渡辺雄太のカナダフィルミング活動記

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悪戦苦闘の3年間

カナダ、ウィスラー近郊のバックカントリーでフィルミング活動を始めて3シーズン目、活動を通して色々な人と出会い、助けてもらいながら、何度も喧嘩をした仲間と協力して今までやってきた。すぐ近くでフィルミングしているクルーは超一流のライダーたちばかり。そんな環境で刺激を受けながら活動して、この3シーズンの間でどれだけ結果を残せたかはわからないけど、今シーズンはやっとのことでわずかだけど写真と映像を残すことができた。RIDEからサポートも受けられることになり、ようやくスタート台の上に立てた。新しいスタートをきるということを考える前に、この活動がスタートした3年前の悪戦苦闘の日々を思い返しました。そして、この気持ちをみんなに伝えたいと思い、記事を書かせてもらいました。

どうぞ読んでやってください・・・。

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3年前?2月4日の日記から

夜の明けきらない朝

朝6時・・・
狭いリビングのフロアに寝起きで少し機嫌の悪い3人が、ストレッチをしているのか二度寝をしているのかわからないような格好で横になっている。そんな光景が日課になっていた。
同居人のマットが前に住んでいた家からかっぱらってきた、やたら音飛びのするミニコンポからはいつもの朝のようにMISIAの曲が流れている。彼はTOOKしたと言っていたけど、それは正確にはSTOLEという単語を使ったほうが正しいと思う。
話を戻してその3人、1人はいつものようにヒザに穴の開いた肩掛け式のタイツをはいてストレッチをしている。当時モヒカン頭の藤井雄治。2人目に起きて来た小柄なくせにやたらマッチョな田島継二は白いシーツをフロアの上に引いてその上で目を閉じ、伸びの姿勢をとったまま動かない。今では日本人で唯一の海外メジャーフィルミング・プロダクション、WHITE OUT FILMSのフィルマーになった人。そして完全に出遅れてしまったオレ、渡辺雄太はろくに足も伸ばせない狭いスペースを使ってストレッチをしなければいけなかった。
4人まで、と制限されていた家に同い年の康平も含めて5人の男子が居座っている。この狭い家で男子が5人。当然MISIAの歌声は必要不可欠な存在になっていた。

空はまだ黒い。夜勤のバイトを思い出す・・・。

現在、全員ノースポンサー、世間の人間からすれば、ただのスノーボード・オタクとかスノーボード・マニア、スキーバム、といったところだと思う。
そんな世間からの冷たい視線を浴びながらもややMっ気の強い我々3人は(注:特に田島継二は根っからのMですが)自分たちがほぼ半信半疑で始めたこの活動を形にするべく、眠い朝でもMISIAの歌声に癒され、頑張っていた。今でも思うけど、好きなことをするのは消して楽なことではない。好きなことだけに追求し続けてしまうからだと思う。オレたちの活動も始めたばかりの頃は苦難だらけで、消して楽なことではなかった。

玄関代わりにしていた、リビングの窓の前には大きなバックパックが3つ、スノーボード3本、フルフェイスのヘルメットが3つ無造作に積まれている。これを手分けして一台のトラックに積み込む。それが終わったらスノーモービルが2台載っているトレーラーをトラックの後部にあるヒンチに繋げる。例のごとく今日もトレーラーのタイヤが雪溶けでできた溝にハマってなかなか動かない。トラックを運転してバックでヒンチがトレーラーとコネクトする部分にうまい具合に持って来ないといけないのだけど、それが初めの頃はなかなかできなかった。この朝の作業だけでも一苦労。
やっとの思いで出発準備が完了した。今でもケイジクンくんが使っているこのトラックNISSAN KINGCABは男3人モービル3台を乗せて僕らの活動を支えてくれた。キミに出会わなければ今の自分はいないと思うよ。
車の中ではいつも忘れ物チェックをする。「ビーコン、プローブ、シャベル、鍵、ヘルメット、ファーストエイドキット、無線・・・」忘れモノをして何度か家までとりに帰ったことがある。当然、他の二人はキレる!逆の立場になった時は自分もキレる!

