HIGHWAT99-ウィスラーへの道

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文:飯田房貴

環境が人生を左右すると予感した時、僕はカナダへ渡る決心をした。カナダでのライフ・スタイルを成功させるために、ワーキング・ホリデーのビザを取り、ある程度の情報も仕入れて出かけたのである。バンクーバーとウィスラーにの間に存在するHIGHWAY99を車で走らせる時、僕は今でもあの時の気持ちを思い出す。

90年の秋に生まれて初めてカナダにやって来た。空港からバスでバンクーバーの町へ、途中ROBSONという観光地的なショッピング・スポットをちょっと拝見した後、ライオンズ・ゲート・ブリッジを通り、ウィスラーへの通じる道、HIGHWAY99に乗っかる。そこから見える景色を眺めると、改めて自分が遠くに来てしまった、ということを思い出させる。信号もなくひたすら北に向かうその道には、途中スコーミッシュという小さな町があるだけで、あとは山と海ばかりの大自然。時々、貨物列車が通るが、日本から来た人間にとってはおもいっきり異国であることには変わりない。自分の夢に向かうため勢いよく日本を飛び出しのはいいが、HIGHWAY99にいるとなんとも言えない寂しさが全身を包み始めるのだ。その寂しさの正体は、今これを読みながら旅に向かうおうとしている読者の方と同じ気持ちだったのかもしれない。好きなスノーボードをやるために、旅に出る。新しい生活環境を求めて、いつでもスノーボードができる地に行く。だけど、行ったこともない場所には、頼りになる友達、それに知り合いだって一人もいない。そういった土地でどうやっていけばいいのだろう? そんな不安に包まれながらも、僕の思考レベルは最低限の幸せを欲していた。住むところは住めればどこだっていい。仕事にしたってお金がもらえらばどうでもいい。だけど、スノーボードだけはおもいっきりやりたい。何と言っても自分はスノーボーダーなんだから。

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カナダで最初の年にやった仕事は日本料理レストランでのスシ・シェフだ。住むところに関しては、仕事とセットのようについていたスタッフ用アコモデーションに泊まれた。よくスシを握っていたというと、人から必ず「その前に経験は?」と聞かれる。だけど、僕はまったくスシなんか握ったことがないし、それどころか料理もまともにできない人間だった。だけど、これから海外でスノーボードを続けるにはスシを握れる必要があると感じたので、スシ・シェフ希望で皿洗いから修行したのである。
大志だけはいっちょまえだが、最初の頃というのは右も左もわからない赤ちゃんのようだった。英語だってまともに話せなかったのだ。自分の作ったヤキトリをお客さんに出すため、ウエイトレスに「できたよー!」って話す英語がわからない。仕方なく親方にその言い方を聞いたら、かなりあきれられながら「チキン・ヤキトリ・レディ」って言えばいんだよ、と怒鳴られた。こんなレベルの英語に付け加えて問題への対処方法の欠如もあった。例えば僕はペーパー・ドライバーにも関わらず、運転しにくいアメ車の超デカイ車を安いという理由から買ってしまった。だけど、買った初日から止まっているトラックにぶつけてしまって逃亡したり、また翌日には信号待ちしていた車にもぶつけてしまった。その時、ぶつけられた車の運転手が出て来て、かなり怒鳴って「new car !」だぞって感じで叫んでいたが僕は構わず逃走した。そんな最低限のモラルがなかった自分に呆れ返るが、とにかく怖くてその場から逃げ出したかったのである。
赤ちゃんは何もできないが、手足をジタバタさせる。そしていつしか立ち上がり歩き出すことを始める。僕も赤ちゃんの時のように、カナダでいつもジタバタしていた。

ウィスラーに最初に行ってから、約10年の月日が経った。今、HIGHWAY99で運転する僕の横には一昨年結婚した妻が乗っている。彼女は、あの「チキン・ヤキトリ・レディ」という言葉をかけることのできなかった当時のウエイトレスだ。後ろにはシベリアン・ハスキーの血の混ざった愛犬がスヤスヤ寝ている。妻や愛犬を眺めていると、まるで10年前に一人でHIGHWAY99を通った日が幻のようにも思える。
旅に出れば、希望とは裏腹にいつも僕たちは寂しい思いもするものである。だけど、僕たちは勇気を出して一歩を踏み出す。するとそこには新しい世界が待っている。新らしい出会い、新しい絆、そして新しいスノーボード・シーン。もし、キミがスノーボーダーであるなら、旅に対して恐れぬことはない。スノーボードという世界共通語があるのだから。スノーボーダーであることに誇りを持てば、どこへだって行けるだろう。
HIGHWAY99は、僕に寂しさをたっぷり味合わせてくれたが、そのことを通じて勇気ということもたっぷり与えていたようだ。

●このコラムはSNOWing誌2000年4月号にて掲載されました。

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