文:飯田房貴
物心ついた時から、両親は離婚していていた。そのため、お袋は朝から晩まで親戚の八百屋で働いていた。僕はいつも八百屋のおばさんや、近所のおあばさんが作ってくれた夕食をごちそうになっていた。一週間の内、家で夕食を取るのは日曜日だけという生活だ。近所のおじさん、おばさんが誰の子供関係なくめんどうをみてくれる、そんな下町気質の中、僕はかなり自由奔放に育った。
スノーボードに出会ったのは、高校生の時で今から15年前のこと。親戚の兄ちゃんの薦めで始めた。その兄ちゃんは、お袋が勤める八百屋の長男で、まるで本当の兄同然のように僕を可愛がってくれた。いっしょに銭湯に行ったり、土曜日の昼飯を作ってくれたり、また僕が喧嘩で負けそうになると守ってくれたりした。そんな面倒見のいい兄ちゃんだったから、スノーボードに誘ってくれた時も、喜んでついて行った。初めてのスノーボードは、天神平にて世界一短い講習会によって始まった。「フサキ、よーく見とけ。立って滑り始めるだろ。それで、止まる時はこうやってケツをつきながら転んで止まるんだ」それから、「よし、行こう!」その日は、猛吹雪きによる超凄いパウダーだった。ターンはできないから、ひたすら直滑降しては大転倒していた。雪まみれになりながらも、世の中にこんなおもしろい遊びがあったのか、と感激した。僕たちは吹雪きによる、リフト停止時間までおもいっきり滑りまくった。
その後、僕は毎週日曜日になると親戚の兄ちゃんと滑りに行くという生活をして、ついに丸井主催の大会に行くことになる。当時は大曽根正、玉井太郎、和田 千鶴が大会で活躍していた頃だ。僕は、スラロームでは大転倒により失格したが、ダウンヒルでは完走した。その日、大会表彰式の後に、役員の人が全日本大会申し込みを配っていた。「こんな僕でも、全日本に出れるのか!」という訳で、僕は全日本大会に行くことになった。しかし、親戚の兄ちゃんは、仕事が忙しくて行けないということだった。
全日本大会では、スラロームではまた大転倒により失格。しかし、ダウンヒルでは25位という成績をもらった。しかも、VANSの社長から「若いのに一人で来て見上げたもんだ。スポンサーでボードを出そう」ということになった。大会期間中は当時の有名人ライダーたちとも、交流することができて、とても充実した日々を送った。僕は、その全日本の様子を親戚の兄ちゃんに伝えた。そしたら、兄ちゃんが「フサキ、スノーボードというのは、これからだ。山に篭もったら、凄くうまくなっていつか一躍有名人になるぞ」僕はその言葉に胸にしまいつつ、いつかはそのことを現実にしたいと思った。そして、高校を卒業し印刷会社に勤めた2年目。ついに会社をやめ野沢温泉に篭もることになった。その後は、ニュージーランドに行き、またカナダにも行った。仕事は皿洗いからスタートして、スシ・シェフになり、スノーボード・ショップの店員もやった。そして、カナダではプロとして大会に参加するようになった。いつのまにか、スノーボードで飯を食えるようになっていた。その間、親戚の兄ちゃんは、八百屋で一生懸命働いていた。結婚して、子供も3人作った。八百屋も大きくなって、従業員を30人以上抱え、店舗数も広がり4店舗になった。
僕は、兄ちゃんがとても忙しくなっていたことは知っていた。だけど、いつかいっしょにスノーボードができると、信じて疑わなかった。しかし、2年前、親戚の兄ちゃんは虚血性心不全という病気により突然死をした。死の前日には、お袋といっしょに元気に仕事していたのに…、とてもショックだった。
しばらくは、兄ちゃんのことを思い出すたびに、涙が出る日々が続いた。しかし、時間は心の治療薬だ。その後、僕はこれからの人生について考えるようになった。そして、僕が出した1つの結論、それは「機縁」で出会ったスノーボードに、自分の命を賭けてもいいかな、ということ。兄ちゃんがいなかったら、こんなに楽しい人生はなかったのだ。この楽しさをもらったお返しに、みんなが喜ぶことを提供していこうと思った。ライディング写真、映像、文章、キャンプやイベント等あらゆる方法で、「スノーボードの楽しさ」をたくさんの人に伝えていこう。兄ちゃんが僕にいろいろしてくいれたように。
●このコラムはSNOWing誌1999年9月号RIDE ONのコーナーにて掲載されました。