今回のインタビューでは、待望のというか、遂に!ハロルド ミヤモトさんが登場です。
業界の隠れた仕掛け人というのでしょうか。ブランドの立ち上げに携わり、スノーボードバブル時代のことをよく知っている方。当時のとんでもないエピソードなど、ユニークなお話などぜひ聞かせていただければ、と思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
ミヤモト:フサキさん、ご無沙汰してます。ハロルドと言っても誰もご存じないかと思います。今は、世田谷でしがないスノーボードショップをやっている高齢者です。
最近の不満は、あちこちのスキー場でシニア割引が60歳以上から65歳以上に引き上げられてきていること。リフト券も上がってきてるし、年寄をいじめるのもホントいい加減にしてほしいです。
--ご紹介、ありがとうございます(笑)。
90年代、私はミナミスポーツという当時の大手チェーン店のショップライダーで、また、スノーボード専門誌、スノーイング誌のライター、フリーでフォトグラファーなど行っていました。一方で、ミヤモトさんはすでにメーカーさんの仕事をされていて、また私と同じくスノーイング誌でコラムを書いていたことを思い出します。
私が本格的にミヤモトさんのようにメーカーの仕事を始めたのは、Nomisブランドからで、Westbeachなどを得て、現在はSandboxの代理店業務に携わっています。
一方、ミヤモトさんはこの業界の先輩で、ぜひ今回はあのスノーボードがバカ売れした輝かしいスノーボード・バブル時代のことを教えていただければ、と思っております。
ミヤモト:ちょっと思ったんですが、先日フサキさんが提案したDivision(ディビジョン)のブランドがどうとかピーターラインや、ステップチャイルドとかの話をしても、年寄りがよくやる「ワシの若い頃は…」みたいな、たいしたことない自慢話になりそうで誰も興味を持たないのではないでしょうか?
もっと闇の、〇〇の〇〇社長が、商習慣を無視して傍若無人だったこととか、長野オリンピックの時に〇〇に乗っ取られた話とか、当時の業界が性的にいかに乱れたとか、協会の専務役員に呼び出されて恫喝されたとか、ハイエナのような会社〇〇の話とか、そんな裏話の方がおもしろくないでしょうか?
フサキさんの意図やそういうサイトでないとか、他に敵ができるのがまずいとかなら、通常運転で行きますが…。
--いやあ~。メチャクチャ聞きたいですが、DMKも様々なメーカーさんから最新のギア情報などいただいて成り立っていて…(汗)。あまり過激な暴露話は伝えられないかなぁ(笑)。でも本当に〇〇の話、興味あります!
ミヤモト:では今回、マーク・モリセットとかDivisionを始めた創成期の話と、そのころの〇〇さんスゴかったエピソードの2つでどうでしょうか?
--はい、それでぜひお願いします!
もう、ミヤモトさんにお任せ。語っちゃってください。
ミヤモト:わかりました。それでは!
1970代後半に、パイオニアモスの田沼社長が海で使うサーフボードを山に持ってきて、ウエットのフルスーツで滑っていたとされる、日本のスノーボードの黎明期。
その当時、自分は長野県の野沢温泉にこもってリゾートバイトしていて、これをスノーボードにカウントして良いかわかりませんが、その時ジョリーっていうプラスチック製のスノーサーフィンや、ザッパーという今でいうスノースケートで毎日遊んでいました。
--えっ、その頃、ジョリーとかザッパーっていうものがあったんだ。早速、勉強になります。
ミヤモト:はい。本格的なスノーボードとの出会いは、それから数年後、今も所属している京都のイメージ・サーフチームの仲間たちと 「スノーボードってのがアメリカで流行ってきているらしい、これからみんなでやるぞ!」ってことになって始めました。
--なるほど。アンテナが作動したわけですね。
ミヤモト:あっ、前置きが長くなりましたが、その時点では卒業してカーメイトという車用品を製造販売している会社に就職して、プラスチック製のタイヤチェーンや、オートキャンプ用品など商品企画の仕事をしていました。
