スノーボード界を動かした伝説のライダーたち
Story by Fusaki Iida
Special Thanks: Hiroshi Nishiyama
プロローグ
僕が初めてスノーボードのようなものを見たのは、まだ小学生低学年の幼かった日のことである。親戚の兄ちゃんが荒川の土手の坂でスケートの板(トラック、ウィールナシ)でバインディングもなしで滑っていたのだ。きっと、その頃、アメリカではそれらしき遊びがすでにあり、またその流れがスノーボードを生んだのだろう。だけど、今でも僕は親戚の兄ちゃんがその時代、誰にも教わらずにそんな遊びをしていたことに対して、尊敬の念を抱かずにはいられない。だって、自分にとってスノーボードを初めて紹介してくれたのは兄ちゃんだし、またその後、正式ものが誕生してそれを紹介しれくれたのも兄ちゃんだったから。
それからその親戚の兄ちゃんが僕に正式にスノーボードを教えてくれたのは、高校2年生の時だった。その当時、僕たちが乗っていたボードはサーフィン・ブランドからやって来たという国産ボードのMOSSで、スノーサーフィンと呼んでいた。そのボードは底がVの形になっていることから、Vボトムのボードと呼ばれていた。
そして、僕たちはボード面がフラットに近いBurtonをカッコ悪いと考えていた。というのも、当時、象徴的だったライダーであるMOSSの玉井 太郎さんはすでにサーフィンのようなカーブ・スタイルで滑っていて、とてもカッコ良かったのである。その一方でBurtonのライダーであった大曽根 正さんは、テールを振り振りさせながら逆捻りでエッジングさせる滑りで、どうもカッコ悪かったのだ。だから、自分たちはBurtonが呼んでいた「スノーボード」という言葉を使わずに、というかそんな名称を知らずにMOSSが呼んでいた「スノーサーフィン」という言葉を使っていたのだ。歴史というのは不思議なもので、あそこでMOSSが踏ん張り、スノーサーフィン協会を盛り上げ続けたら、日本はスノーボードという言葉を使わずに、スノーサーフィンという言葉を使い続けたかもしれない。実際、どこかの国で、確かフランスだったかは、そのような言い方をしていると聞いたことがある。(※間違っていたら、すみません)
ともかく、そんな兄ちゃんもすでに他界してしまっているのだが、今、自分がスノーボードを通して仕事をさせていただき、さらには多くの人との素敵な出会いがあったことを考えれば、本当に兄ちゃんには感謝の気持ちでいっぱいなのだ。改めて、「ありがとう!」と天国に伝わるように声を大にして伝えたい。
日本のスノーボード界では、生き字引のような自分であるが、最初の頃は、あの伝説のライダー、クレイグ・ケリーという存在を知らなかった。もうすでにクレイグなど活躍を始めていた頃なのだろうが、その当時はテリー・キッドウェルなどの方が有名だったに違いない。
だけど、この21年間のスノーボード歴を振り返ると間違いなく、クレイグこそこの業界に最も影響を与えたライダーであると思う。だから、今回の特集、「スノーボード界を動かした伝説のライダーたち」では、クレイグ・ケリーのことから話そう。
スノーボード神クレイグ・ケリー時代
確かあれば、1988-1989のシーズンだったに違いない。あの日、僕は神田ビクトリアのヴィエント館に遊びに行ったのだ。そこに中学の先輩だった本多さんという方が勤めていたので、そこでBurtonのカタログなどを見せてもらった。その時に聞いたニュース、「クレイグ・ケリーがSimsからBurtonに移ったよ」には、「へえ」と思ったものである。
「えっ、クレイグ・ケリーってSimsだったの?」と思うかなり古株スノーボーダーさんたちもいるけど、そうクレイグはSimsだった。というか、当時の大物ライダーのほとんどはSims出身で、その後、いろいろなブランドへ移って行った。あの頃のSimsというのは、Burtonよりももっとスケートっぽくてカッコ良かったのだ。さらには2大ブランド時代で、SimsはBurtonのライバルのようなブランドだった。