あまね橋

今ではすっかり自分たちの間で定着してしまったこの橋の名前はこの日に初めてそう呼ばれることになるのだが、当の本人はそんなことは予期していない。災難は突然やってくる・・・。

PHOTO:HAKO

あまねくん(太田周)は、今日オレらのライデングをフィルミングしてくれるということで、待ち合わせした駐車場にすでに着いていた。早速モービルを下ろして出発の準備をする。この作業はいつもスムーズに進む。ただ、誰かのモービルのエンジンが掛からなくて「さぁ出発!」というところで出鼻をくじかれることは何度もあったのだけど、今日は大丈夫だった!
今日上がるポイントの名前はカラハンと呼ばれるポイントで、海外の有名なビデオでよく登場する撮影ポイントがいくつもある。撮影できるポイントまでは、まずスノーモービルツアーの会社が整備しているトレールを行くのだけど(注:整備しているといってもかなりのでこぼこ道)その途中で問題の橋がある。橋の高さは川の水面から4、5メートルといったところだろうか、いつもこの場所を通る時、内心「ここから落ちたらどうなるのだろうなー、ヤバイだろうなー・・・」と思うのだけど、誰もそれを口にはしない、まさか落ちる人が本当にいるとは思っていなかったからだと思う。
先頭を走っていたオレの無線から雄治くんの声が聞こえてきた。あわててエンジンを切る。聞きなおしても話の内容が良くわからない。とりあえずテンパっているのだけは伝わってきた。「とにかく戻ってきて!」そう言われて橋のところまでやってきて、そこに刻まれているトラックに気がついた。
「OH My fu☆king…….G☆D!」

ありえない事件が起きていた。スノーモービルごとまっ逆さまに川に向かって突っ込んだらしい。が、しかしそれだけが「あまね橋」の名前の由来ではない。その時、同時に奇跡も起きていた。落ちる瞬間にあまねくんはモービルから飛び降りて川横の斜面にパウダーランディング、モービルくんは川の真ん中の、そこだけにしかない平らな岩にサイドフリップをした後のビタ着! 5メートル近い高さの川から落ちてモービルくんもあまねくんも無傷。しかもそのスノーモービルは謀ライダーから借りていたもの。たぶん落ちている瞬間、あまねくんの頭の中はモービルオーナーの筋骨隆々な鉄拳でいっぱいだったと思う。何はともあれモービルを川から引き上げなければいけない。みんなでシャベルを使って道を作った。問題のエンジンは軽々とスタートし(注:これも奇跡だと思う)難なく引き上げることができた。そして何事もなかったように、いっしょにフィルミングポイントを目指すことになった。

モービルが降ってきた

あまね橋の一件をクリアしてなんだか興奮していたオレたちは、その後一気にアルパイン(注:森林限界)まで登って「さぁフィルミング」と意気込んでいた。前に作ったキッカーのポイントがすぐそこだ。でもその前にやや急な斜面を登らなければいけない。興奮していたために何も心配はしなかった。勢いよく斜面を登った。急斜面のパウダースノーを登る。急斜面でパウダーの中を登る時は雪を掻いてしまい、なかなかモービルが上がらない。スピードが落ちてくるとスタックしてしまう。もう少しでスタックしてしまいそう、と思ったのでターンをした。その時・・・、バランスを崩して手を離してしまった。しかもスノーモービルよりも下側に転んだ。当然上からモービルが降ってくる。重い! 肩を強打した。自分の上を通過したスノーモービルが急斜面を勢いよく転がる。その巨体を揺さぶりながら縦、横、斜めにフリップして細かい部品がポンポンと飛び散っている。頭の中ではすでに修理費の計算が始まっていた。

マーク・アンドレ・ターレ

モービルを転がして一気にテンションダウンしてしまった。あまねくんはあんなに大きなクラッシュをして無傷なのに・・・ オレは肩も痛いし、モービルのエンジンはなかなか掛からない。そしてエンジンルームのカバーが無残な姿になっていた。周りにいる仲間が憎たらしくなってきた。そんなことを思っている自分にも。

でもとにかく「フィルミングがしたい」という気持ちは冷めなかったからそのまま山を上がって例のキッカーポイントへ。「ん? 誰かいる・・・。」一人は有名人なのですぐにわかった。TOYOTA BIG AIRでも優勝したことのあるマーク・アンドレ・ターレだった。
これはあとでわかったのだけど、そいつらは「STRAIGHT JACKET FILM」のクルーだった。16mmのフィルムカメラもセットされている。豪華なセットでちょっと圧倒された。でも飛ぼうとしているキッカーはオレらが作ったものだ。さっきのクラッシュでやや興奮していたオレは彼らに喰いついた。「me:俺らが作ったキッカーだ!」「them:いつ作ったの?昨日?」「me:2週間くらい前」「them:は?そんな前なら関係ないよ、やりたいの?」たぶんそんな感じの会話をしたと思う。これも後から知ったことだけど、北米のルールでは誰かが作ったキッカーだから飛んではいけない、という認識がない。今ではオレたちもこっちのルールが染み付いて、バックカントリーに来てまで「これはオレらのものだ!」なんて言ったりはしない。しかしながら、当初はまだまだ考え方が甘かった。当然オレらのものだと思っていた。押し問答をしているとマークがやってきて、日本語で「SUIMASE~
N!」とか言って、「them: OK、じゃーいっしょにやろうよ」って言うことになった。マークにしてみれば「しょうがねー奴等だな」と思っていたに違いない。ともかく、そうやってなぜかオレたちはプロのフィルミングに混ぜてもらうことになってしまった。これも巡り合わせ、頑張ろう!

