽっかり空いた陽の当たるところからの、幼木や草。
極めつけはコバルトブルーの温かい自然の魚も共存の温泉!
現地の人が作ってくれる食事も美味しかったすね。
トイレはタイ式でした。

--手桶で水をすくって流すやつ?

一郎:タイではトイレットペーパーを流せない場所が多く、もしうっかり流してしまうとパイプが詰まってしまうんですよ。
バンコクでは安い物価と貧富の差、片腕や足のない、赤ちゃん抱いた物乞い、線路に沿ったゲトーな集落…。そんな光景も。

--ゴージャスなアメリカン生活とは反対を見たわけだ。

一郎:バンコクの歓楽街のパッポン通りでは、タイの女性を連れた白人や日本人おっさんもいて、山育ちの自分にはめっちゃ刺激的でした。日本人サラリーマンの海外出張の実態!大人の社会を垣間見ましたね。

--バブル時代の日本人サラリーマンの有名な話だよね。そこで病気もらってニュースに出たりとか。

一郎:物価の安いところに行って、お金でそういうことしちゃうんだなって。ちょっと違和感を感じましたよ。
ある晩、先生とバンコクのマレーシアホテルに泊まった時に、「いつか、次はイチローがケイを連れて旅に出るんだぞ」って言って、自分もそれ良いね!なんて会話をしました。

--ケイくん!?

一郎:ケイというのは、先生の息子さんで。当時生まれたばかりのケイは、大学生の時、ウィスラーに2週間うちに社会勉強しに来ました。
約20年の時を経て仕込まれたドラマ、ロマンがあるんだと思いました感激ですよ。

--機縁ですね。

一郎:タイからスウェーデンに、ヨーナスって多美子さんの娘のティティの友達のところに向かいました。
ヨーナスは同じ歳で、シュタイナー教育の学校を卒業したのち、自分が高校3年の時に、多美子さんの紹介でうちに現れた人生最初のドレッドの友達です。

(イチローさんのレゲエカルチャーを伝授したのは、ヨーナスくんだった!)

--おっ、イチローさんのファッションやカルチャーに影響したような存在?

一郎:はい。レゲエやスカミュージックが好きで、ボブマリーやスペシャルズを教えてもらいました。
卒業したら遊びに来なよって、約束していたので早速寄らせてもらいました。
タミ子さんの繋がりで、その頃から北欧の人達とセッションする機会が増えてきました。2ヶ月間、ヨーナスのストックホルムの郊外に滞在しました。

--本当、世界へ旅しているんですね。

一郎:時期は夏だったので初めて感じた白夜でした。
ヨーナスたちと毎日飲んでたくさんバーに行きましたが、帰りはいつも明るくなってましたね。
ジェインズ・アディクション(※カリフォルニア出身のバンドでオルタナティヴ・ロックの土台を作り上げた)がメッチャ流れてましたね!
だけど、オレは同時期に流行っていたブラーバンド(イギリスのロックバンド。デビュー当初はキンクスやビートルズの再来と注目された)好きで、CD買いました。

昔ながらの街並みでめっちゃ綺麗なストックホルムの駅周辺でたむろするパンクな人たち。
モヒカンや激しいヘアカラー、タイトでトゲトゲ付きの革のジャケット。イケイケだな、パンクっこれかってなりましたね。

スェーデンも多美子さんやティティ、ヨーナスやたくさんの方と知り合って、北欧スタイルちょっとかじりました。
その時に多美子さんの旦那さんにWT(World Traveler) って言葉聞きました。なんかWT(ダブルティー)ってカッケーなと心に残りました。

episode5: 自然環境問題

スウェーデンでは、ワールドトラベラーに目覚めた感がある一郎さんが、次に目指したタイ。そこでゴムゴムの採集などを行い、地元の子供たちとも交流を深める。そして、子供の時に夢中で興味を持った鳥好きが、大人になって自分の生活を豊かにしてくれることを知って行く。

--ワールドトラベラーを感じたイチローさん、その後の行動は?

一郎:2ヶ月スウェーデンに滞在したのちに日本に帰国して、11月ぐらいだっけな。また先生とカオノイチュチに行くことになりました。
この時は、小岩井先生の学校の先生、吉田先生が行きたいと懇願したからっだった気がしますが、他にも、小岩井先生の元教え子の順大生のテツシ君と4人でカオノイチュチの森の視察に行きました。
ちなみにカオノイチュチって山の名前でカブトムシのツノって意味らしいいです。

--その時はどんな体験を?

一郎:以前のようにトレイルも歩いてコバルトの池も体験しましたが、今回は地元の学校にも遊びに行って、子供たちと触れ合ったりする機会がありました。
小岩井先生が前回来た時に地元の学校の見学や民泊などの構想もあったのがうまく行った感じでした。
次の1995年の夏は、小岩井先生が始めたNPO、地球クラブで活動していた高校生の弟ジローや、自然に関心のある高校生達と筑波大の学生つぼっち(※小岩井先生の紹介で同行したつくな大学の学生さん)もいたかな。引率って形で地球クラブのスタディーツアーを決行しました。

--その頃からNPOってあったんですね。

たしか1988年に公益法人、1998年にNPO法人になったから、まだ確かに世間にはあまり知られていないNPO活動ですね。
カオノイチュチでは、トレイル歩いて、コバルトの池に行って、地元のバンティオ村の学校で子供たちと異文化交流。
ゴム農園で民泊して、朝4時ぐらいからゴムゴムの収穫。
浅すぎず深すぎす幹に専用のナイフで沿って削ると、白い木工用ボンドのような白い液体が流れ出て来ます。

それを下に固定したカップに貯めて。全て回収したら、ろ過をして酸を加えて固めます。
半分固まったぐらいで手動のプレス機にかけて、物干し竿系にできたゴムのシートをかけて乾燥します。
すでに乾してあったゴムシートは、白から茶色に変わって自分の知っているゴムの色でした。

ここで教わったのは、そもそもこのプランテーションをするために木の伐採が行われ広大な森林が消滅している状況。
地元の人の暮らしと自然保護っていう複雑な問題を目の当たりにしました。
92年に絶滅したと言われていた幻の野鳥ガーニーズ・ピッタ。
日本で言うヤイロチョウ科の鳥がカオノイチュチの森で再発見されて自然保護で脚光をあびるようになりました。

--海外で中々できない貴重な体験をしたんだね。野鳥のことほんと好きだったんだ!