ここからが、スノーボードに関する当時のビジネス話になって来ますが、定例の企画会議のとき、当時の役員から「ミヤモトくん、何かまったく新しい事業の企画とかないの?」と振られ「そう言えば、私最近スノーボードってスポーツにハマってまして、これから絶対に流行ると思ってまして…」ってプレゼンをしたら、トントン拍子に企画が通って、のちに事業部を任されることになりました。
--うわっ、凄い!すでにスノーボードをやっていたミヤモトさんにとって、まさに運命の出来事ですね。世界に名だたる国産ブランド、フラックス・バインのカーメイト、そのスノボ事業部の始まりがミヤモトさんだったのかあ。
ミヤモト:そこでまずは、海外ブランドを輸入してみようとなって、ヨーロッパに出張しました。
今にして思えばアメリカに出張したほうがよかったのですが、「まぁアメリカブランドも出展してるだろう…」ぐらいのノリでしたね。
当時社長から「何人かで行くと費用もかかるし、ミヤモトくんなら生命力ありそうだから一人で大丈夫でしょ」と言われて単身で。最初はミュンヘンのISPOの展示会に行って、その後スイスのスキー場を視察したり、会社から「フランスのグルノーブルでも展示会やるらしいから行ってくれ」みたいな指示があって、次はドイツのケルンだ何だ、オープンチケットだったので、時間をかけていろいろな場所に行きました。
--やばー、その頃からミヤモトさん、ISPOとかの展示会を周っていたのか。
ミヤモト:で、最終的にわかったことが、展示会はISPOが一番デカくて、あとはそれを縮小して各地を周る感じなので、最初だけで十分でした。2か所目以降は、出展メーカーの人から「お前、また来たのか!」と少々あきれられたのを思い出します。
で、いくつか候補があったんですが、最初はドイツのPLENKというブランドを輸入販売することになりました。
--あれ!?、そもそもミヤモトさんの英語って、どこで学んだのですか?
ミヤモト:実際それほど得意ではないんですが、20代後半ぐらいに当時埼玉県の西川口に「本番あり」の店舗型の格安のヘルスがいっぱいありました。もう1万円以下で「このクォリティいいんですか!」って感じで(笑)。 たまたまですが、そこでアルバイトしてたモニカちゃんって留学生と知り合って(イタリア系のアメリカ人)、イイ感じになって彼女が卒業して帰国するまで2年ほどお付き合いしたことがあって、あのときは結構勉強になりました…。と言いますか、このサイトはうちのヨメも見てるので、このエピソードはオフレコでお願いします(笑)。
--英会話学校行くよりモニカちゃんの方が、効果ありそう(笑)。
ミヤモト:そういえば、そのとき同時にアンテナショップを作りたいと企画して、東京の吉祥寺にtype-Tというスノーボードの専門店をオープンさせました。
スノーボードビジネス初めて参入するので情報を他メーカーからとるというのが建前でしたが、京都のイメージ・サーフショップがあまりに楽しかったので、そういう専門店をやってみたいというのが本音でした。
お店には永田学、ライオ、ゴッチ、一号とか、あとに有名になるライダーも集結してエピソードてんこ盛りですが、これはまた別の機会に。
--あーあ、なんか聞いたことがある!一号くん、そこにお世話になっていて、そこに学くんやゴッチとかライオも在籍していたとか。今、考えるとヤバいライダーたちがいたショップだ。
ミヤモト:話を戻しますが、このPLENKでおもしろい話があって、ラインナップにSIMSのシェイプにそっくりなボードがあって、でもSIMSに比べて少し重くて、硬かったんですね。
で、当時会社で契約していたライダーの阿部幹博さん(※その後、スノーボード初代となる長野オリンピック・コーチ)が「このボード、フレックス柔らかくしたいので、トップシート側を削ってみませんか?」ってことで、サンディングマシーンでどんどん削って行ったら中からSIMSのデザインが出て来てビックリ。
おそらくSIMSの部材が余ったので、上からさらにシート貼って流用してたんですね。道理で重くて硬いはず。今では考えられないけど、おおらかな時代でしたね。
--マジかー!(※椅子から落ちる)
※後日談
このインタビュー後、この事件のことを覚えているか気になったため阿部さんに確認したところ以下のように返事あったので、ご紹介しておきます!
