便利って恐い

あれっ、シャープペンがない。毎日メモるトレーニング表に書き込みができなくて、困っていたところ鉛筆を発見。だけど、表が小さいので先が太い鉛筆では書けない。仕方がなく何年かぶりに鉛筆をカッターで削った。これが意外と難しい作業で、なかなかうまく先を尖らすことができない。そんな時、昔、よくお袋が鉛筆を削っているのを思い出した。

普通、どんな家庭にも鉛筆削りがあるものだが、家の鉛筆削りはうまく先を尖らすことができなかった。後でと言っても自分が大人になってから、その鉛筆削りは先を尖らすことができて、単にその調整方法を知らなかっただけ、ということに気付くのだが、ともかく自分が小学生の頃には、その鉛筆削りはほとんど使っていなかった。代わりにいつもお袋が鉛筆を削っていたのだ。

毎晩寝る前になるとその作業は行われていて、自分がうとうと寝ていた時も鉛筆を削っていたことを思い出す。あの時、お袋はどんな気持ちで削っていたのかはわからないが、なんとなく親の愛情を感じる場面だったことを思い出す。

お袋の愛情話と言えば、1つ印象的な場面を思い出した。確か自分が30歳になった頃だったと思う。買ってきた靴が合わなくて「クツずれで痛いよ」なんて会話していたのだ。そうしたら翌朝、何気なくその靴を履いて行ったら、クツずれをしなかったのである。よくよくチェックすれば、その晩にお袋が石鹸でクツずれしないよう塗りこんだのだ。30歳にもなる大人の自分の靴を年老いたお袋がまだ子供扱い(?)で石鹸を塗っていたことを想像すると、なんだか恥ずかしいし、その一方で親のありがたさを感じたものだった。

先日、日本に行った時に1つ印象に残っているシーンで、新宿から電車に乗ったとたんに前に座っていた席の人のすべてが携帯をいじっていたというのがあった。座ったとたんにみんな何やら携帯をいじっているのである。メールでもしているのかな? ゲームでもやっているのかな? その内、何人かは作業をやめて眠りに入った。なんか一連の動作が東京という街を動かすマシーンの一部品にも見えるような異様な雰囲気を感じた。
(この時の模様を盗みシャッターを切ったよ。だけど、顔は隠しておかないとね)

最近は携帯により、世の中が凄く便利になったのだけど、その一方で人と人とのつながりがどんどん弱まるような気がしてならない。便利なものが生まれたお陰で、何か失うものも大きいと思うのだ。自分が便利なものを使っていたハズなのに、いつの間にか使われているような状態に陥っているのでは?

例えば、携帯が出てから世の中の人が待ち合わせの約束時間にルーズになったような気がする。携帯に人間が使われた結果、モラルが低下しているように思えるのだ。本来、携帯を使うハズの人間が、どんどんその便利さに汚染されて怠惰な人間になって来るようである。

もしも世の中に携帯やFAXがなければ、離れた家族へのコミュニケーションは手紙になるだろう。もしも世の中にシャープペンがなくなり、鉛筆削りもなかったら、お母さんは子供の鉛筆を削り続けるだろう。さらに不便な世界にさかのぼって洗濯機がなければ、お母さんは家族の洗濯ものを手で洗わなければならない。

よくある下町の昔の後景では、近所のお母さんたちが集まって、そこで井戸端会議を行う。そんな時、新米お母さんは子育てに関する悩みを相談するのだろう。だけど、現代のような便利な社会では、そういった場が少ない。便利になった分、他の人とのコミュニケーションや家族などの愛情伝達など、しっかりと行わないといけない世の中なんだと思う。

便利って恐いね。