一郎:そーなんですよ。小岩井学級は、5、6年の時に先生が調査してるアオジの生態研究に習って見た鳥や、見たい鳥をみんなで書いて、天井や壁にクラスのみんなの鳥の絵が貼り付けられていました。
それぞれ野鳥の名前も書いてあるので、2年間で相当の鳥博士に成長します。

6年生から一年間は、地元の湿地帯の遊歩道を毎朝登校前に6人から7人ぐらいで歩いて、どの野鳥がどこの場所で何をしていたか、たとえば鳴き声だけでも聞こえたら、プリントされた地図上にポイントを打って記録してました。
鳥の調査と呼んでいたこの研究は、季節によって鳥が変わったり、見るのが困難な野鳥に出くわしたり、わからない時や、たぶん、間違って認識された事も子供達なのでたくさん合ったと思いますが。
雪の日も雨の日も、毎日欠かさずみんなで一年間成し遂げました。
自然の豊かさ楽しさ厳しさも雪国ならではのサバイブ感を味わいました。

--それは野鳥に詳しくなるね、そのデーターはどうしたの??

一郎:はい、博士になっていくんですよね!!
データは模造紙にまとめて、小学校の何だっけな、全国大会もあるんだけど。
長野県では優勝して、全国は何もなかったかな。
小岩井先生は以前にも、他の学校で教え子達に同じことを実行していたのですが、その子達は全国1位だったんで同じ手は通用しなかったのかも知れません。念だったけど。

--野鳥好きと海外が結びついたね!

一郎:そーなんですよ、子供の時に夢中で興味を持った鳥好きが、大人になって自分の生活を豊かにしてくれることも知っちゃいました。

タイの経験は自然もですが、ピピ島に行って財布も一日に2度失くしちゃうし…。
スリだと思うんですけどみんなの食費も俺が持っていたから、食らいましたね。
それでも、高校生の時のような物足りなさは無くなっていましたね。

--心の開き方が実感して来たのかな??

一郎:かもしれません。
子供の時に、そうした経験があるから…。
始まりでしたね! 漠然とですが自分の興味? 好きな事って言うのかな? 知らない世界を知るって なんかワクワクしちゃうじゃないですか。 旅してない時でも、 したい事を想像してなんか楽しいみたいな。 未邪気なもんでしたね。


episode6: 家出宣告

若い頃から世界中を飛び回っていたイチローさん。当然、当時はネットがなかったから、その思い出に残ったことはひじょうに濃かったようだ。しかし思い起こせば、すべての行動や生き方は、その頃の時代に築き上げて来たもの。
さあ、いよいよスノーボードに向かって旅立つ。

一郎:ワールドトラベラーに目覚めた感のイチローさん、そこからスノーボードへのストーリーは?

--はい、19歳の秋にカズミさん(母)からの宣告がありました。
オレ、誕生日4月11日なんですよ。奇しくも411スケートビデオマガジンと同じ日。
「4月の誕生日、二十歳になっても好きなことが見つからなかったら、家を出て行きなさい」
みたいなですよ。

--それはまた課題再燃だね(笑)。

一郎:はい。頭の片隅には合ったけど、初めてのスノーボードにハマりまくってあっという間に、二十歳の誕生日を迎え家から出て行くことになりました。
家出をきっかけにスノーボードに対して、より情熱が集中することになりました。

--夢中にさせますね、スノーボーダー初めてのシーズン。

一郎:そう、なんですよね!!
スノーボードは楽しくて楽しくて、家の手伝いもしないで滑りに行っちゃいう時もありました。
近所の宿のオーナーあきらさんから3点セットで、ジャックスという板とブーツ&バイン付きで7万ぐらいで買わせてもらって。
SPECIAL BLEND(スペシャルブレンド)のペラペラのジャケットとSOUL(ソウル)のめっちゃ太いパンツとかを揃えました。
あきらさんところの、見た目悪そうなバイトの人たちから、スノーボードスタイルを教わりました。
テリエ(ハーコンセン)に(ブライアン)イグチに(ジェフ)ブラッシーとかでバートン一押しでしたね。
この時のバイトの森川さんは、のちにサロモンの初期のライダーになったほどうまい方でした。

--SPECIAL BLEND(スペシャルブレンド)がまだFOURSQUARE(フォースクエアー)と別で独立してた頃だね。
ライダーになった人もいたなら、それはスタイル教わりたいよね。

一郎:はい、地元、峰の原のスキー場にスノーボードレンタルとスクールができていて。
そこからその年の中古のK2のファットボブを買ったり、138cmのメチャメチャ短い板にしたり、ブーツも買い直したりしました。
スクールの大元はアルエってスノーボードのレップのような会社で、スノーボード用品、K2とかナイデッカー、当時はニデッカーって呼んでいたか。
EVOL(イボル)SnowboardやアメリカドルがプリントされたHouser(ハウザー)ってブランドもあったし、ブランドのことやスノーボード業界を垣間見ることができました。

--ちょうどスノーボードが最も熱い時代。最も成長していた頃だったんだね。話を聞いていると今のイチローさんのスノーボードビジネスに関わるいい環境というか、良い影響を受けたようですね。

一郎:はい、そのスノーボード熱真っ盛りに時代に自分も溶け込んだ行ったのだと思います。
そこのスノーボードスクールで顧問であったBPトレーディングというディストロビューター(代理店)をしていた西林さんと出会いました。
フリーラディカルズってバインや、エルフマンスノーシュー、シナノポールのOEMでBC53って二段式で伸縮できる最小53センチなるポールなどの商品をショップに卸していました。
西林さんとの出会いは、イチロー、ジローの横乗りグリーンライフの原点であり始まりでした。

--なるほど~。横乗りグリーンライフの原点はそこにあったのか。
で、家出した後あとは、どんなライフを送ったの?

一郎:4月11日に家出をした自分は、上田駅から電車乗って塩尻市に行き、事前に連絡していた高校の同級生のカマちゃんの家に潜り込みました。
そっから福井だっけな。高校の同級生だったシンゴのアパートに滞在しました。
中学の時に2ヶ月ぐらいかな喘息で入院していたことがあるんですが、その時に知り合った女の子家にも豊橋でお世話になって、そっから大阪へ、冬にスノーボードで知り合った、コウイチくんの家に行き、その後はペンションのお客で、大学生の時から上智大のスキーサークルできていた藤村くんのところも行って新世界連れて行ってもらったり。NGKに一人で行って新喜劇見たり文珍さんの落語見たりしました。
長田区で阪神淡路大震災のボランティアにも一日参加しました。

