Dice-K Maruで愛称でお馴染みのカメラマン/丸山 大介

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職業柄、いろいろ業界の方を接してきたが、一流と呼ばれる人を見てると不思議なオーラを感じることがある。今回登場するDice-K Maruカメラマンもその内の一人だ。グローバル・インタビュー初、カメラマンの世界へ探求。

フサキ(以下F):そもそもカメラマンをやろうと思ったきっかけは?
丸山大介(以下M):乗りで、ハハハ(笑)!うーん、きっかけ何だったかなあ?スノーボードは19歳の頃始めていて、スノーボードがめちゃくちゃ楽しくて、それと同時期ぐらいに自分の生きていく方向性を決めなくちゃいけないなぁって思っていた。その頃はまだアメリカの芸術大学に入るために勉強するつもりでいたんだけど、他のことが楽しくて無駄に時間が過ぎていったんだ。そんなある日、スノーボードの写真を撮影していたプロカメラマンの樋貝君と知り合いになって、話する内に“これだっ!”ってなった気がする。

F:大学かなんか卒業して。
M:うん。大学も専門学校も卒業しないで。幼い頃からイラスト・レーターとかデザイナーになりたかったのだけど、変な固定観念があって、クリエーターの世界って、美大や芸大を卒業しなければ職に就けないと思っていたんだ。ところが大学に入る作業だけで時間を費やしてしまっていて、「どうしようどうしよう」って悩んでいた時に、カメラマンの樋貝君に友達の紹介で知り合いになって、業界人になるまでの色々な質問をしまくった気がする。当時の樋貝君曰く、広告というかデザイン方面、メディアだとか、クリエイティブ部門でそういった二次元で現す仕事だったら、写真も面白いよって言われて・・・。写真とか全然やったことないし、まったく興味とかなったけど、もともと広告のデザインやイラストを描く作家になりたかったから、それもありだなあ、と思って。そしてその時、まだカナダにいたんだけど・・・

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F:あっ、カナダにいたの? へえ。
M:そう。4年間カナダにいたんですよ。英語学校通ったり、空港で働いた年もあったし、あっ、家の解体業もバイトでしていたときがあったよ。それで最後は芸大の編入を考えて短大も通った。でも、いまいち何か自分の中でつかみがなくて、色々な疑問が自分の将来に揺さぶりをかけていたような気がするなあ。“進路をそろそろ決めなくちゃいけない”という時に、当てにしていた親からの学費もストップになって、しかも手に職業がないし、とにかく悩みを樋貝くんに打ち明けたら、「クリエイティブに生きていくのに大学に高い金出して通う必要なんてないよ。僕は写真学科を出たけど、実践で勉強した方が即戦力になる。東京にはスタジオがいくつもあって、カメラマンになりたい子がスタジオマンをしたり、アシスタントとかして修行できる環境があるんだ。実践で勉強もできるし、お金ももらえるし、もしかしたら泊まるところがあるかもしれない」とか言われて(笑)、じゃあ、それしかないと思って、でカメラマンをやろうと思った。「学校行かなくても職人になれるんだ~」って初めて気がついたのもその時だった。もともとスノーボードを撮るだけが目標じゃないし、スポーツ写真だけじゃ絶対将来喰っていけない(笑)って不安もあったから、絶対的にスタジオのカメラマンになろうと思ったんだ。だからスタジオ・ワークはめちゃくちゃ大変だったけど、超おもしろかったよ。仕事が終わった夜は、色々とスタジオ内で実験したりしてね。それに基本的に週末や休日は休みだから、そんな時は樋貝君や先輩達の写真を見よう見まねでスタジオを野外に変えて自分なりに実験していったんだ。

F:何か学生時代からクリエイティブっぽかった感じだけど、そういう芸術的な肌はどこうで培ったのだろう?子供の頃に絵を描くのが好きな少年だったとか?
M:もう、図工、美術大好き。一番になろうと思っていたわけじゃないのに、楽しすぎて小学校1年から高校卒業するまで美術の成績はいつも一番だったよ。

