【コラム】ミナミ倒産に想う

文:飯田房貴

前からだいたいわかっていた。だけど、実際、目の前に「ミナミ倒産」という知らせを聞くと、ひじょうに残念に思う。2チャンネルなんかを見ていると、ミナミに対して散々な悪口を書いている輩も多い。しかし、実際、僕は10年間ミナミで契約させてもらいスノーボードの仕事をやって来て、ミナミは素晴らしいショップだと思う。

より、業界の発展に力を注ぐため、当時誰もできなかったISFのマスターワールドカップを開き、テリエを呼ぶことに成功した。また、毎年、試乗会などやってお客さんとのコミュニケーションを取っていたし、ほとんど無料に近い値段で、スノーボード・スクールも開催していた。これは、ただ売るのではなく、買っていただいた人にスノーボードを楽しんでいただくためのアフター・ケアである。その他、ウエアも世界で一番のアイテムを揃えていて、素晴らしいショップ作りを目指していたし、小物なんかもどこにも負けないほど充実していた。スノーボード・バブル時代の手前には、いち早く勉強会を開き、正しいスタンスの設定を提供していた。時に知ったかぶりのお客さんで、「前足、後ろ足0度、0度でよろしく」なんて言われると、ちゃんと説明してこれでは乗り難いから、これぐらいのスタンスにしてみれば、と提供できる社員さんも多かった。地方店にも熱い社員さんの人が多かった。自分の休みまで使って、お客さんといっしょに滑るのだ。「買っていただいたお客さんに、ぜひスノーボードの楽しさを知ってほしい」という思いからそのような行動につながったのだ。

僕とミナミとの関わりは、今から10年以上も前のことである。1990年の夏、ライケルのハードブーツを探していた。なかなか見つからなかったのだけど、たまたま神田の小さい店で見つけた。それが最初のミナミとの接点で、その時に接客してもらった左氏さんとは今でも僕の親友である。つまり、その時の印象が良くて、ミナミということが気になっていた。それと、高校の時、水道橋の高校に通っていたことから、よく神田の方には歩いて遊びに行ったものだった。そうすると、ミナミの本店のにレジにおばあさんが座っていた。その方は後にミナミの先代の妻であることがわかったが、あんなお年よりまでお店に出ている熱心さにとても良い印象を持った。僕は元々、江戸川区の下町で育ったので、おばあさんがレジのところに座るという光景はよく見ていて、そんなお店こそお客さんを大切にする、と思ったものである。

90年ー91年シーズンカナダで過ごし始めるのだが、そこで僕は地元の大会で成果を残すことができた。そして、その成績を土産にミナミと交渉したのだ。当時は、すでに田谷さんとか尾形くんがいて、この2人がなかなかの活躍ぶりだったので、ボードをスポンサーしていただくのにとても苦労したことを思い出す。しかし、僕は2回断られて、3回目までもアタックしたので、当時のバイヤーである斎藤さんが結局出してくれることになったのだ。このことは後で、斎藤さんが上に相談すると断れるので、自分の感覚で決めたこととわかり、斎藤さんにはそんなこともあってひじょうに感謝している。

それから僕は走りに走ったのだ。大会にも出て、雑誌にも出て、テレビにも出て、ビデオも出し、本も出した。もちろんそれらの成果は自分だけの力ではなく、当時のカナダにいたプロデューサーさんやらミナミの宣伝部などの後ろ盾もあり、スノーボード界でやりたいことを思う存分やらせてもらったのだ。そのかいあって、僕は10年という長い間、ずっとミナミでやって来れたのだ。自分がやって来た実績をまとめると、たんにライダーという枠を越えて様々だったと思う。

1)オリジナル用品のメディア露出
2)オリジナル用品のレポート提供
3)ニュージーランドからSUB20(ウエア)の輸入
4)社員向けに講習会を開く
5)ミナミ・スクールを作りあげる
6)海外からスノーボード事情の情報提供
7)ライオ、上田ユキエなどの獲得に動きミナミ・チームを作り上げる

その他、店頭で売ったこともあり、全盛期には1日で100万以上の売上を作ったこともあった。この数字はたんにバイト・ライダーとしては、破格だっただろう。また、スノーボード・バブル時代が弾けつつあった頃には、ここが勝負時と考え少しでも顧客に喜んでもらえるため、わざと小物ばかりを売ったり、また即売会などのイベントでは取り付けまでもやった。小物を売るという意図は、ワックスやプロテクターなど接客できる店ということをアピールすること。実際、その頃、ブリコのベンさん(注:チューンナップ界で有名)も講習会に来てくれて、かなりチューンナップが盛り上がった。その頃ショップに来てくれた人は、確実にプロ・ショップ以上のサービスを受けたと思う。イベントでの取り付けに関しては、きちんと社員さんが正しいセッティングをお客さんに提供しているか、チェックするため。そう、現場からのちょっとした社員教育だ。