「いきなりオレ、今月で61歳っすよ。笑っちまうね。
それでプランクの板の話。もちろん覚えてますよ!あきらかにアウトラインが同じでしたからね。
まぁそのくらいいろいろな板を見てた自分って、凄いって(笑)。
それならまだ同じような事件がありますよ! Lookのバートラマーモデル、尖ったフリースタイルボードです。 あの中身はラクロアのフリースタイルボードのトップのアウトラインを変えただけのハズ」
ミヤモト:その後、正式に事業部を立ち上げてFLUXのバインディングを開発するのですが、話がとっちらかるので、今回はボードブランドの話に絞りたいと思います。
元々メーカー志向の強い会社でしたので、自社ブランドとしてONE Snowboardsを立ち上げました。特徴としてトップシートではなく、ソール側にカートゥーンのデザインです。
--懐かしい~。DMKの前身って、そもそもウィスラーで私が作ったスノーボードのチームのDynamite Kidsが始まりで。当時、周くん(高石)、ゴロー(小松吾郎)が、カーメイトのライダーになったことを思い出します。あの時、いっしょに滑っていた高橋シンゴマンは、JOYRIDEでした!
あの頃のボードって、どんなクオリティだったのですか?
ミヤモト:当時のブランドで言えば、JOYRIDEやLAMARなんかもそうでしたがソール材のポリエチレンの製造技術が上がって透明度が高くなり、ソールに凝ったデザインをしても、以前に比べてボヤけなくなった時期だと記憶してます。
--確かに1990年頃のLAMARって、ソールやボヤけていてケバ立ちが酷く、まずはステンレスのスクレーパー作業しないと滑れるもんでなくて。そこから、ブーム近しで、良くなっていったのかあ。
ミヤモト:性能的には初年度のボードはセンターが硬く、あまり乗りやすいボードではなかったのですが、1990年代前半の頃でスノーボードがまだ一部の人でブームの兆しが出て来たぐらいです。商品も情報も不足していた頃だったので、とりあえずボードの形をしていれば何でも売れた時代でしたので、すぐに売り切れとなりました。
--ボードの形をしていたら、売れていたってヤバいな(笑)。あの時代に戻りたい!
ミヤモト:ONEの開発と同じ時期、カーメイトにはUSA INCというカー用品をアメリカ市場に販売しようと設立した子会社があるのですが、そこを利用してアメリカブランドとして立ち上げて、日本に逆輸入しようと仕掛けたのがDIVISION23です。
後に、FORUMも取り扱いをするのですが、「ONEから始まって23でフォー、1、2、3、4だ!」と深読みをされる方もおられましたが、これは都市伝説です。
他にもDivision23が東京23区から来ているという説も聞いたことありますが、これも後付け。
--えー、その都市伝説を信じていたので、ちょっとショック…。
ミヤモト:当時USA INC.にBarfootという老舗のスノーボード会社から引き抜いたグレッグというスタッフがいて、彼がDivision(分割)って付けて、その後に割り切れない数字を組み合わせたいと言い出して、最初はDivision13をブランド名に提案されたんですが、ご承知のとおり、日本でも販売することを考慮すると、ゴルゴのイメージ(注:松本じゃない方)に引っ張れるるということで、同じ素数の23に落ち着いたというのが真相です。
--あーあ、そうだったんですか。聞けて良かったです。
ミヤモト:Division23のライダーには、あとにCAPITAの社長になるブルー・モンゴメリーもいました。そんな縁から、自分がカーメイトを辞めて独立した後、日本で最初のCAPiTAの代理店をやりました。
--うわあ、そうだったのか。CAPiTAブルー・モンゴメリー、この業界の数少ない大成功人!!しかし、ミヤモトさんの経歴ヤバイな。CAPiTAの出だしもミヤモトさんかあ。
ミヤモト:その当時Gamblerという自社ブランドもやっていたのですが、これは有名デザイナーのセクシーな女性をデザインにあしらったもので、これが世界で最初にスノーボードとエロを融合させたブランドと自負しています。
今はGamblerのブランドは辞めてしまったのですが、現在はそれにインスパイアされたブルーが、CAPiTAのD.O.Aシリーズに受け継いでくれていると勝手に思っています。
--なるほど、ありますね。そういうの!