--なんか、凄い機縁というか、若かったけど様々な出会いがイチローさんの生活をサポートしてくれたんですね。

一郎:はい、そもそもカズミさんに「あんたどこ行くの?」て聞かれた時に、宝塚市で生まれたのもあって、震災のボランティアしに行くって家を出て行きました。
家に帰った時に現状など話せないのもまずいので、ほんとお粗末ながら参加させてもらいました。すみません(苦笑)。
そっから梅田でフラフラしてたらネズミ講みたいのに軽く引っかかり…。東京に行って、そん時も上智大のスキーサークルのけんしくんに家にお世話になり、けんしくんと一緒に学校行って、ドイツ語の授業受けたら当てられちゃってバレちゃったり…。サークルの追いコン参加したら、オシャレなレストランで、最後は帝国ホテル泊まりでみんなで飲みで大学生気分ちょっと味わって。
子供の頃から何度か来たことのある、大都会バビロン東京でしたが、山や上田周辺で過ごしていた自分にはめっちゃ刺激的な場所でした。今もそうですがキョロキョロキラキラしちゃいます。

最終的に恩師の小岩井先生の家にお世話になって、実家に帰って、「スノーボードがしたいです」ってカズミさんに伝えて戻ることが許されました。

episode7: コロラド時代

都会で刺激的な場所を知ったイチローさんは、今度は新たなページとなるコロラド・スノーボード生活が始まる。今ではすっかりウィスラー人となっているだけに、コロラド時代があったことは意外だったが、そこではイチローさんにとって自分のバイブを刺激する真の出会いと経験があったようだ。

--好きなこと見つかったんですね

一郎:好きなことっていうか、自分の中でここ最近一番盛り上がったのは、スノーボードだったんで言い聞かせたような感じでしたけど(笑)。

--なんとなくわかります。そうやって人は決めていくところあるし。

一郎:そこから6シーズン11月中旬から一月中旬かな。
コロラドのブレックやキーストンに滑りに行って。
そこで、当時のムービースターやトップランカー達を目にしました。
トッド・リチャーズにBJやエリック兄弟もいてBJライナスは、エアーウォークだったしチャド(オッターストロム)もいたり、大会だとショーン・ホワイトもいました。
レベルも半端なくて、アメリカ超うまいしスタイルかっこいいってなりました。
ブリッケンリッジでは、パイプも盛んで世界のトップレベルのライダーたちが集まっていました。

--良い時代に行ったね。90年中頃だよね。

一郎:その頃のコロラドはスノーボーダーにとって熱かったので、日本人もたくさん来てましたね。
一志くんオレンジマンはお初の時に英語で「can you help me」って言って、来ましたもんね。

--何を助けた?

一郎:助けたっすよバッチリ。ありがとうございます。

--??

一郎:行き始めて数年後、立山で知り合った小林じゅんじさんとコロラドで出会って一緒に滑るようになり、たくさんのカルチャーを教えてもらいました。その頃はパークライダーを目指していました。
泉けんたろうさんと小林じゅんじさん兄弟、三宅陽子さんは当時Helly Hansen(ヘリーハンセン)チームの撮影で春の立山にも現れました。今でこそバックカントリーってあたり前のスノボカルチャーになったけど、その頃はバックカンの走りです。

で、西林さんがスノーシューとポールをサポートしていたので、けんたろうさんたちが立山に行くと言ったら西林さんが、だったらイチロー、ジローってのが室堂山荘で働いてるからってフックアップしてくれました。

初めて目の当たりにした、日本人プロはメッチャうまくてカッコよくて!
浄土山の下のあたりにできていたバックサイドの地形を削ったクォーターパイプセッショッンは今でもよく覚えています。
そん時がたぶん23歳で、じゅんじさんのマックツイストみた瞬間、来シーズンからステップインにしようとって決めました。(※当時、小林じゅんじはステップインを使用していた)
ちょうど、アメリカでもシマノHBや、K2のクリッカー、バートンのステップインやサロモンとかスウィッチだっけな。山でステップインチェックしてたんですよ。
でも調子はどうかなって思っていました。

--イチローさんが、ずっとステップインを使っていた理由って、そこにあったのかあ。

一郎:でも一発のエアーでこんなうまい人が使ってるからこれだな!みたいな。
今までバートンだったバインとブーツをやめてシマノに変えました。
そっから今ままでずっとステップインです。
今はバートンステップオンですが、ステップオン出るまでシマノなくなっちゃったけど、
ネットや友達に頼って、なんとかシマノ使ってました。
早かったですよ脱着!パウダー行く時やハイクのスポットとか楽チンです。

--そもそも、なんでアメリカだったの?

一郎:コロラドはご縁があって、たまたま高校の同級生小林がデンバーに留学していて、アメリカの地理イマイチわからずに連絡したら、「この辺スキーリゾートたくさんあって、バディー(友人)パス4人で買うと3つぐらいのリゾート滑れるよ!」って教えてくれたんですよ。
で、パスもコンドミニアムも小林が遊び来るってことで手配してくれて、オレは友達と2人、初めてのコロラドにスノーボードしに行きました。
インターネットがメールすらいっぱんてきではなかった時代で、たまたまだけど人の繋がりでその時のシーンの場所に行けましたね。
あの当時、たしかバディーパスは4人で買って一人250ドルぐらいでした。

--安っ!

一郎:だから毎年行けてました。
ブレックとキーストンとAベイスンだったかな、6年ぐらいの時はベイルもちょっと追加で何日か滑れたような。
パスの発売が四月だったので毎年とりあえず買っていて、
気がついたら6シーズンも通っちゃて、急に辞めようって思いたち、パス買うのやめました。

--ずっと前からイチローさんが、ウィスラーにいることは知っていたけど、コロラドも6シーズンもいたのかあ。

一郎:今の子たちってネットで情報収集、もしくは繋がりでスムーズにウィスラーに辿り着きやすいじゃないですか。
それも好きだし。20年、30年前のような情報不足の中で辿り着く感覚も今と逆でおもしろいんですよね。

右往左往していたのが、おもしろかったんです。
逆にもったいない。仕事も紹介だから、ウィスラーに来てすぐにできちゃう。
そんなの信じられないですよ。かつては!

Photo: Kazuki Suzuki

episode8: 仲間がその感覚に必要!再び南国へ

コロラド6シーズン後、急に新たな進路を模索し始めたイチローさん。その後は一転、再び南国へ行くことになる。そこで悟ったこととは?

--急に思ったんだんね、それからどうしたの??

一郎:それから、27歳の秋は高校出た初心帰り、冬のシーズン前にちょこっとだけ、南国バックパッカーに戻りました。
スノーボードを通じて、毎年、海外には行ってましたが、いつも重いボードケースで両手は塞がっていて。
だけど、南国へのバックパックの旅は特別です。

--わかるなあ、自分もずっとボードケースのタイヤゴロゴロで移動する旅が多かったから。

一郎:友達4人でタイのパンガン島のフルムーンパーティーに行って来ました。
なんかスノボーと違った自由がそこにはありました。
10代後半で来ていたタイと27歳になってからのタイ。
この時の方が、ちょっと世界を見て来たので、バックパッカーに戻るのは、ゲームに再エントリーみたいな
リアルRPG感が出たんですよ。
自分でフルムーンパーティー獲りに行くみたいな。
スイスのチューリッヒに買い物しに、オーストリアのヒンタートックスから電車で国境越えた時や、帰りのトランジットでよったアムステルダムの夜のようなゲーム感覚です。
2週間のパラレルな時間は、宝石屋で20万円ぐらい騙されて。

--おっと、また騙された!