それで自分もそのSimsの雰囲気に憧れて、そのシーズンはSimsの1/2(ハーフパイプ)というモデルを使用していたのだ。
あの時期、クレイグ・ケリーは移籍問題によりBurtonのボードをBurtonとわからにように真っ黒のソールで滑っていて、そのミステリー感がカッコ良かったことを思い出す。
その移籍後から、クレイグ・ケリーは急激に台頭し、当時の世界のスノーボーダーたちを夢中にする。すでにワールドカップと称したアメリカ主体の世界大会がコロラド州ブリッケンリッジで行われていて、そこでクレイグ・ケリーは大活躍していたのだ。
そして、翌年89-90シーズンにクレイグ・ケリーは記念すべき日本で行われる世界選手権に現れるのである。この大会は、今、考えても歴史に残るものだから、その背景を説明しなくてはならない。
歴史に「もし」はないと言うけど、もしもクレイグがいなかったら・・・、これほどのまでにスノーボードが認知されたのだろうか。 |
当時、アメリカではコロラド州ブリッケンリッジなどでアメリカ主導の世界大会を開いていた。これどんな新しいスポーツでも共通するようなものだが、「勝手にアメリカが決めた形の世界選手権」という趣旨である。一応、西ドイツからピーター・バウアー、フランスからジャン・ネルバなどのアルペン・ライダーも出ていたようだけど。
そして、ヨーロッパでもアメリカ人がほとんど参加しない大会が行われていたようなのだ。そして、日本ではMOSSが始めたスノーサーフィン協会が、BURTONが始めたスノーボード協会に吸収されるような形で、1つのスノーボード協会を作っていた。(注:その後、一瞬というか2、3年だったか、JPSTという団体もできちゃったけど)
そのような状況の中で、ヨーロッパとアメリカが歩み寄り、中間的な立場でもあった日本で世界初の本当のワールドカップをやろう!ということになったのだ。そして、北海道ルスツにて、記念すべくISF世界スノーボード団体の大会が行われた。これは、文字通り、当時世界最高峰の大会であった。そして僕はその大会を「絶対に見たい!」という思いで、遥々北海道まで行ったのである。ちょうど空港には、Burtonの大きな旅行バッグを持っていたライダーたちがいて、あの時、千歳空港で見たピーター・バウアーの長髪が忘れられない。
その頃あったスノーボード種目は、アルペン種目の大回転、デュアル・スラローム、そしてフリースタイルのハーフパイプ。当時は、まだ多くの選手はアルペン種目にもフリースタイル種目にも参加していたのだが、すでにヨーロッパの選手では、ハードブーツでアルペンしか出ないという選手も出て来ていた。
しかし、そんな中、クレイグ・ケリーは全種目参加。そして全種目ソフトブーツで、好成績を収めた。そして何より、あの伝説のハーフパイプ大会! 雪不足の中、土が混じった茶色のパイプだったけど、あの時代では日本史上最高のパイプが完成していた。そう、あの日本初の本格的パイプ大会のこと、なんとか僕の使えない(?)左脳にある記憶という引き出しから、再現させないとなけば。
確か決勝リーグに残っていたのは、男子トップ16選手、女子トップ8選手。そこからノックダウン方式で争われた。男子で決勝に残っていたのは、ティム・ウインデル、ショーン・パーマー、ダミアン・サンダース、ジェフ・ブラッシー、キース・ウォーレンス、そしてクレイグ・ケリーなど。今の人たちにこのライダー名を並べてもちんぷんかんぷんだろうが、自分にとっては胸が時めく懐かしいヒーローたちだ。