いろいろ自分なりに精一杯活動してきたつもりだが、ただ、後半2年ぐらいはあまり自分の存在価値を発見することができなかった。何かライオをミナミに引っ張った時点で、気が抜けたというのだろうか? 自分はいつでもミナミを卒業できると思ったのだ。長年の付き合いもあり契約金をいただいていたが、なんとももらうのが申し訳ないと思ったのだ。そうなると、僕のミナミとの関係は終わりである。入ったばかりの頃、当時の宣伝部部長の長谷川さんから「ミナミのライダーはなかなか続かない。頑張って10年やってほしい」という言葉をいただいたので「10年は続ける!」という思いでやって来た。そして、2001年でちょうど10年になり、またちょうどその時にdmkの活動が盛り上がって来た。まるでこの業界に住む神様(?)が、「フサキよ今こそ立ち上がりなさい!」とでも言うようなお膳立てが揃って来たのだ。

その他、いろいろハプニングはあった。ライオがミナミの宣伝部とのコミュニケーションがうまく行かなくなったこともあり、辞めると言い出したのだ。ライオがいるから出れるという部分が多分にあったので、なんとか留まってもらおうと交渉したが、もう時すでに遅かった。これは、僕の反省点でもある。海外にいながらも、何かできたハズなのだから。ライオは金額とかで動く人間でなく、実際、過去には1千万というオファーも断ったのだが、今回も自分に思うところがあり、辞めることになったのだ。それに、自分とはずっと親友の仲で来た左氏さんも辞めると言い出したのである。このことも、自分には大きな事件だった。そしてさらに、ミナミとの付き合いでは1995年頃からいろいろ仲良くさせてもらっている、元宣伝部部長の椎名さんも辞めると言い出した。まだ、僕とは親しい人は何人かミナミに残っているのだが、結局、

1)10年一区切り計画で、その後はdmkからスノーボード業界に献立したいと思っていた
2)自分とは親しくさせてもらっていた左氏さんなどが辞める。自分の良き理解者が少なくなる

以上の2つの理由により、僕は辞めることにした。

僕と左氏さん、また椎名さんはそれぞれの立場でミナミのスノーボードという部分を作って来た者である。だから、ちょうど同じ時期に立ち去ったことにより、残った方は「いっしょに辞めた」という見方をしがちになっているようだが、ここで断言できることは、みんなそれぞれの理由で辞めたということだ。

なんか、ここまで読んだ読者には、まるでミナミがなくなると思われるかもしれないが、そうではない。倒産とはこれからいろいろな方法で建て直すということなのだ。経営人がどう残るかなど、法律のことはよくわからないが、これまで通り利益を上げている優良店は必ず残るに違いない。そして、今、社長自ら陣頭に立ち、また一からやり直す気持ちで良いお店作りをしていくに違いないと思う。僕は、2、3度社長に会ったことはあるが、あの方は確実に素晴らしいエネルギーを持った方だ。だから、ミナミはいい方向に向かっていくと思う。

一度はミナミを卒業した自分だが、今度はdmkというより大きなパワーでいつかまた縁があったら、いっしょにやっていきたいと思う。

●最後に
今までミナミにいた人間で、ホームページとは言え公共の場所で否定的なことを言う人は、結局、自分がやって来たことまでも否定するということになるだろう。そう、自分がやって来たことはプロの仕事ではなかったと言っているようなものだ。これ以上の恥さらしは、辞めるべきである。

ミナミがスノーボード界に及ぼしたイベント
まだ夏のキャンプが盛んでなかった頃、マウントフッドでティム・ウインデル協力の元、キャンプを行う
ワールドマスター・カップを日本で初めて開催。当時なかなか呼べなかったテリエを呼び話題となる
アアチュアで一番大きなストレート・ジャンプ大会でライオ&山崎勇亀などを呼ぶ
日本でももっともホットなミナミ・チームを作り、ライオ、上田ユキエ、福山正和など参加する

ミナミと契約スノーボーダーたち
田谷綾子(1989~1993)
尾形浩二(1990~1992)
飯田房貴(1991~2001)
田村志麻(1995~1997)
大森慎二(1997~)
臼井真実(1997~)
上田ユキエ(1998~)
田原勝也(1998~2001)
福山正和(1998~)
天海洋(2001~)
現在も契約しているライダーは、大森、臼井、上田、福山、天海の5名。

ミナミのスノーボード・ブランド
CHEKER PIG、LOCAL MOTION、CP COCOON、RATED-Rなど

ミナミ関連ショップ
MINAMI、ASR、REDS、ACTIVE STYLE、LOCAL MOTIONなど