一郎:パンガン島のフルムーン当日、一時間でトラブって終わったし。
めっちゃ気持ち叩かれたっすね。そのぶんリカバリーもおもしろかったけど。
調子に乗るとはこのこと、っていうぐらい好きにやって、めっちゃ食らったし、めっちゃ笑いました。

--今のイチローさんのタフネスぶりは、こうやって強化されたんですね。

一郎:はい、望んだトラブルではなかったですが(笑)
次の年はネパールに行き、タイでの教訓を生かし狙ったナマステな時間を過ごしました。
その次の年にカナダに行くことになりました。
スノーボードのため二十歳から、全勢力を集中していたんですが、一旦気持ち変えてみたら、スノーボードも、もっと楽しくなっちゃって。
タイで買った腰袋スノボードの時もつけたりして笑い。
バックパッカーでなんか、なんていうか、この感覚の話なんですけど、これが好きをはっきりと実感したのかな。
スノーボードも好きだったけど、両方もっとおもしろい!ってなりました。ライフワークです。両方。

--心の解放のいいきっかけのなったんだね、

一郎:そーなんですよきっと、さらに実感してくるみたいな。
結局スノーボードも旅もどちらもその感覚になるツールなんですよね。
仲間がその感覚に必要。
気持ちが増大して共有できる。
セッションですよね、それが!
クラブやパーティーも高校出てから行くようになって、今もカナダでフェス、レイブに仕事と遊び兼ねて行ってます。
お客のグッドバイブスの中で仕事や遊んでいると一緒なんですよ、その感覚が。
グルーブ、ユニティー、フリーダム、シャンバラ…、みたいな。


episode9: カナダワーホリ

様々な旅を続けた後、遂にウィスラーに行くことになったイチローさん。今では移民ビザを所得し永住権を所得しているが、最初はワーホリのビザでやって来た。そんなイチローさんのカナダ初期の物語。

--今ではウィスラーのイチローさんと言えば、日本人スノーボーダーの間では知られた存在だけど、そもそもいつくらいにウィスラーに来たのですか?

一郎:カナダにワーホリで来た年は29歳とか30歳だったかな。
6月中旬ぐらいに来てバンクーバーで初めての都会暮らししようと思ったけど、結局泊まっていたバックパッカーの張り紙でチェリーの収穫がオカナガン地方で始まってるのを知って。やっぱりファームかって感じで、日本の夏と同じフィールドで働くことにしました。
チェリーの収穫が全て終わると、桃、洋ナシ、夏野菜の日本のパプリカですね。
ペッパーって呼んでるけど、バナナとかベルの形、色も形も様々な種類ありました。 
ズッキーニ、トマト、豆もやったしメロンもスイカもやったなあ。
そんでリンゴとブドウでしたね。
テント生活もそうですが、ヒッチハイクに、教会の炊き出しも行きました。
フードバンクもお世話になったし。(※フードバンクは食事が満足にいただけない方をサポートする施設のこと)
様々な人種、男女年齢問わず一緒に働く機会がありました。

--あいかわらず旅人だなあ(笑)

一郎:はい、本当いろいろあって。
5000キロ、ケベックからヒッチハイクで来たおしっこ漏らしちゃう高校生もいたし。
働いてるのに、親族に不幸があったからってお金くれって嘘つくおじさん。
めっちゃ気のいいメキシカンクルーとパンクなイタリア人、チェリーピッキングの達人。
シェアキッチンで食材入れておくと、必ずなくなくなる冷蔵庫。
ビニールハウスにテント晴らしてもらったり、さくらんぼの木の下にテント立てたり、湖で水浴びしたり。
3ヶ月間、たくさんの農家で働いたけど、ワクワクしたり、どこに行くか考えたり、ムカつくこともあったり。
海外社会勉強たまらなかったです!

--今のイチローさんの生命力というか、この世の中を渡っていくような力がそこで形成されたのかもしれないですね。

一郎:そうかもしれないですね。
あと、偶然ですが、自分が初めてバンクーバーについた日、C&Nバックパッカーって宿見つけて入ったら日本人の男性がちょうど日本に帰国でリビングにいました。
冬はウィスラーに行こうと思ってると伝えたら、彼はウィスラーのテッパンビレッジで働いていたけど、仕事は夜だけで超調子良かったって聞きました。
そこで初めてテッパンビレッジの名前を聞きました。
ネットも普及してない時代で人からの情報をいつもなんでも求めてました。

--イチローさんがテッパンで働いていた理由って、そこにあったのか!

一郎:3ヶ月の野菜の仕事の間に日本人には4人ぐらい会いましたが、そこで一瞬公園であった日本人男性も、「冬はテッパンで働いていたけど調子良かったよ」って。カナダ来てから2度目のテッパンビレッジの名前!!
呪縛はすでに始まっていたのかな!なんて(笑)。


episode10: フリーラン表紙

ウィスラーでの生活が始まろうとしていた時期、イチローさんに朗報が入る。なんと、当時無名だったライダーにも関わらず、当時を代表するスノーボード専門誌、フリーランの表紙を飾ったのだ!

--いよいよウィスラーライフの始まりだ。

一郎:はい。ちょうどその時期に朗報もありました。
ファームで働いて少し気持ちと時間に余裕ができた時に、日本の友達に久々に国際電話しました。時代でしょ、Eメールもあったけど国際電話の時代です。
「いっさんフリーランの表紙になってたよ」て言われたのです。ハイシーさんに前シーズンとってもらった、菅平のリッジの写真がフリーランのカタログ号のカバーになってました。
嬉しかったですね!自分でもカバー取れちゃうことに驚きでしたね。

(ハイシーさんが撮影したカバー写真)

--自分は当時、専門誌で働いていたのでわかるけど、普通表紙って有名ライダーとか、広告をよく出してくれるメーカーのライダーなんだよね。だけど、フリーランって、そんなこと関係なく何か熱気が伝わる写真をカバーにしていたのか。カッコいいなあ。

一郎:自分なんて、まだライダーじゃなかったからね。
仲間とハイシーさんがフックアップしてくれたおかげです!
しかし、本屋で並んでるのが見たかったなあ。「これオレっす」って言いたいじゃないですか。
最近、ハイシーさんと昔のことをメッセンジャーでやりとりしていたんですけど…。当時、なんでオレとかフックアップしてくれたのか?