そして、男子で決勝まで駒を進めたのは、クレイグ・ケリーとジェフ・ブラッシーだった。当時のクレイグ・ケリーのスタイルは、ソルトレイク五輪で金メダルを獲得したロス・パワーズとか、テリエ・ハーコンセンのように鮮やかにカッコよく決めるスタイル。そして、一方のジェフ・ブラッシーは同じBurtonチームだが西海岸の匂いを漂わせるスケートのようなスタイルだ。共にその当時、最高と言われる縦回転まで出して火花を散らしたが、結局、優勝したのはクレイグ・ケリーだった。ところが、そのジャジメントが覆されることになる。なんと、クレイグの縦回転JTエアーは、手が付いていなかったら失格となったのだ。
「えっ、手を付くと失格ってどういうこと!?」
そう、思う方も多いに違いないが、当時、縦回転は危険とみなされていて手をつかずにやってはダメというルールがあったのだ。それで、優勝はジェフ・ブラッシーになったのである。
ジェフ・ブラッシーは、この優勝をきっかけに一気にスターダム街道をまっしぐら。この後、フリースタイルもよりスケートスタイルになり、この後、ノア・サラスネイク、クリス・ローチなどのヒーローを生み出す。さらにその後のマイク・ランケットやブライアン・イグチなどの流れを作り名作となったビデオ「Road Kill」を生む要因にもなっている。
この大会の後、僕はカナダに旅立ち、ウィスラーで1シーズン過ごすのだが、その夏、ブラッコムにクレイグ・ケリーがキャンプでやって来た。あの長野五輪でマリファナ騒動中、金メダルを獲ったロス・ロブアリティが「僕の友達」ということで自慢げに連れて来たのがクレイグ・ケリーだったのだ。(注:ロスとはウィスラー、ブラッコムでいっしょにトレーニングし大会に出た仲)
そう、当時、僕はウィスラーでスシ・シェフでカウンターに立ち、クレイグ・ケリーに寿司を握ったのだった。いきなり、目の前に現れたのでかなり緊張し、トビコが入った入れ物を落としたことを思い出す。目の前に憧れのクレイグがいて、かなり頭ポワポワ状態でサービスしたのに違いない。クレイグは次の日、当時彼女だったケリー・ジョーを連れて来てくれた。このケリー・ジョーというのも有名なプロ・ライダーでルスツでのワールドカップでもパイプで2位に入っている。ちなみに2人はこの後、結婚した。そしてその何年後に離婚してしまった。
クレイグ・ケリーがウィスラーから故郷マウントーバーノン(注釈:シアトルの近くの街、実を言うと僕は高校の時、ここでホームステイをしたことがある。なんと言う機縁! ついでに言うなら僕はクレイグのホームマウンテンにしていたマウントベーカーも高校3年生の時に単身で行ったことがあるのだった)に帰る日、ケリー・ジョーはクレイグ・ケリーのキャンプTシャツ(サイン付き)を持って来てくれた。あの時は、涙が出るほど嬉しかった。
ところで、僕はここまでスペースを使いながらも、全然クレイグ・ケリーの魅力を伝えていないと思う。よしっ、ここから先は怒涛のごとく伝えて行くぞ!
クレイグ・ケリーの凄いところは、あのテリエ・ハーコンセンでも倒していないという大会での圧倒的強さ。そして何よりパウダー・ライディング、オールマウンテンでの滑りがハンパなくカッコ良かったこと。ボードがまるで生き物のように動く姿は、とても美しかった。バックサイドではやや首を傾げながら入り、上半身をクローズドさせて、ターン後半の抜重のところで一気に開放する。そしてその切り替え時にも絶妙なポジションでボードの乗り続ける姿は感動!フロントサイドでも「ここしかないでしょ!」と思える最高のポジションニングでボードを操る。そう誰が言ったか、「クレイグ・ケリーはバインディングをしているのを感じさせない」ほど、超ピン・ポイントで乗っていた!」 今でも誰もあの領域に達していないのでは?と思えるほどの芸術品のターンだった。
ターンだけでなくエアーもカッコ良かった。メソッドエアー、クレイル・エアー、JTエアー、キャバレリアルなどなど、あきらかに当時のライダーにはなかった輝きあるトリックだった!