F:もととカメラマンの樋貝さんとは、どういうきっかで知り合ったの?
M:カナダに住んでいるときに日系人の親友のジョンが樋貝君と同じSTORMYチームで樋貝君がカナダに撮影しに来たとき知り合ったんだ。そしてその年のサマー・キャンプに2人についていったんだけど、僕もカメラ1台とレンズ1個買って。

F:それはウィスラーのサマー・キャンプなの?
M:うん、ブラッコムのキャンプとフッドのキャンプ。ブラッコムの時は、まだカメラ持っていなかった。マウントフッドに行く時に、オレゴン州は消費税がかからないから、買って。樋貝くんとか、堀さんというカメラマンも昔いたんだけど、いろいろ聞いたりテクニック盗んで。それを現像したら楽しくなってきて・・・。話が試行錯誤しちゃうけど、その一ヶ月後に帰国して東京のスタジオに入社したの。カナダですでに知り合っていたSTORMYチームのみんなと遊んだりして、週末とかスタジオがない冬の日は、チームの連中の写真を撮ったり、大会にも出たりしていた。

F:選手として大会に出ていたの?
M:出ていましたよ(笑)。JPSTの大会。JSBAじゃないけど。(注釈:当時はJSBA以外に、JPSTなる団体がもう1つあったのである)

F:へえ、それは初耳! JPSTって豊田の兄ちゃんとかやっていた方だよね。(注釈:豊田の兄ちゃんとは、一世を風靡した豊田貢プロの兄のこと。当時は兄ちゃんは何かJPSTの役員もやり選手だった。ちなみにこの兄ちゃん、面倒見の良さから凄い業界で好かれていた兄ちゃんだった)
M:あっ、そうそう。そっちのスノーボードの撮影は、レンズ選びからアングルまで、もうほとんど自己流だった。あまり金持っていなかったけど、スタジオの方もおもしろかったんで、すっかりカメラの世界に引きずり込まれていたなぁ。

F:スタジオおもしろかった?
M:(間髪入れずに)おもしろかったですねえ。露出の取り方とか。まったく無知で、カメラというものを知らないで入ったから、ただ撮ればいいんだろう、という世界から、いきなりプロが使うライティング技術を目のあたりにして、かなりブレインウォッシュされた。自分で言うのもへんなんだけど、もともと几帳面な性格だから、キチキチというところがうまく商品撮影のフィールドと息があって、熱中した。ライティングもプロの中でも本物のプロが見分けられるようになって、その人たちの仕事は正に華麗だった。ケース・バイ・ケースで全然ライティング違うし、セッティングも手に触れて1mmでも商品が動いただけで怒鳴るくらい神経質なカメラマンもいたし。でも本当に楽しかった。自分の性にあっていたんだ。そのうち早くスタジオを卒業して、自分で撮影をしたくてたまらなくなってきた。

F:ふーん、わかるような気がするなあ・・・。
M:それでスタジオを1年半やった後、半年間カメラマンのアシスタントをして、フリーのカメラマンになったんですよ。

F:それじゃあ、カメラマンとしての下地はスタジオが鍛えてくれたって感じなんだ?
M:そうですね。そのオーナーさんというのが、また偏屈な人で、専門学校とか大学とかで写真の勉強している人を入れなかったんですよね。

F:本当?
M:うん、まったく無知な人しか雇わなかったの。それは勉強しちゃっていると、学校ではこう教わったのになんで実践ではなんで?というのが多いらしくて。もちろん実践の方が仕事として通用しているわけだから、なにもできないのにウンチクだけたれるのが嫌いらしくて。それから最初、絵を描かせられたんですよ。

F:おっ、それはおもしろい!
M:なんでもいいから絵を描いてって言われて、絵心があるなら入れてやる、みたいに言われて。

F:へぇ~
M:「元々、自分は絵を描くのが好きで、カメラマンになろうと思ったのは最近です」って言ったら、「明日から来れるかい?」って聞かれて嬉しかったなぁ。

F:すぐに撮影とかさせてくれたの?
M:いやいや、ライティングもわからなかったし、用語すら知らなかったから。それにスタジオでは135mmっていう普通の一眼レフカメラあるでしょ。あれを持ち込むのも禁止だった。4×5(しのご)とか大きいカメラ・・・