メジャーじゃないしこれからどうなっていくかわからないけど間違ったことはしてないし知識、経験、行動力、バイブスはバッチリだったからサイコーでしたよね。メジャーをわからせてやるっていうハングリーさと昇っていく感じがたまらなかったのかも。ガレージ感、マイノリティ感も魅力だったのかな。

マニアック扱いされてたけど今やメインですよ!日本のゲレンデいろいろなところでグリーンラボ、プラナパンクスの板を見かけるもの!当時を思うと目頭熱くなります。




episode11: ウィスラーライフ始動!

フリーラン誌のカバーもゲットして、いよいよスノーボード人生に油が乗り掛かる時期、遂にイチローさんのウィスラーライフが始動する。

Photo: Takashi Hirano

----そんな意気揚々として遂にウィスラー入りですか!

一郎:夏を乗り切り肌寒くなって来た季節、10月になりバスに乗ってビレッジのバス停に着きました。
当時はバス停も今みたいに大きくなく森が残っていました。
オリンピック前に、土地開発が激しくなり今のウィスラーになりました。
そこで迎えに来たケンタローと、うーんもう一人の男の子。この人も鉄板で働いていて、明日日本に帰るという方でした。

カナダ来て3回目に聞いた鉄板ビレッジです。
ウィスラー最初に滞在数日したお家には、サムライ寿司で働いてるヨリちゃんがいて、サムライも鉄板も一緒のオーナーだから聞いてあげるって話になって。
トントン拍子でやっさん(※オーナー)と面接、バッチリ鉄板ビレッジ劇場に参加することになりました。

--導かれた感じだね鉄板!

一郎:そーですね、おかげで移民もできたし、今がありますね。
ウィスラーブラッコム、来てから知ったんですが…、ウィスラーってブラッコムと2つの山だったんですね!
情報の少ない時代だけに、行ってみて知るってことがたくさんありましたね。ヤバいですよね。

--そうだね。今のSNS社会とは情報量が違うよね。自分の時はもっと情報少なかったし。それにしてもウィスラーブラッコムが2つの山であったことを知らなかったって、ズッコケるな(笑)。

一郎:ウィスラーでの初滑りは雪が積もって晴天でした。
ハーモニーリッジからシンフォニーサイドに落としてボトムで雪のついた岩山を眺めながらのチル。
アルパインのオープンな斜面からツリーラン、クリフ、ナチュラルな地形、シーズンここでスノーボードできるんだってワクワクしましたね。

--晴天率が低いウィスラーで晴天って、マザーネイチャーがイチローさんをウエルカムしてくれたよう。

一郎:記憶に残っているのは2泊3日、スプリットボードで行った。スピアーヘッドトラバースですね。
歩くのが嫌いな自分は行きたくなかったんですが…。
当時カムループスの学校でアウトドアのクラスを専攻していたタクロウさんが、学校の、単位に関わるらしく誘って来ました。
タクロウさんは、俺が二十歳ぐらいから一緒にスノーボードしてたバイタリティーとエネルギーとスマイルが溢れ出しちゃうパイセンで
スノーボードするために信州大学の大学院に入学して、峰の原で出会った方です。

--今ではいつもハイクしているイチローさんが、歩くの苦手だったって意外です。

一郎:ただ、結構ノリっていうか…。無茶苦茶で計画性があるといえばあるけど、なんでも結局的外れが多かったです。本人が怪我したり、道間違えたりと結果めっちゃ疲れたり。
タクロウさんは体力もあるからいいけど、オレは「めっちゃ行きたくない」って言いながら同行しました。
初めてのスプリットボードはボレーをエスケーイプルートで借りて挑戦です。
アルペンやクロカンのおかげで扱いはそんな気にならなかったんですけど、このルート基本ずーっとトラバースなんですよ!

--うわー、キツそう。

一郎:スノーボードにしたのなんて、3本ぐらいだったような記憶です。
厳冬期の2月、最低マイナス20度で、寝るとき朝起きれるか心配しちゃいました。

--マイナス20度!!ウィスラーでも最も寒い時期だ。

一郎:はい、寒かったですね。
この初めての挑戦は、ウィスラーブラッコムの裏の顔、フィッツシモンズレンジを見る良い機会になりましたでした。
当時はウィスラーのバックカントリーもめっちゃ空いてました。
今はヤバイ混んでるけど。

--そうだね。今では、みんなバックカントリー好きで1つのカルチャー形成している状況です。
そこから何シーズンウィスラーに通ったの?

一郎:当初の予定は、一冬のみのウィスラーでしたが、一冬では、ウィスラーブラッコムを知ることができず、次の冬も来ちゃいました。
このシーズン記憶に残ってるのは、パウダーの日にシン(美谷島慎が)とジローとゴローちゃん(小松吾郎)とタダシくん(布施忠)と滑ったガルバンから、ゴンドラ下通過してのヴィレッジまでのランですね
ミッドからはワンフットで降りてく感じで、当時のオレにはめっちゃ難しくて、ゴローちゃん、タダシくんすぐ見えなくなって、シンもジローも滑れてて取り残されたの覚えています。
この冬は、何十年ぶりかの雪不足でなかなか思うようにパウダー滑れず、来シーズンも来ようって決めました

--ウィスラー昔はよく降ったけど、そのぐらいから雪の降りも減ったからね。

一郎:そーなんですよ。日本もですが、ウィスラーの方が早く感じましたね。
そんな中、5月の中旬に日本へ戻ってジロー、ケンタローさん、シン、ハイシーさんと新雪の降った立山に行きました。
5月中旬に新雪って凄くないですか?
しかも記念すべきグリーンラボの初号機!
そのテストボードで雄山滑ってる時に虹が見えちゃいました!
なんかありがたやでしたよ。さい先から不思議な体験でした。

--凄いね!虹が見えちゃったんだ。

一郎:めっちゃテンション上がりました。

episode12: 極寒雪洞泊

ウィスラーでは、常に楽しいことを企んいる感があるイチローさん。気が付いたら、どこか泊まりで山に登ったり、また日帰りでも楽しいスポットを狙ったセッションなど頻繁に行っている。そんなイチローさんが以前、敢行したのが極寒雪洞泊だ。

(Photo: Kazuki Nakamura)

--地球温暖化が叫ばれているけど、なんだかんだでウィスラーも毎シーズンにマイナス20度のような超寒い日ありますよね。

一郎:ウィスラーの厳冬期2月の極寒雪洞泊も過酷でしたね。
あのシーズン、2週連続1泊2日で雪洞に泊まる企画を決行しました。

--雪洞って??