そして忘れてはならないのは、シグネチャー・ボードを世界で初めて出したのが、クレイグ・ケリーということ。当時、クレイグ・ケリーのシグネチャー・ボードを多くの人がほしがった。僕はSimsを買っちゃったけど。
当時のクレイグ・ケリーは、両方のバインディングの下にヒザが内側に入る内カウントというものを入れていた。後ろ足だけに内カウントを入れていたのが主流の時代、両足内カウントはセンセーショナルで、僕も真似するようになった。
そして、M8という180センチぐらいの長いボードを、ソフトブーツで乗る姿も、クレイグ・ケリーならでは。これに関してはさすがに僕も、そして多くのスノーボーダーたちも真似できなかった。それくらいクレイグはボードに乗れていたので、このような芸当ができたのだと思う。当時のソフトブーツって、本当に今では考えられないくらいソフトだったから。
大会でのライバルは、前途の伝説の大会、ジェフ・ブラッシーの他、ショーン・パーマーもいた。確か、日本で行われたワールドカップの翌年のブリッケンリッジでは、華麗な技のクレイグが、ともかく横回転連続でグラブもしないでゴリゴリに回す(FS540コンボ)ショーン・パーマーに負けたのだ。その後、というか同時期だったか、ジェイソン・フォード(当時Burton)にも負ける大会もあり、だんだんとクレイグは大会に出ない、バックカントリーの人になっていく。まあ、あの頃、全勝していなくても、やはりクレイグがナンバー1だったように思えるが。
クレイグ・ケリーは「テリエに勝ち逃げ」した状態で大会から足を洗い、その後もアラスカやカナダでのパウダー・シーンで魅力的な映像、写真を見せて多くの人に見せて来た。そして、2003年1月21日カナダBC州レベルストークにおいて雪崩に巻き込まれて他界してしまった。あの日、僕はたまたまテレビのニュースを見ていてその報道を知り、本当に・・・、本当にビックリした。そして、心から哀悼の意を込め、冥福を祈った。
クレイグ・ケリーがもしこの世の中にいなかったら。
きっと90年前半、あれほどスノーボーダーが急激に増えなかったに違いない。そして、誰もがパウダー・ターンの真の美しさ、エアーのスタイリッシュさを知らずに、次の時代を迎えていたのではないだろうか。クレイグ・ケリーは、生きている時から「スノーボードの神」と形容されるほど、当時特出したカッコいいライダーだったのだ。
そして、クレイグが大会に出なくなってから、台頭して来たノルウェーの少年が、次の時代を引き受けることになっていった。
テリア時代からコア層時代へ
クレイグ・ケリーが活躍していた頃、すでにテリエ・ハーコンセンは登場していた。
あれは確か僕が2回目のニュージーランド遠征だったから、89年か90年夏だったと思う。ニュージーランドのライダー仲間から、テリエという凄い若手が出て来た、ということを聞かされた。
そしてそのシーズンだったか、Burtonビデオにその少年は出て来た。美しい音色の音楽の中、なんとハワイの山でターンしていたのだ。
またテリエは、91-92年にリリースされたビデオ「Road Kill」でもそのスタイリッシュなスタイルを見せる。
このビデオは、今でも語り草になっているが、テリエ・ハーコンセン、デイヴ・シオーネ、ブライアン・イグチ、 ジョン・カーディエル、マイク・ランクエットと言った当時最先端のスタイルを持つライダーが登場。1976年型のキャデラックに乗ってカナダからアメリカまでパウダーを探し求め、あらゆる場所で滑り倒すという、彼らのライフ・ストーリー。