ミヤモト:Division23のライダーと言えば、まだ子供だったピーター・ラインもデビューしました。
確かカナダのライダー、マーク・モリセットが「スゴイ少年がいる」と言って連れて来たのですが、当時から暗かったです(笑)。
--ピーター・ラインは元々いじめられっ子と聞いたこともあります。アーティストタイプで独特な雰囲気のあるチビでしたね。僕もチビですが(笑)。
ミヤモト:じゃ、ピーター押しで行こうかということで最初に北米のトランスワールド誌に、見開きの広告を打ちました。内容はライディングとかではなく、ピーターが自室の机にエロ本を置いてパンツおろしてシコってるという、インパクト重視の内容でした。
--インパクトあり過ぎ!(笑)
ミヤモト:あと先ほど少しふれたForumですが、これは正式にはカーメイト発信ではなく、アメリカのウエアブランドSpecial Blend(ダボダボでルーズなニュースクール・ウエアの先駆け)の流れになります。
たしかサンディエゴの展示会だったかに行った時、狭い一コマのブースでSwitch Backsってウエアを展示していたラオウって奴と知り合って輸入代理店を始めたのですが、彼が「今度ニュースクールが来るから…」って送って来たのがSpecial Blend。Switch BacksのイニシャルがSBだったので、同じスペルを当て込んで適当?に決めたブランド名と言っていました。
この会社がカーメイトとの取引きで大きくなり、後にSpecial Blendと契約していたピーター・ラインが中心となって1996年にForumが作られました。
--あの一世風靡したForumの始まりだ!
ミヤモト:コンセプトは、「同じような志ざしをもつライダーを集めて、目標を達成すること」
そしてデバン・ウォルシュ、JPウォーカー、クリス・ダフィシー、ジェレミー・ジョーンズ(BCでないほう)、ヨニ・マルミ、BJライナス、ウィリ・ルオーマらが集結。
--当時、日本で最も大きいと言われたスノボショップ神田のスパッチオ店の2階フロアがまるまるフォーラムだったことを思い出します。あの頃のフォーラムは本当、凄い勢いでした。
ミヤモト:当時のピーターと共同経営者だったラオウに「志ざしって何?」って聞いたら「ブランド作って、人気がでたら売って金持ちになる…」とか言っていました。
もちろん冗談で言っていたのですが、その後に本当にそうなりました。
偶然って凄いな~って、今にして思います(笑)。
他にもカナダの Limited Snowboardsなどいろいろ扱っていましたし、独立後はStep Childの最初の代理店などもやりました。
思えばコアなブランドを最初に手掛けて、人気がでたら他社に奪われるというラオウとは真逆の人生となってしまってます。
自分も最後には「我が人生に一片の悔いなし」とか言ってみたいですが、さてこれからどうなることやら…。
ざっくりこれが、スノーボードの板ブランドについての自分のアーリーデイズの思い出話です。
年寄りの戯言にお付き合いいただき、ありがとうございました。
--うわあ、ちょっと待ってミヤモトさん。おもしろ過ぎー!!!
次回の〇〇さんスゴかったエピソードもお願いします。
ミヤモト:すいません繁忙期で連日、入出荷がおいつかない感じで。またチャンスあったら!
ミチャモトさんがやっているスノーボード、アクションスポーツ用品のセレクトショップ
↓↓↓
●関連記事
スノーサーフィン生みの親!日本が誇るレジェンド業界人MOSS SNOWBOARDS田沼進三インタビュー
https://dmksnowboard.com/moss-snowboards-shinzo-tanuma/
OGASAKA Snowboards 笹岡祐治が語る30年ヒストリー
https://dmksnowboard.com/ogasaka-snowboards-sasaoka/
●あなたにおすすめのフェイスブック『帰ってきたスノウボヲド・マン』
おそらく国内で最もスノーボード専門誌を保管している方で、その貴重な資料を毎日公開してくれている。90年代のスノーボードシーンを知っている方なら、泣くほど懐かしい写真を紹介中。
https://www.facebook.com/snowboardmansteeve