一郎:かまくらですね。
ウィスラーの頂上でかまくらを掘って、夕日と朝日のセッションするのが主な目的です。

--イチローさん軍団が考えそうなことだ(笑)。

一郎:何もない、自分たちしかいない時間を雪山です過ごすのが醍醐味なんですよ。
各自で宿泊するかまくらを掘るんです。
子供の時から、かまくらや除雪をしてきた自分は慣れたもんですが、初めての子たちはめっちゃ奮闘ですよ!

--わかるなあ。なんか楽しそう。夏のキャンプでも楽しいのに、冬に自分たちの寝床を自由に作っちゃうんだから。

一郎:人によっては天井がほとんどなくて、夜空を見上げて寝るよな雪洞を掘ったり、浅過ぎて、天候変わって雪が吹き込んできたり。
2月めっちゃ寒いんですよ。

--そりゃあ、寒いよ(笑)。マイナス20度って相当キツいよ。

一郎:この日のためにエアーマット購入した大ちゃんはマット初使いで膨らましてたら割れちゃって(笑)
エアーマットっていうか、ただのシートになっちゃて、一睡もできなかたり。
防寒バッチリの子は昼ぐらいまで寝ちゃったり(笑)。
それを見てるのもおもろいんですよね。

夕焼けと朝日のセッションもだけど、ナイトセッションもしたりして、普段体験できないちょっと頑張る遊びって感じですね。

Photo: Naoki Yonehara

episode13: グリーンラボ

話は現在イチローさんがホームに構えるウィスラーライフになって来たが、そもそもイチローさんを語る上でナベさん&兄弟で始めたスノーボード・ブランドGREEN.LAB(グリーンラボ)は外せない!ブランドの始まりや思いも聞いた。

(ルーツマウンテン!峰の原高原で撮影されたこの写真は、ハイシーサン作。表紙に続き、2回目のフリーラン誌の見開き掲載)

--さっき、5月の立山でのセッションで、グリーンラボ初号機に乗ったと言っていたけど、グリーンラボはどのような経緯でスタートしたの?

一郎:はい、グリーンラボは、ナベさん(渡辺尚幸さん)とジローで始めたスノーボードブランドです。
弟はオレと違った感じの根性があるんです。コツコツとできる力があるんですね。だからこそ続いているので、感謝しています。

--兄弟でもあるけど、また違った役割というキャラで良いコンビでもあるんですね。まるで南極物語のタローとジローみたい。あっちは弟の方がヤンチャだったけど(笑)。
グリーンラボと言えば、地元長野の木材を使った板として知られているけど、そのへんの話を聞かせてもらえますか?

一郎:長野の地元の木を使いウッドコアを使って作っています。木のその組み合わせで同じスペックでも乗り味の違いなどを感じれちゃったり奥深いですね。カラマツのコアのボードでカラマツ林滑っちゃう感覚とかの体験も!
滑るだけでも気持ちいいのに、心も乗るだけでちょっとウキウキするような。森も感じちゃうようなボードです。

--ボード作りって、楽しそう!

一郎:長野には元々たくさんのカラマツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹が戦後植林されたんですが、自分たちがボードをつくり始めた頃は国産材が海外の木よりも高くて、国内の木の需要が少なかったんですよ。
長野県も県産材の利用促進で学校の机をカラマツにしたり、ガードレールにも使用したりしてました。
まるでカナダの電柱のアイデアのような、浸透しなかったけど。

この県産材促進のことに詳しかったカズミさん(母親)が「スノーボードできないの?」って、言ったのが始まりじゃなかったかな。
確か、ウチにナベさんが来ていた時にスノーボードブランドやろうって話をしていたぐらいに。
名前とロゴもナベさんが考えてくれました。

(左から一郎、なべさん 二郎。グリーラボの立ち上げからのメンバーだ)

--木材の有効活用!エコで素晴らしいアイデアですね。ところで、ナベさんって何者なの?

一郎:ナベさんは、20代、日本山岳協会の理事やクライミングしながら、デザインの会社や、木工クラフトの仕事もして。さらにラリーの選手も経てスノーボーダーになったパイセンです。

--多才なんだねナベさん!

一郎:ナベさん凄いんですよね。
自分が24歳の頃に、バックカントリー講習会の講師で知り合いました。
たしか、以前にシュリロ(代理店)にいたエルフマンスノーシューを輸入していた西林さんが企画したもので、自分と弟は、サポートって形で参加。そのイベントは、地元の根子岳で行われました。
その時にナベさんが、たぶん40歳ぐらいかな。びっくりでしたよ、今もめっちゃ元気でパワーと行動力あるのだけど。
その時も凄いエネルギーで!

--へえ、今のイチローさんのようなエネルギッシュな方なんですね。

一郎:グリーンラボやるまではゲンテンのライダーだったり、シマノにもサポートされていたライダーでした。
ナベさんからバックカントリーの勉強して、それまで山育ちのノリだけの山遊びから、卒業しました。

--そこからバックカントリーを学んでいくんだね。

一郎:2回目のバックカントリー講習は妙高杉ノ原から三田原山でした。
その時に高校一年生の美谷島慎がナベさんと登場しました。

--おーお、あのトラビス・ライスもリスペクトするライダー、SHIN BIYAJIMAとはその頃から知り合いだったんだ。

一郎:シンとはその前の年に中部大会で話していたのですが、一緒に滑る機会がいきなり来て上がりました。
そもそもシンのことははなんだっけなあ、雑誌だっけ。なんかの雑誌で、当時人気の山崎勇亀さんと一緒にジャンプで載ってたんですよ。
それで長野にこんな子がいるのを知りました。
めっちゃ雪深かったんだけど、シンがスノーシュー忘れたので貸したのを今でも覚えています。

--へえ、そんな思い出が。

一郎:若かったすよ自分も、今は絶対貸せないけど。
その時、上で話聞いてなくて、ナベさんに怒られたのも覚えていますね。
少しずつですがバックカントリー学んでいきました。

--ナベさんと知り合ってしばらくしてグリーンラボ始めたんだよね。何かきっかけはあったのかな??

一郎:きっかっけはBPトレーディングの西林さんが、スノーボードからスケートの代理店になってからなんですが…。
BPで扱っていて当時人気だった、リビティーってアパレルブランドがあったんですよ。
そこの社長アイザックがスノーボード好きで、リビティーで2本だけスノーボード作ったのです。(※正式名称:LiViTY SNOWBOARD)
その一本を西林さんにプレゼントしました。
それをナベさんとかと乗ったりしたんですけど、突然ナベさんが「これは西林がボードオレたちに作れってことじゃないかな?」って呟きました。

--凄い思い込みっていうか、ガイダンスだね!