身に染みて感じたプロとの差

なにがなんだかわからないままセッションが始まった。別にオレらを撮っているワケでもないのに異様なほどに存在感のある16mmフィルムのビデオカメラ・・・。ヨーロッパから来たアップカマーたちが、それぞれ一本ずつ飛んだ。一人だけきれいにスイッチバック5をメイク。
オレの番、フロント3、スムーズに回ったけどランディングがズレてしまいメイクできなかった。でもスムーズできれいに回したせいかライダーやフィルマーがオレのことを褒めてくれた。「行けるかも!」この瞬間は内心そう思っていた。同じキッカーで同じサイズのジャンプをしてスタイルも認められた。「これは行ける!」この時はそう思った。
2本目のトライ、これも惜しくも失敗。2本目でマーク・アンドレが彼特有のビッグなスイッチフロント5をメイクした。最初は失敗していた他のライダーたちもどんどんメイクしてきた。オレは3本目、4本目のトライを重ねてもギリギリのところで転んでしまう。つい、声を上げて叫んでしまった。
もう誰も何も言ってくれない。ランディングもボコボコになって来た。ランディングの状態が荒れれば荒れるほど着地は難しくなってくる。そんな中ケイジくんがバック3をメイク。ランディングのボコボコで飛び跳ねながらも気合でメイク。メイクすればみんなで盛り上げる。これがこっちのスタイル。メイクすれば「100」でメイクしなければ「0」って言うくらいハッキリしている。

この日、結局オレは「0」で、終わることになってしまった。自分の中に残る経験としては当然0ではないと信じている。でもプロの世界ではそれは何にも意味のないことで、0でしかない。もし、そこでフィルムが回っていれば0どころか、大赤字だ。プロの世界は一分一秒に値段がつく、そのくらい厳しい世界だと痛感させられた・・・。

何かが起こる一日

今日は一日の間で本当にたくさんのことを経験した。だからこの記事を書くに当たってこの日を選んだのだけど、それは帰りのトレールでも起こった。ケイジくんのモービルが壊れたのだ。くわしく説明すると、エンジンルームのドライビングベルトを動かすクランチシャフトが劣化していたためか、すぐ緩くなってしまい、ちょっと進むごとに外してボルトを締め直したりしないと、帰れない状態になってしまった。ちょっと進んでは締め直して、ちょっと進んではまた締め直す。そうやってなんとか駐車場に着いた時には、すでに日が落ちて暗くなってしまっていた。

日が上がる前に家を出て、日が落ちた後に家に着く。そんな日はマレだけど、3年前、何もわからずに始めたこの活動でたくさんの経験と失敗を重ね、たくさんの人と出会い、そして少しだけでも結果を残すことができた。DICE-K-MARUさんのインタビューによってこの年の活動がSNOWSTYLE誌に掲載された。始めなかったら何も変わらなかったと思う。経験を少しずつ蓄積して、次のステップに繋げていく。3年経った今も、まだまだ経験不足ですが、着実に結果を残して行きたいと、そう思って活動しています。

そして最後に・・・ これは今でも変わらずに思っていることですが、この活動はこの時いっしょに始めたメンバーでなければ、今日まで続けて来られなかったと思います。この場をお借りして仲間にSPECIAL THANKS の気持ちを伝えたいと思います。

継二くん、雄治くん、ありがとう。

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渡邉 雄太

1982年6月26日
神奈川県出身
スノーボード歴:9年

Sponsors: RIDE snowboards、SPINYBOARDINGCO

ボードのモデル名:RIDE PROPHET 156、DH 157(雪面の硬い時に使用)
スタンス角度:+12 後ろ-9
スタンス幅: 58cmくらい、たまに56cmくらい

 

渡邉 雄太のブログ
http://blog.livedoor.jp/uta26/

 

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