昨年東京ドームで突然引退したテリエのハイ・エアー。今でこそあたり前の高さだが、90年初期にこの高さは強烈なインパクト!だから宇宙人と呼ばれた。 Photo by TOP END |
しかし、今、考えても不思議なのは、確かにテリエはあのビデオで重要なパートを持ち超人的なコントロールも見せたのだが、何かテリエだけは違ったカラーだったように思える。というのもテリエもクレイグを継承するように、スタンス角度は前方向におもいっきり振ってあり、いわゆる後ろ向きで滑る姿もフェイキーと呼ぶのにふさわしいスタイルだったのだ(注釈:フェイキーというといかにも後ろ向き滑りスタイル、スイッチというと逆向きに滑っているけどそう見えないという意味。自分の勝手な解釈なんだけど)。ブライアン・イグチや他のライダーは、袴のように太いバキーパンツを履いてスタンスがダックで広め。お陰で当時このスタイルに憧れたライダーたちが、よくボードを折ったこと。 よくよく考えてみれば、あれがスノーボード界の流れの分岐点だったのかもしれない。あの時、僕はテリエは最先端だと思ったし、その時代のテリエはクレイグのように特出した実力の持ち主でもあった。だから、今からちょうど12年前に行われた長野オリンピックではテリエが登場しないおかげで、五輪のパイプ大会は真の実力ナンバー1決戦とは程遠くなってしまったのだから。
これから一気にこのストーリーは、スケートスタイルから今のスノーボードのスタイル、そしてスノーボード界バブル崩壊の話に行ってしまいそうなので、もうちょっとテリエのことをくわしく説明しておきたい。
当時のテリエ・ハーコンセンがなぜ凄いと思われたか。それは宇宙人とも形容された特大エアーである。特にRの使い方が絶妙で、圧倒的な実力感が漂っていた。だから、その頃の多くのスノーボーダーたちがテリエを尊敬していた。そして、その実力が一般スノーボーダーでもわかりやすい存在だった。このことはひじょうに重要である。なぜなら、クレイグ・ケリーも一般層にも理解されるスターだったからだ。
しかし、この後のスノーボードの歴史を見ると、一般層には理解され難いスターがどんどんと出て来る。確かにジェイミー・リンのメソッドは凄いし、その後にパークというカテゴリーを広めたピーター・ラインも凄い、またレールという世界をクローズアップさせたJPウォーカーだって凄いのはわかる。しかし、彼らはクレイグやテリエのように一般層には理解されやすいライダーでなかったと思う。彼らは北米のようにスケート文化がしっかり根付いている世界では、きちんと受け止められたが、日本のスノーボード市場では難しかったと思うのだ。つまり、いわゆるコア層と呼ばれる人にはヒーローであったが、そうでない一般スノーボーダーたちにとってはわかり難い存在だったようにも思える。もしかしたら、90年代中盤から後半にかけて、グーンとスノーボーダーの数が減り、完全にスノーボード・バブルが弾けてしまった要因には、そういったことも関係しているのかもしれない。つまり、90年代後半にも、クレイグ・ケリーやテリエ・ハーコンセンのように一般層にも理解されやすいライダーが君臨していれば、もっとスノーボード業界も盛り上がっていたかもしれない。日本のライダーで言えば、竹内正則さんのようなオールラウンドにターンの美しさも表現できるライダーが、第一線で活躍していれば、また違った展開があったかもしれない。今、日本のスノーボード雑誌のメーカーからの広告数の減少を見れば、まさにコア層に理解された者だけがこの業界を形成しているとも言えるのだから。
だけど、見方を変えれば、このような現象も良いのかも!?