一郎:そーなんですね、ガイダンスでしたね。
グリーンラボ=コンセプトは地産地消のスノーボード、持続可能、ロハスって言葉が流行るときぐらいだったような。
もともと自分たちはスノーボードや育った環境のおかげで自然にグリーンラボになったんだけど。

カズミさんと小岩井先生の教育のおかげ大きいんだと思います。感謝ですよ、ホント。
さらに感謝する方は西林さん!
当時BPトレーディングで扱っていたアイパススケートシューズがBP初の空前のヒット!それまで、昼飯奢ってって冗談でも言っていた西林さんが、焼肉行こうよってよく言うようになりました(笑)。

グリーンラボの経済サポートは西林さんからしてもらい、工場はアクトギアの中山社長が話に乗ってくださって、なんとか形になるところまで流れができました。

--すべては繋がりだね!

一郎:そーなんですよ、一つ欠けてもスタートできませんでした。感謝ですよ。
初年度はすべて無節のカラマツのコアを作ったんですが、それが大変でした。そもそも、カラマツはヤニと節が多いい樹木で、長さ160センチ、幅3センチの材を部どりするには、ヤニと節のない部分で木を加工しなければなりませんでした。
一瞬、手間過ぎて、諦めそうになったけど、できたコアに、自分たちのロゴの入ったボードに乗れることになったのは、夢と言うか、こんなこともあるんだと人生の摩訶不思議みたな。

--なんかまるで映画のワンシーンみたい。

一郎:これが求めいたスノーボードライフスタイだったのかはわかりませんが、お陰でさらなる、スノーボードへのモチベーションを手に入れて、もっと楽しくなっちゃいましたね。

--滑り手から作り手にもなって、よりスノーボードへの愛が深まったような。段階みたいのがあるよね、人生って?

一郎:そう、なんですよね。
子供の時スキーにはまって飽きて、好きなこと、続けられることって、結局コレとアレぐらいしかなくて。
人生って最高だ!って思いました。

その板持って、ウィスラー3シーズン目、雪も前年より平均的に降って、初期フルカラマツコアのグラスルーツに乗ってご機嫌でしたよ!

--現在のイチローさんのスノーボードライフの土台が、ここで完成されたようですね。

一郎:そうかもしれません。ウィスラーで、自分のルーティーンも確立できました。
満足にパウダーハントできるようになり、やっとウィスラーローカルって言えるかもって気持ちになりましたよ。
どうせなら、こもった山に自信を持ちたくて、ウィスラー滑ったことある人たちと会話も弾むじゃないですか!
お山育ち、どこにいてもロコ感出したくなっちゃうんですよ(笑)。
フサキさんもめっちゃローカルだし。いいですよねローカルって響き。

--そうだね。だいぶローカルだもんね、お互い。だけど、まだ住むビザはなかったかな?それで帰国したの??

一郎:はい、グリーンラボをスタートしてウィスラーにも満足して日本に帰国。
冬は仲間たちとスノーボードする日々、東北に北海道にツアー。
滑って撮影して、チルして温泉、歩いてパウダー。
雪板も始まっておもしろくなって来ました。

--おーお、雪板!

一郎:グリーンラボ初めて2年目ぐらいに南木曽中学校の総合学習の時間に呼ばれて、自分とジロー、ナベさん3人で中学生たちと、木曽の名産、檜で木のスノーボードを作る企画になりました。
生徒たちはほとんどスノーボードをした経験がなく、初めてのスノーボードを自分たちの地元の木を切って削って作りました。
その時期に、雪板名人、五明のあっちゃん(※五明淳)は、これを「ユキイタ」と名付け今や雪板の神までになられました!

--そー、やって始まったんだね雪板。それにしても、イチローさんの人脈、繋がり、ヤバいほど深くて大きいな。

一郎:冬になり、ダミアン・サンダースも滑りに来たことがあるという、藪原スキー場で中学生とセッション!
驚いたのは、自分たちと作っていた時はバインが付いてなかったんですが、持って来た板にはしっかりとインサートホールも作って、バインが付いているほどの仕上がり!子供たちは、滑りも笑顔もご満悦でした。
驚きと感動が中学生からもらっちゃいました、年代も性別も人種も超えてセッションできちゃう。
スノボード素適なコミュニケーションツールですよね。

--そうだね。スノーボードは世代や性別超えて楽しめる。
そこからまたウィスラーに戻ったの?

一郎:はい、日本もすごくいい経験をさせてもらったんですが、2009年ぐらいかな、鉄板からワークビザが降りるってことで、ウィスラーの戻るきっかけになりました。
家族、ナベさん、仲間に感謝しつつ、ウィスラーでまた滑れるのは自分にとって再挑戦!心が躍りました。

--久々のウィスラーはどうでした?

一郎:やっぱり滑りごたえがありました。
ウィスラー毎回修行のようで鍛えられますしね。
戻って来て、以前の経験をもとにパウダーを滑っていました。
ある日、鉄板で仕込みしてる時にその日の雪の話になりました。
みんな今日良かったって話ししてるけど、実際ウィスラーって、メンツル勝ち取るのって簡単じゃないんですよ。
人の動きや、リフトのオープンする順番、風向き、積雪量などなど、いろいろ把握してないと、いいとこ滑れないんですよ!
だからパウダーの日は玄関出た時から戦いが始まってるんですよね(笑)

--たしかに!(笑)
パウダーに関して、ここまでハングリーで野蛮な人たち、それも少人数ではなく、世界から集まった強者。ここにしかいないかもしれませんね。

一郎:そーなんですよね。そんで、なんか仲間に一緒の雪を味わせたくなって、一緒に滑ろうと思うようになりました。
そっからパウダーの日は8時ゴンドラを「明日滑る人八ゴン集合」って言うようになりました。

今は745ゴンです。
以前は一人、もしくは二人ぐらいで滑っていたのに、最高は20人ぐらいの時もあったかな、途中合流の子もいれたら。
迷惑かなって思ったりもするけど、ウィスラーブラッコムは懐がデカいから関係ないんですよね。

--なるほど。それでよくイチロー軍団、パウダーの日に見かけるわけだ!
たしかにウィスラーブラッコムはデカいから人多くても分散するもんね。

一郎:そうなんですよ!そんで、自分が行きたいとこ狙ってセッション。
ライダーの子も、ライダー目指してるような子も、フリーライディング始めたての子も、みんな一緒になってスタイルセッションできるのがおもろくて。
メッチャいい時間ですね!

--スノーボードの楽しさの1つ。セッション感は!