F:なあに、4×5って?
M:シノゴって大判と言って大きいフイルムで撮影するカメラの通称で、結婚式とかで撮るようなデッカイやつで、その世界から勉強させられたんだ。

F:なんでまた普通のでやらせてくれなかったのだろ?4×5の方が勉強しやすいってこと?
M:やっぱり大きい方が絵を作るといった意味でのフレーミングとか、実際に雑誌やポスターと同じ比率だし、実践にいながらの勉強を強調していたんだと思う。

F:何か撮影してみた?
M:自分で実験させてもらえる機会があって、夜とか暇な時に・・・、それで泊まり込みって僕しかいなかったんですよ。いきなり家なかったから。それ、話したら管理人代わりに住めって言われて。面白かったですよ。それに半年後には認められて一番上のチーフになっちゃったんですよ。それ1年やって、自分的にほとんどのライティングに自信が出て辞めても喰っていけると思って辞めました。

F:いい師匠にあってよかったね。
M:師匠はいないんですよ。言ってみれば、樋貝くんが、足ケガする前までは、いつも樋貝くんの写真凄いなあ、凄いなあって見ていたから師匠かな。自分の写真が雑誌でバーッと出ていても、樋貝君の写真が雑誌に載ると「すっげ~、ぬかりがなぇ~」って思ってました。自分の作品も樋貝君の写真のように近づけるために実験してみましたね。

F:へえ、マルくんでもそうやって努力していたのかあ。カメラマンとしては何年のキャリアなの?
M:今年31歳になるんですよ。だから、19歳の時にスノーボードを始めて、21歳の時からカメラマンの道考え始めて、24歳からプロ・デビューして。

F:本当に? もう、ちょっと前のような気がしたなあ。僕がスノーイングでバイトしていた時には、もうマルくんがモノとか撮っていた姿を見たから。
M:それ、僕が24歳になる前ですね。

F:あの時、スノーイングの編集部でモノ撮って辛そうだったよ。その時、モノ撮るのって辛いんだなあって思ったんだよ。
M:ハハ(笑)、その時、スタジオマンだったんですよ。こんなこと言ったらあれだけど、当時の編集長の新田さんから、「商品紹介のコーナーだから写っていればいいし、好きなように実験やってみて」って言われてやったの。「イエーイ!商品撮影!」って思ったけど、実際に撮影してみて、それが雑誌に出た時は、「ヤベー」というのがありましたよ(笑)。

F:本当! そうなんだ(笑)。当時は、もうバリバリのカメラマンって思って見ていたのになあ。まっ、その当時からマルくんはクリエイターのオーラが出たからそう思ったのだろうけど。
M:向こうは全然OKなんだけど、ここのラインがこうだとか、ここはこうするべきだとか、いろいろ反省が多くて。それで「プロ中のプロと、駆け出しじゃこんなに違うんだー」って実感しましたね。でもそれと同時に「やー全然問題ないよ」とも言われて、自分の仕事に対する完成度や妥協点が高いことも知りました。

F:ふーん、なるほどねえ。今までカメラマンやっていて楽しかったことは?
M:色々な人にいっぱい会えるということ。人の経験を聞くことで自分の知識が広がるし、そうぞうも広がりますからね。それにカメラマンをしてなければ行けなかった色々な場所に行けたこと。特に昔はカチカチの頭の人間だったので、いろいろな人に会って、自分なりにこうでなきゃと思っていた部分を、かなり崩してもらって。

F:そうは見えないないなあ。そうだったんだ?
M:そうですよ。こうじゃなきゃいけないって感じで。例えば大学に行かなきゃ職につけないとか、それぐらいのカチカチ頭だったのが、エネルギッシュな人とか不良だった連中やアウトローな自分が受け入れなかった連中と知り合いになって、彼らの生き様に刺激されて。最初は、“ふざけんな”って思いながら付き合っていた連中も、今では“ありがとう”っていうくらいに感じているし、こっちが何も言わなくても友達でいてくれて、自分を崩してくれたことに感謝しています。

