スノーボードが日本に入ってから30年以上が経った。
日本にスノーボードが入った当初は、スノーボードがこれからウィンタースポーツの盟主になるとは考えられなかった。
それは、日本だけに留まらず、世界でも同様。
それぐらいゲレンデは、圧倒的にスキーヤーの世界だったのだ。
90年初頭にスノーボードが台頭始めた頃、スノーボーダーはゲレンデの悪と言われた。
スキー場は、スキーヤーのためという考えの元、スノーボーダーは招きざる客。
しかし、時代は90年初旬から中盤のスノーボード・バブルとなり、1998年長野五輪でスノーボードは正式オリンピック種目に。
その頃、「ゲレンデの悪」はゲレンデの救世主となった。
今では、スキー場はスノーボーダーになしでビジネスが成り立たないほど、スノーボードが普及し、アメリカでは若者の多くがスキーよりもスノーボーダーをやりたがった。
そんなスノーボードの歴史を振り返ると、そこにはこのスポーツを普及したプロフェッナルが存在する。
創世記にプロと名乗ったライダーたちは、当初、これで飯が喰えるとは思われていないような存在だった。しかし、いつしか1千万プレイヤーや現れ、現在では1億以上も稼ぐプロ・ライダーもいる。
これまで、世界のスノーボードのメディアの世界では、ヒストリー・ライダーに関する様々な特集が行われていたが、日本ではほとんどなかった。そこでDMKでは、独自な視点で「スノーボード・ヒストリーを動かした10人のライダー」を紹介することにした。
もちろん人それぞれの様々な評価があるので、これが全てとは思わない。しかし、今回この記事をきっかけに、こういう企画が様々なところで活発的に議論され、これまでスノーボード界に功績あったライダーが評価されれば幸いだ。
Text: Fusaki IIDA(飯田房貴) [email protected]
テリー・キッドウェル Terry Kidwell
フリースタイルという扉を開いたライダー
スノーボードの世界でまだプロフェッショナルというものがしっかりと確立していなかった頃、その創世記で活躍したのはジェイク・バートンとトム・シムスであろう。
この二人は共にスノーボード選手としても大会に参加もしたが、しかしそれ以上にメーカー設立者として功績を立てた。
プロ・ライダーという存在では、この後に登場するライダー、テリー・キッドウェルにその存在感を委ねることになる。
スノーボードの競技は、元々スキー競技が原型となって、80年台はレースの歴史でもあった。
しかし、そんな中、東のレーサー主義バートンに対抗し西のフリースタイラー、シムスが挑んだのだ。
その頃のシムスは、決してバートンに甘んじた2番手でなく、スノーボード界を牽引するリーダーでもあった。
そして、テリー・キッドウェルは、そのシムスが進めたフリースタイルの象徴競技ハーフパイプという新しいカテゴリーで最初に世界チャンピオンになったライダーだ。
初代ハーフパイプ王者と君臨した姿は、フリースタイルの父とも呼ばれている。
スノーボードのフリースタイル気質というものを最初に最も推し進めたライダーで、おもいっきりエビ反りになるメソッドエアーや華麗なハンドプラントをスノーボード・トリックに取り入れた立役者でもある。
1986年にこのスタイルを見た衝撃は、現代の3Dトリック以上だったと記しておこう。
それぐらい当時のスノーボードはセンセーショナルなニュー・スポーツで、テリー・キッドウェルが見せたフリースタイル・テクニックは、当時のスノーボーダーを熱狂させたのだ。
フリーライドとしての板だったスノーボードが、スケートボードのようなフリースタイル道具として魅力的に多くのスノーボーダーに伝えて来たライダーとして、彼の名は永遠にスノーボード・ヒストリーに刻まれることだろう。
テリー・キッドウェルは、まだスノーボードというものが世界に広がる前、1980年中頃から後期に掛けて、いち早く礎を築いたライダーだ。
(写真右、3人で写っているのは一番左がテリー・キッドウェルで右が故トム・シムス氏)