28年間の終止符!Camp Of Champions終焉

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真夏の世界最大パークとして、28年間もの期間、世界中の若いスノーボーダーに楽園を提供し続けて来たCamp Of Championsが、ブラッコム・グレーシアの雪不足のために終止符!悲しい終焉を迎えることになった。

まさに自分の人生、夢だったと語るCOCファウンダーのケン・アッケンバック氏が悲しいメッセージを発信した。

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7年前のある日、私の娘カイアが5歳で妹のカプリが3歳だった時、カイアは私を見上げて「お父さんはCamp Of Championsのボスなの?」聞いてきた。

「そうだよ。」と、私は答えた。「なぜ、そんなこと聞くんだい?」

彼女は「私が25歳になったら、私はキャンプのボスになるの!」と言ってくれた。

COCの仕事は私にとってすべてだった。私の夢は100歳になるまでCOCを続けること。
カイアが25歳になるまでCOCを運営し、その後、彼女がボスになり、世界から集まるスノーボーダーの夢をサポートすることを希望していた。マウントベーカーのバンクドスラロームのように、長い世代に受け継がれるものにしたかった。

5月31日、ウィスラー・ブラックコームから、連絡が来た。
「氷河に使う雪がたくさんあるように見えるかもしれませんが、現実には今季のスノーパックはあまり密度がありません。この雪を動かすと、見た目よりもずっと雪が少なくなります。ジャンプサイズを調整する必要があります。」

私はこのメールを受け取った時、パークを作るのに十分な雪を持たないことを知った。ウィスラー・ブラックコムは、たとえ過去最悪の干ばつ年であっても、「目に見えるよりも雪が少ない。」と言わなかった。
しかし、私が気づいていた苦悩は、自然のことであり、ウィスラー・ブラックコムのせいではありません。今季は、長く寒い冬を楽しめました。しかし、スノーパークを作るための湿った雪を得ることができませんでした。 私たちのキャンパーの大部分は中級者以上エキスパート・レベルのライダーですが、そのような機能を持たないパークでは不満のままになります。

あなたはこう思うかもしれません。
「ウィスラーは素晴らしい年でした。どのようにして、こんなことになるのだろう?」

毎年、ホースマンTバー付近のグレーシアの雪を維持することは、ますます困難になっています。氷河はどんどん小さくなっているのです。特に近年の4シーズンに加速、ここ数年で35フィートもの氷を失ったのです。昨年は、グレーシアへの入り口を40フィートも下に移動させなければならなかった。 1989年に私が立っていた岩は、キャンプパークの上にある崖の上の140フィートも上。
ウィスラーブラックコームは信じられないほどの金額を費やし、冬の氷河をスキーすることができるように努めて来ました。トラックで氷河に雪を積み上げる作業を行いました。

しかし、現在のグレーシアの状況は、私たちが約束したパーク施設を提供するのに十分な雪がありません。

私はメールを受信して​​以来、夢中になっていて最後の1週間は何をするかを理解しようと努力してきました。ウィスラー・ブラックムのせいではない。彼らは顧客の確保に優れていて最善の努力を積んで来たのです。
地球温暖化の影響です。
一週間寝れませんでした。 28年後に、私の夢は終わったのです。正直、私は岩の下を這いたい。私は死んだような気がする。キャンプは私の人生そのものだったので。
以上が、Camp Of Championsケン・アッケンバック氏が、これから来るキャンパーやコーチ、スポンサードに宛てた内容である。この後、アッケンバック氏は、すでに支払いを済ませたキャンパーの方に謝罪するコメントを寄せ、返金する旨などを伝えて、自身のケータイ番号や連絡先なども添えている。

 

DMKにとっても20年以上取材していたスポットだけに、このような知らせを聞いて残念だ。
ケンは、世界で初めてスノーボード・ショップを作った人物であるが、スノーボードがブームの気配が見えた1980年代後半になると、もっと世界のスノーボーダーたちの希望に満ちた場所を提供するため、サマーキャンプを始めた。彼にとって、これは生涯のライフワークだったけに、このような事態を受け入れるには、相当のことだったに違いない。

我々にとっては、このような夢の場所を与えてもらったことに感謝しかない。
トースタイン・ホグモ、ジョー・セクストンを始め、数多くのアップカマーを知ることができたのは、このサマーキャンプがあったから。シモン・チェンバレンと毎日いっしょに山に上がって撮影したことも懐かしい。シモンが、JPやジェレミーなどのレジェンドを紹介してくれたこと。カメラマンのDice K Maruといっしょに上がった日々。本当に懐かして美しい思い出が詰まった場所だった。小学4年生の雅(鬼塚)に最初に出会ったのも、中一の友基(角野)に出会ったのも、ここだった。ソチ五輪前に夏には、後にスロープスタイルで金、銀、銅を獲ったすべたのライダーが来ていたのに・・・。

このような夢の世界を提供してくれたケンには、感謝せずにはいられない。COC、たくさんの思い出をくれてありがとう。

 

 

 

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