いよいよ、今週の水曜日にカタログ号SNOW BOARD BEST GEAR CATALOG 20-21 2020年 09 月号が発売されました!
すでに購入された方も多いと思います。
カタログ号で新しいギアをチェックすると、ワクワクします。
今日は、このカタログに関するヒストリー、思い出話を。
カタログ号を最初に始めたのは、SNOWing誌。
あれは、確か1992年頃だったか。
当時のSNOWingという雑誌は力があって、営業部の方では池袋のサンシャイン60で展示会も始めていました。海外から来た招待客、当時のスーパースター、ダミアン・サンダースとか来ていて、華やかだったなあ。
その頃に営業部にいた渡部さんが、現在、パシフィコ横浜で開催されているインタースタイルをやっていることを考えると、すでに30年近くやられているわけで、この継続力は凄いなあ、と思います。
だいたいどんな企業であっても10年持つのは、6パーセントしかないと言われている中、このアクションスポーツ界で30年活躍されているというのは、本当リスペクトですね。
SNOWing編集長は、新田さんという方でした。まだ創刊して2年間とかしか経っていなかったのですが、もうすでに2代目か3代目編集長だったと思います。僕は新田さんの弟子のような感じで、編集部を手伝っていました。
と言ってもまだライダー思考が強い頃だったので、シーズンの谷間にちょっとバイトしていた感じです。
その新田さんというのが、ユニークな方で僕が突然カナダから手紙を出して、内容なんだっけなあ??もっとあーしろこーしろとか、偉そうな意見を言ったのかもしれません。そこで、「日本に帰って来たら会ってみよう!」ということになり、編集部の下の階にあった喫茶店で、やたらにじゃがいもが大きいカレーライスをご馳走になりました。それが縁でSNOWingバイトするようになったのです。
そこで、僕は当時のスノーボード雑誌の編集の仕事を学びました。
実を言うと、高校を卒業して大日本印刷という日本を代表するような印刷会社で出校部署の仕事をしていたこともあり、雑誌がどのように作れるかわかっていました。だから、そのへんの知識も役立ちました。
当時のスノーボード界は、まさにこれから!世間ではバブルが飛んじゃって、バブル後期に誕生したジュリアナ東京もその2年後にはなくなっちゃうわけですが、スノーボード界だけはやたら元気でしたね。すべての業種の低迷が、スノーボード界に乗っかちゃったので、様々な参入企業があったわけです。
例えば、スキーだけやっていたところがスノーボードを始めたり、単に海外メーカーの代理店や問屋などやっていた会社が、自分のメーカーを作っちゃったり。そう言えば、イタリアのシューズメーカーのFila(フィラ)なんかも参入していましたね。
カタログ号の時期になると、みんな必死。メーカーさんとFAXでのやりとりをしながら、試行錯誤しながら文章を作っていたものです。
メーカーさんにしても「儲かっているならスノーボードを始めよう!」というところも少なくなく、そんなところでスノーボードに詳しくないメーカーの文章作りは編集部に負担が掛かります。ほとんど投げやりで、もう適当に宣伝文句書いといてくれ!なんて、ところもあったので。
自分は新田さんの下で、あるライターさん、例えば西さんという方の書いた乱筆した読み難い原稿を必死に解読しながら、ワープロに起こしたりするような仕事がメインだったのですが、この時期だけはカタログの執筆も手伝いました。
編集部の先輩からは、「ああ、またコストパフォーマンスかあ…、何度この文章使えばいいんだ!もう使えないよう。フサキくん、なんか良い文章ないかなあ?」なんて、聞かれることもありました。
確か、あの時、本当にスノーボードをメチャクチャにやっていたのは、当時すでにニュージーランドとカナダで篭り経験した自分だけだったので、結構、自分を頼ってくれたのです。
そう言えば、新田さんの革命的なリーダーぶりを思い出しました!
いつか会社に行くと、朝から編集部のみなさんが全員集まって会議していたのです。
何だろう?と思ってちょっと覗いてみると、なんとそこには僕が前に渡したメモ書きがありました。それは、SNOWingという雑誌がどのようにすれば、もっと良くなるのか?そんな提言を10個ほど箇条書きしたものだったと記憶しています。
単なるバイトの青年の提言を元に、大人たちが会議をしている姿を見て、感動しました。あれは、本当に嬉しかった。あの時の気持ちが、今、僕が若い人への接し方につながっているようにも思います。
新田さんは、英語に精通していたのでしょう。自身が編集長になって、アメリカなど海外の専門誌ともやりとりするようになりました。
その習慣の中に、自分で作った専門誌、SNOWingを海外に送り、また海外からも専門誌を送ってもらう、ということがありました。
ある日、カタログ号を送ったら、「日本はよくこんな電話帳みたいな分厚い雑誌が売れるな!」と驚かされたそうです。
でも、翌年だったが、早速、アメリカの専門誌、Snowboarder誌だか、Trans誌が結局、真似したと笑っていました。
もうこの頃すでに、カタログ号というのは、専門誌の中でも最も重要なワークとなっていました。
というのも、発行部数も多いのですが、何よりメーカーさんからたくさんの広告費がいただけるからです。
専門誌にとっては、ドル箱ワーク!
この後、後発していく様々な専門誌、日本版トランス誌や実日社のSNOWBOARDERも、すべてフォローしていきましたね。
トランスジャパン誌の初期には、SBJ(展示会)の会場の一角に撮影スペースを作り、その会場内で各メーカーさんからボードを借りて、そのまま撮影するという、かなり荒業ワークだったことも思い出します。
そして、実日SNOWBOARDER誌が、どこかのタイミングで驚くべき早い時期に発売しました。
確か、当時のカタログ号って、8月とかのリリースだったのだけど、さらに前倒しで6月だったかな?ともかくとんでもない早い時期にリリースして、各専門誌カタログ合戦は激しいバトルへと突入していきました。
しかし、時代と共に専門誌が売れなくなり、またスノーボードも売れなくなくなって、広告費がカット。
結果、現在のような状態が続いています。
で、今ではもうこのフリーラン誌のカタログ号だけに。おそらく世界でもこれ一冊しかないのかもしれません。
90年代初め、SNOWing誌とSNOWSTYLE誌がカタログ号の火ぶたを切り、すぐにアメリカや欧州にそのビジネスモデルが伝わって。
でも、海外でも専門誌がなくなりつつある現状で、今はもうこの一冊に…。
スノーボードのカタログ号は、本屋さんやスノーボードショップに置いてあって。
それを買ったあなたの手に届き、いつでも自分がチェックしているところに置いておく。
一服しながら、カタログ号のページをめくりつつ、来るべきシーズンへの思いを抱く。
こんな思いができるのは、カタログ号があるからですね。
スノーボーダーにとって、1,300円でこんな思いをさせてもらえるのは、とても安いと思います。
このカルチャーを継続するためにも、ぜひお近くの本屋さんなどで、購入してみてはいかがでしょうか?