1990年ブリッケンリッジの神クレイグ・ケリーのパイプラン

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長年スノーボードを見て来た人なら、驚くべき歴史的な動画を発見したので、ご紹介しよう。
1990年コロラド・ブリッケンリッジの神クレイグ・ケリーのパイプランだ。

この頃、ブリッケンリッジはさながらスノーボーダーの聖地だった。特にコンペティションシーンにおいては、積極的にワールド冠的な大会が開かれていた。
「冠的」と表現した理由は、この時期はまだ公式なISF国際スノーボードの大会が開かれていなくて、確か同年の春頃に初めて北海道のルスツで初のワールド大会が開かれたのである。

この時代、アメリカで盛んにハーフパイプ種目があり、一方ヨーロッパではアルペン大会が開けれてた。お互いの国同士で勝手に(?)ワールドという名称の元、大会を開いていた。
日本で初めて行われたルスツという舞台は、ちょうどアメリカとヨーロッパを融合されるような形で、スーパーG、デュアルスラローム、ハーフパイプの3種目の競技が行われた画期的な大会だったのだ。つまり本当の意味で世界的な大会は、ルスツが初だったのである。

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当時のヒーローと言えば、トップ的アイドル・ライダーだったクレイグ・ケリー他、まだ出だし感バリバリのジェフ・ブラッシー、親分クレイグを慕うキース・ウォーレンス、バク転回転のトリックJTエアーを編み出したマイク・ジャコビー。いわゆるこの4人がバートンを代表する四天王チーム。
ちなみにこの2年ほど前だったか、クレイグはシムスからバートンへ電撃移籍している。

一方のシムスを代表するライダーにはティム・ウインデルと若きショーン・パーマーがいて、確かパーマーは同じブリッケンリッジでその1年か2年後にクレイグに勝利する優勝を成し遂げている。

その他には、ハードブーツでぶっ飛びフリースタイラーのダミアン・サンダース、あとのラマ―・スノーボードを作るバート・ラマ―などがいた。
テリエ・ハーコンセンの登場はあと1年、ジェイミー・リンはあと2年ほど待たないといけないという時代。

アルペンの方は、ピーター・バウアーとジャン・ネルバ。
日本人では、竹内正則が世界シーンで活躍!

すでにこの時代から、コロラドに行っていた日本ライダーの先駆者はいたが、まだメディアなどが発達しておらず、ブリッケンリッジは当時のスノーボーダーにとっては、まだ見ぬ憧れの地だった。
大会のスポンサーは、あの頃、人気のあったカセットテープ、TDKというのも懐かしい。

この映像を見ると、当時の柔らかいビンディングとブーツがわかる。というのも、クレイグは独自にパワータンのようなものをストラップに噛ましているからだ。当時は、まだスノーボードのグッズも今とは比べようもないほどサポート力がなかったので、各ライダー様々な工夫をしていたものだ。
スキーブーツのタンを付けたり、スキーブーツのインナーをソフトブーツに取り換えたりなど。

そして、これもなんとも懐かしいリーシュコード、いわゆる流れ防止対策の紐が前足に巻かれている。

クレイグのライディングの特徴は、両膝をくっつけるところ。こうして支点を安定させ、ボードにパワーを伝えていたのだろう。
いわゆるゴルフのスイングのように、両手とクラブを一本化させるような形だ。

パイプは、今見ると驚くほど小さい。それでも短い助走距離でしっかりとリップを飛び出しジャンプ・トリックにつなげている。
メソッドエアーから入るあたりは、今のパイプ・ルーティーンと同じだ。そこからリーンエアーにつなげ、バックサイド・クレイル。ここで足を伸ばすようにポークするのは、当時のスタイルのこだわりの一つ。4発目はインディだが、このようなトゥサイドでのアプローチでクレイグは、JTエアー(後方回転トリック)を見せる技も持っていた。
その後も、パイプの下部を利用して、最後までスピードを保ちながらトリックを入れるのは、この時代の王者!クレイグ・ケリーの技術の高さの証。

パイプは、今のように整備できるパイプドラゴン(マシーン)がないので、手彫りだ。
当時、大会に参加するライダーたちは、スタッフと共に整備を手伝い、密かに自分の狙うヒットの壁を修正したものだった。


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