F:こうやって変わったいったマルくんを見て両親は、何か言っていた。「お前もずいぶん変わったね」って言われた?
M:「早くお金返して」って(笑)。

F:ハハ(笑)。じゃあ、辛かったことは?
M:5年前にケガしてから普通に歩くのも辛くなっちゃって。それで、スキーになったじゃないですか。そうすると、いいパウダーのロケーションとかでも、みんなサーッと行っても自分だけ遅れを取ったりとか。精神的にも現実的にも気持ち良く滑れなくなっちゃっていて。他に5人ぐらいのパーティーで撮影になってハイクしても、いつも機材を持ってスキー靴を履いている自分が遅くなっちゃうんですよ。正直、先シーズンもゴーグルの下は涙でいっぱいの時もありました。悔しくて。

F:その5年前の事故はどんなものだったの?
M:ツリーランでソールが何かに引っかかり、そのまま木に向かって放り出されて、ぶつかって間接がぐしゃぐしゃになっちゃたんですよ。5ヶ月入院して1年間松葉杖ついてました。手術は6回しました。

F:今までいろいろなスノーボーダーを見てきたと思うんだけど、気になるライダーをあげるとしたら。
M:うーん、あいついいなあ。確か今、17歳かなあ、中井孝治。凄い素質あるから、ちゃんと身体鍛えれば、今のテリエを越せるぐらいになれると思う。導いてあげられる人が必要だと思うけど。

F:幸いにして、ライオといういい兄貴分もいるしね。
M:あと、布施忠も凄いですよ。結構、シャイで頑固な性格なんで、自分の合わないスタイルは絶対やらないんですよ。やっぱり、大人になってきて、プロ・スノーボーダーとして、ちゃんとしなくちゃいけないと認識した上で今はもっとがんばっています。彼も中井と同じだったんですよ。彗星のように現れて上手かったんです。素質あるし。ただあまり一般の方々に知られていなかったんですよ。見たこともない言われるライダーだったんですが、先シーズンは一緒に行動していて、やばい写真が沢山残りましたからね。また注目され始めると思います。

F:最近、うちのホームページを見ている人は、結構、業界に働きたいという人がいるんですけど、そういう人に対して、カメラマンとして一言お願いします。できれば直球でビシッと!
M:創造力や美的センスが自分にはないと思ったら辞めた方がいい。というのは、競争率が高いから。ただ“こなせる”じゃ絶対にだめ。誰でもできる仕事だけに、自分にこだわりだとか、自分が改革しているものがないのに辞めた方がいいと思う。

F:dmkのいつも最後の質問は、ドリームについて。丸山大介の夢を教えてください。
M:僕の夢ですか(笑)。やっぱり夢は幸せな家庭を築きあげたいですね。それで、住みたいとこに住みたいですね。いろいろ社会のルールがなかなかうまく噛み合わないけど、今ならハワイに住んでみたいなあ。毎日サーフィンして。できれば、冬はスノーボードができるところ。やっぱり、幸せになりたいですね。今も幸せですけど。

写真キャプション(上から)
1 特集ポートフォリオ@Freerun10月号
2 HANZO@Freerun10月号
3 表紙@TRANSWORLD SNOWboarding10月号
4 2000@Whistler with riders
5 Minami Sports Postcard

 

インタビュー後記:
今回でインタビューした中で、興味深い言葉というのは「実験」というところ。自分が目指す芸術のためには、実験を繰り返すという感性なのである。とかく世間では「頑張って上を目指す」とか、そういう言葉が蔓延っているけど、そんな威勢だけは本当に目標には到達できないものである。「実験」という言葉には、丸山大介の崇高な感性に向かう地道な努力が隠されていると思うのだ。あの太陽のように明るい笑顔の中には、どんな実験をも繰り返すことができるエネルギーがある、そんなことを感じたインタビューだった。

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