一郎:だけど、困ったこともありました、撮影です。
今のように誰でもアイフォンや一眼を持っていたわけではないので、せっかくいいところ滑ったりしてるのに写真も映像も残せない。
日本にいた頃は、ハンディーカムをライダー各自で持っていて取り合ったり、カメラマンに撮ってもらったりしていてフッテージや写真が残っていました。
撮影したいなー、写真残したいなって毎回思うようになりました。

そんな時に、当時いっしょに鉄板で働いて、滑ってたタカシが自分の写真を撮りたいって言ってくれました。
日本でのハイシーさんはじめプロのカメラマンとのセッションの経験を生かして、構図や画角 ロケーション陰影などをタカシと試行錯誤してセッションしましたね。

動画は、頭に横付けのコンツアー、カメラが中心に来るゴープロのスタイルがうけいレられなくて、今はゴープロ大好きで使っってますけどね(笑)。
写真はタカシから、たけちゃんとつないで、今はカズキとナオちゃん!今でもウィスラーで撮影できてます。

そう! Lade clothingヨッシー(会田喜文)とデザインしてるタカともウィスラーで知り合いました。当時ヨッシーはビーニー編み始めの頃で、オレのカスタムビーニーを作ってもらってました。今では日本のスノー業界有数の手編みビーニーブランドですよ。タカは絵のプロとしてカナダで試み始めたぐらいでした。グリーンラボのグラフィックも描いてもらったり、今ではカナダ国内外問わず活躍するアーティストになりました。

日本での仲間との経験と、ウィスラーで繋がったご縁のある仲間たちのお陰です。ありがとうございます!!

※インタビュー記事で度々登場して来たナベさん(渡辺尚幸さん)は、現在、PRANAPUNKS snowboardingをやっている。

http://greenlab.jp.net/

episode14: 15シーズンぶりの日本

ワールドトラベラーとして動いていたイチローさんだが、昨シーズンは日本で滞在していた時期が長かった。そのへんの真意も聞いてみた。

--イチローさんには、なんか仲間を引き付ける。そういったオーラというかエネルギーがあるんだろうなあ。ところで、前シーズンは日本にも結構、長く行っていたようだけど。

一郎:はい、先シーズンは15シーズンぶりぐらいに日本で一冬過ごす機会がありました。メチャメチャ最高でした!
雪質に積雪量に、昔からの仲間に、ウィスラーで繋がった仲間、グリーンラボが続いてるおかげでさらに繋がった仲間。
グリーンラボをサポートしてくれてる全ての人に感謝ですよね。
オレは久々に帰って来てポンってその輪に入るだけ、弟の続ける才能っていうか、昔から知っていたけど、根性あるんですよね。

--弟のジローさんは、イチローさんとはまた違った才能、コツコツとビジネスできる力があるんですね。

一郎:昔から通っていた東北ツアーもジローが続けているので、パウダーの時期が短かった冬でしたが、長野がダメな時でも東北でたくさんの良い日をいただきました。
週末は試乗会しながらのパウダーハントは楽しいですね。
行く先々でお店の方やスノーボーダー達と滑って喋ってのセッション。
新しいゲレンデや、斜面、ローカルの流行りなんかも知れる良い機会にもなりますしね。
この冬も日本に行きたいと考えています。

--日本の冬の良さも堪能したんだね。

一郎:そーですね。もう冬は日本かなって思ってウィスラーに6月帰って来たんですけど、コロナ開けてボーダーも元に戻ったのでワーホリがたくさん来ていて、その中の何人かはグリーンラボのことをショップで知ってたり、以前ウチにシェアで住んでいた子に、日本でお世話になっていた子とか現れて「リョウさんからお話聞いてました、お会いしたかっったです」なんて言われてオレも思わず感動、涙出ちゃいました。
ウィスラーにいても日本のシーンが見れるんですよね、しかも次世代の子達を。
生きの良いライダーたちともっと滑ってセッションしたいって気になりました。

--イチローさんは、自身で開拓し、またその様々な苦労、思いというか重い!?も自分で背負って、次世代に繋げる優しい人なんですね。

一郎:どうでしょうか。でも、元気のある、生きの良い彼らともっと滑って見てみたいな!って気になっちゃいました。
この目で見ていたいですね次世代の滑りを。


--RYOくんとも結構、セッションしているイメージがあります。

一郎:昨年はヤックンといっしょにモービルも購入しました。ヤックンは、みのさんに鍛えられて、タンデムでオレを連れて行ってくれるぐらい上達したようです。(※イチローさんはRYOのことをヤックンと呼んでいる)
いっしょに行ったユウ(佐々木 悠)とのセッションももっとしたいですね。
スノーボード、長野カルチャー、ウィスラーの経験が自分のやる気を上げてくれます。
自分はスノーボードカルチャーの大ファンです少しでもこの季節遊びを盛り上げるっていうのか、たくさんの人と共有、共感できたら最高です。スノーボードは笑顔のコミュニケーションツールですね。




epilogue

それにしても今なお衰えないその情熱とエネルギーは、どこからやって来るのだろうか。
その元気な源。情熱って、どこから?

「自分は情熱って感覚より、何かしたい衝動を抑えられないっていう感じです。目的のためには、ちょっと手間なハイクアップもやっちゃうんじゃないでしょうか。周りは熱い、ってリスペクトしてくれて嬉しいですけど。あと先を考えられないくらいの衝動みたいな。阿保といえばアホ〜みたいな(笑)。
ジャンプすることって、トリップしている感覚なんです!そして何より若い子たちと滑りたいと思うんです。ただ、そう思っちゃうだけというか」

そんなイチローさんは、今日もどこかで何かを企み(?)若いライダーたちを引き連れて、トリップ計画を立てているのだろう。いや、あるいは今、あなたが満員電車に揺られながら、これを読んでいる間にも鬼ハイクをして、すでにメンツルのパウダーをいただいている最中かもしれない。

そもそもなぜ、こんなにも長いインタビューをアップしたのか、というと…。
ただ単にイチローさんをインタビューしたら、そうなっちゃたということもあるのだけど、このネットがあたり前の時代に、あえて歯ごたえあるような長文コンテンツもあってもおもしろいかも!?しれないと思って。
何より、もしこれからあなたが辛いことがあったら、ぜひイチローさんの生き方を思い出してほしいと思ったんだ。自分もずっと昔、総武線の満員電車に揺られていて、自分のやりたいこと、やるべきことを見失った時期があるけど、今はこうしてイチローさんとウィスラーでスノーボードをしている。
もちろん、人それぞれ様々な人生があり、あなたのこれまでのご苦労に対してリスペクトする。しかし、もし何か本当に今辛い経験していたら、いい加減かもしれないけど「なんとかなるさ!」と伝えたい。神様は受け止められる試練しか与えないって!?そこを乗り越えた時、本当に幸せな時間がやって来るのかもしれない。

あなたがスノーボーダーなら、いつかイチローさんに会うといいよ。かなり良い刺激を受けるから。イチローさんは、そんなあなたを温かく迎えてくれるだろう。きっと。
さあ、雪も降って来た。今季も雪山へ向かってスノーボードしよう!

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