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成田童夢が出演した「しくじり先生」を見ました。
童夢は、子供の頃から知っていました。
最初に彼を知ったのは、確かウェイクボードで頑張っている姿のテレビ番組です。
泣きながら過酷な練習をさせられ、厳しい父親に育てられている姿が印象的でした。
彼はモーグルスキーヤーとしても活躍しますが、スノーボーダーとなってからは、ウィスラーにも来たのでその頃の少年、成田童夢も覚えています。
また、彼がワールドカップで優勝したブラッコムの大会も取材しました。
当時、童夢は多くのメディアに囲まれていました。多くのメディアは童夢に注目していていたのです。
というのも、なになに新聞という大手新聞社の方は、ワールドカップに取材する歳、スノーボードに関する知識はズブの素人でやって来ます。スノーボード界で活躍して来た若者(選手)にとっては、新聞社から受けるわからんちんの質問に答えようがなく、むっすり。相手にしないというところもありました。
だけど、童夢は当時スノーボードのメディア中心だったスノーボード専門誌がフューチャーした存在ではなく、突如現れたようなスノーボード選手。スノーボード専門誌とは裏腹に、新聞社への対応は良かった。だから、童夢中心に一般メディアからリリースされることが多かったのです。
しかし、そんな童夢は当時のナショナルチームの選手たちから、嫌われているところがありました。
スノーボード界で育ったライダーたちにとっては、童夢というのはあまりにも異質で、わけわからない存在だったのです。
実際、彼のビックマウスやパフォーマンスは、その大会現場に合致せず、周りを引かせるところもありました。
あんなに叫んでパイプにドロップインして、周りの外人選手や外国メディアからしても、あいつはクレイジー!?という感じでした。
(この写真は、童夢がW杯で優勝した時に撮影。あの時の童夢は、今で言う神ったようなパフォーマンスでした。)
僕にとって、最も印象的な成田童夢というのは、いっしょに行ったニュージーランドの撮影です。
スノーボーダー誌のハウツー雑誌の撮影、N編集者さんと行った時のことです。
よっぱど厳しい父親から解放されたのが嬉しかったのでしょう。彼は、めちゃくちゃに弾けちゃいました(笑
日中撮影が終わって夕食の後、ワナカの街に繰り出して、その日に出会った日本人スノーボーダーと楽しんでいました。
みんな、「わっ、童夢くんだ!」って喜んで。気さくな童夢はいっしょに飲もうよ!って感じで騒いで。
今だからこそ言えるけど、ホテルの中でスケートして窓ガラスを割う騒ぎを起こしていましたよ。
だから先日、東スポで最近のナショチ禁煙騒動に偉そうに語る童夢を見て、「そんなこと言えるんかい!」っと思わず突っ込みそうになりました(笑
それだけではありません。僕とN編集さんが帰った後、童夢は数日ニュージーに残っていたのですが、その時、お風呂の泡立ちバスを楽しんで、調子に乗ってお湯を流しっぱなしにしちゃったのです。そのお湯は溢れて下のフロアにまで流れてしまうという騒動もありました。
父親から解放された弾け過ぎた童夢の姿を見て、お父さんよっぽど怖いんだな、と思いました。
あの時、童夢はラップの歌詞も考えて自身のノートに記していました。そのフレーズや高い声の歌いっぷりが、おかしくておかして。腹を抱えて笑わせてもらいました。現在、彼がテレビでも活躍する片鱗を見せてもらいましたよ。
まあ、あのまんまの性格ですから。スノーボード・メディアやスノーボード・メーカーからは疎んじられているところはありました。当時のスノーボードのメディア・リーダー、トランズ誌など、童夢をとりあげることはほぼなかった。スノーボード・メーカーも五輪後に彼に声を掛けることもなかったようです。
だけど、しくじり先生番組の最後、彼は真剣に言ってましたね。
「お世話になったスノーボード。今度は恩返ししたい。」と。
この発言に、僕は完全に気持ちよく裏切られました。
というのも、この番組を見る前、まあ有名人だからこうしたテレビに出れてラッキーだったな、ぐらいな感覚だったのです。
でも、彼はしっかりと厳しいお父さんを受け入れ、大人になっていました。
様々なしくじりを得て、成長した童夢の姿に感動しました。
また、童夢といつかどこかで。再会することを楽しみにしているよ!
何か相談あれば、いつでも連絡してくれ。