というのも、今、スノーボードの雑誌やビデオを購入される方は、あのスノーボード・バブル期とは違ってよりコア層だから。彼らがスノーボード文化を徐々に成長させれば、日本もいつかは北米市場のようにより安定することだって考えられるからだ。
話は長くなったので、ここらでまとめておこう。
クレイグ・ケリーがいて、また日本には竹内正則がいて、日本のスノーボード界は盛り上がって行った。そして、テリエ・ハーコンセンの全盛期にスノーボード・バブル絶頂期を迎える。しかし、その後に出て来たヒーローたちジェイミー・リン、ピーター・ライン、JPウォーカーなどはちょっと一般層にはわかり難かった。その結果、日本のスノーボード市場が小さくなる。その一方で北米はスケート文化があり、彼らを受け入れる土壌があった。よって、安定した市場を形成している。しかし、今、日本の市場を形成している人たちは、あのバブル期と違ってスノーボードをより理解している。結果、その者たちが新たなスノーボード開拓者となり、徐々にスノーボード文化を広げれば、長い目で見て日本も大きなスノーボード市場を形成できる可能性がある、と。
歴史から学び未来へ
実を言うと、僕はここの特集で単純にスノーボード界を動かしたヒーローたちを紹介しようと思っていたのだけど、執筆している内にこのような「日本スノーボード市場の縮小化」の構図も紹介することになってしまった。もちろん、これは僕が執筆の流れで生まれた1つの考え方、1つの推測に過ぎないのだが、歴史を紐解くというのは、確かに将来を考える上で重要であると思える。というのも、今、僕は歴史の中で忘れてしまった大切なことをこれから改めて表現していこうと考えるし、また新しいライダーがどんどんと最新スノーボード・シーンを開拓していく上で、そのことも尊重しながらやっていきたい、と考えるからだ。つまり、忘れてしまったあの大切な感覚を改めて最新鋭のライダーと共に、ビデオや雑誌などで表現していくということ。
具体的な提案としては、以前のようにもっと映像を流れで見せたいと思う。というのも最近のビデオ・シーンではただ凄いトリックを並べているような編集方法だが、そうでなくもっとライダーのライディングを見せたいのだ。そのカッコいいトリックを見せるためのオールマウンテンでのフリーラン・シーンを見せたい。そうすると、1つのトリックの価値観がより一般層にもわかりやすくなると思うからだ。
最近は、「ビデオを見ても実際にそのライダーといっしょに滑らないとその実力がわからない」なんて言葉も聞かれるが、その要因には最近のビデオ作りの風潮が影響しているように思う。かつてクレイグが活躍していた時代には、クレイグが行う最新鋭のトリックから、そのへんの斜面のグラトリなどもビデオの中で表現されていた。そして、それらはまるでクレイグと共に1つのマウンテンを滑っているような印象を与えた。何度も言うが、今のように街中レールでの3秒の出来事のようなことをただ並べるような編集ではない。
例えばシモン・チェンバレンと共にピークに行く。途中の迂回コースでグラトリをしているシーン、さらにはパウダーを滑っているシーン、ちょっとしたクリフで見事なトリックを決めているシーン。そこからパークを流すシーン。
他の例では、ターンの美しさを表現できるビクトリア・ジュルースとの撮影。トゥリー・ラン、自然の地形を利用したジャンプなど。
スノーボードが最高にうまいライダーがオールマウンテンで生き生きとライディングしているシーンだ。スノーボードをやったことがない人から、コア層と呼ばれる人まで「凄い!」と思わす映像、そして編集、さらには表現力。そういったことをやりたい、と強く思うのである。
最後になるが、あくまでも自分の主観であるが、スノーボード界に歴史を刻んだライダーを紹介していこう。
クレイグ・ケリー、ジェフ・ブラッシー、ダミアン・サンダース(元祖ぶっ飛び屋)、ノア・サラスネーク(スケートスタイル先駆者の一人)、ショーン・パーマー、ジェイミー・リン、テリエ・ハーコンセン、ダニエル・フランク(テリエ全盛時代の好敵手)、ピーター・ライン、JPウォーカー。
日本では、
玉井太郎、竹内正則、小川マサト(海外ビデオ出演先駆者)、ライオ田原、布施忠。