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Story: Fusaki IIDA  [email protected]

スノーボードが日本に入ってから30年以上が経った。
日本にスノーボードが入った当初は、スノーボードがこれからウィンタースポーツの盟主になるとは考えられなかった。
それは、日本だけに留まらず、世界でも同様。
それぐらいゲレンデは、圧倒的にスキーヤーの世界だったのだ。

90年初頭にスノーボードが台頭始めた頃、スノーボーダーはゲレンデの悪と言われた。
スキー場は、スキーヤーのためという考えの元、スノーボーダーは招かざる客。

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しかし、時代は90年初旬から中盤のスノーボード・バブルとなり、1998年長野五輪でスノーボードは正式オリンピック種目となった。
その頃には、「ゲレンデの悪」はゲレンデの救世主となった。
今では、スキー場はスノーボーダーになしでビジネスが成り立たないほど、スノーボードが普及している。アメリカでは若者の多くがスキーよりもスノーボーダーをやりたがった。

そんなスノーボードの歴史を振り返ると、そこにはこのスポーツを普及したプロフェッナルが存在する。
創世記にプロと名乗ったライダーたちは、当初、これで飯が喰えるとは思われていないような存在だった。しかし、いつしか1千万プレイヤーや現れ、現在では1億以上も稼ぐプロ・ライダーもいる。

そこでDMKでは、独自な視点で「スノーボード・ヒストリーを動かした10人のライダー」を紹介することにした。

もちろん人それぞれの様々な評価があるので、これが全てとは思わない。しかし、今回この記事をきっかけに、こういう企画が様々なところで活発的に議論され、これまでスノーボード界に功績あったライダーが評価されれば幸いだ。

※こちらの特集記事は2014年の4月に最初のアップデートしました。それから幾度となく修正し更新を続けています。

テリー・キッドウェル Terry Kidwell
フリースタイルという扉を開いたライダー

スノーボードの世界でまだプロフェッショナルというものがしっかりと確立していなかった頃、その創世記で活躍したのはジェイク・バートンとトム・シムスであろう。
この二人は共にスノーボード選手としても大会に参加もしたが、しかしそれ以上にメーカー設立者として功績を立てた。
プロ・ライダーという存在では、この後に登場するライダー、テリー・キッドウェルにその存在感を委ねることになる。

スノーボードの競技は、元々スキー競技が原型となって、80年代はレースの歴史でもあった。
しかし、そんな中、東のレーサー主義バートンに対抗し西のフリースタイラー、シムスが挑んだのだ。

その頃のシムスは、決してバートンに甘んじた2番手でなく、スノーボード界を牽引するリーダーでもあった。
そして、テリー・キッドウェルは、そのシムスが進めたフリースタイルの象徴競技ハーフパイプという新しいカテゴリーで最初に世界チャンピオンになったライダーだ。
初代ハーフパイプ王者と君臨した姿は、フリースタイルの父とも呼ばれている。

スノーボードのフリースタイル気質というものを最初に最も推し進めたライダーで、おもいっきりエビ反りになるメソッドエアー、両手でノーズするトリッキーなグラブ・トリック、さらには華麗なハンドプラントをスノーボード・トリックに取り入れた立役者でもある。

1986年にこのスタイルを見た衝撃は、現代の高回転3Dトリック以上だったと記しておこう。
テリー・キッドウェルが見せたフリースタイル・テクニックは、当時のスノーボーダーを熱狂させたのだ。

フリーライドとしての板だったスノーボードが、スケートボードのようなフリースタイル道具として魅力的に多くのスノーボーダーに伝えて来たライダーとして、彼の名は永遠にスノーボード・ヒストリーに刻まれることだろう。

テリー・キッドウェルは、まだスノーボードというものが世界に広がる前、1980年中頃から後期に掛けて、いち早く礎を築いたライダーだ。

(3人で写っているのは一番左がテリー・キッドウェルで右が故トム・シムス氏だ。)


クレイグ・ケリー Craig Kelly
すべてのルールは神から始まった

スノーボードの神とも言われるクレイグ・ケリー。
今でも語り継がれる華麗なスタイル。ある人は、クレイグの滑りを称して「バインディングの存在を忘れさせる。」と言った。
クレイグの滑りは、それくらい乗れ過ぎていて、ナチュラルだ。バインがなくてもきっと乗り続けるというピンポイントでライディング。

クレイグ・ケリーの活躍は、80年後期から始まる。
当時、プロフェッショナルをアピールできる唯一のツール、大会で大活躍した。
そのスタイルもカッコ良く、当時の世界中のスノーボーダーを虜にした。
とりわけクレイグの活躍舞台が広がったのは、89年にシムスからバートンへの電撃移籍時代から。

バートンに移籍するや大会で快進撃。ハーフパイプ、アルペンレース、バンクドスラローム、モーグルなど、当時行われていたすべての大会で圧倒的な強さを誇った。

ユニークだったのは、クレイグが挑んだデュアルスラロームと、ジャイアントスラロームの大会でのギアだ。
あの時代、スラロームではハードブーツにアルペンボードが普通だったのに、クレイグはソフトブーツにフリースタイルボードで挑んでいたのである。当時、ソフトブーツと呼ばれていたブーツは、現代のブーツと似ているが、圧倒的にサポート力が弱く、プラスッチックシェルで固められたハードブーツでレースで対抗することは考えられないことだった。

スーパージャイアントスラロームでは、ボードの長さが170センチ以上のGS使用だったが、ブーツはやはりソフトブーツという異色な組み合わせ。それで、大会では常に決勝に残る活躍で、当時のレース界のスーパースター、ピーター・バウアーに対抗していった。

ハーフパイプの大会では、ほぼ無敵!しかも、他を圧倒するカッコ良さで、勝つだけでなく当時のスノーボーダーたちを魅了していった。
クレイグがヒザを寄せるメソッドエアーを見せれば、当時のライダーたちは、それを真似していった。
彼は大会で勝つのと同時に、圧倒的なスタイル・リーダーでもあったのだ。

しかし、そんなクレイグでも、何回か苦杯も舐めている。
記憶的な事件は2つ。
ジェフ・ブラッシーには、日本で初めて行われたスノーボードの世界選手権、ISFと呼ばれた当時の大会の決勝で負けジャッジングを受けたのだ。しかし、ジェフの縦回転が手を付いていなかったので、失格とされて優勝。当時のインバーテッド・トリック(縦回転)は、手を付けないと危ないということから、禁止トリックだったのだ。

ハーフパイプの聖地と言われたコロラドのブリッケンリッジ大会では、ショーン・パーマーに負けている。
クレイグの華麗なスタイルにショーンが対抗したトリックは、当時、誰もやっていなかった540コンボ。つまりフロントサイド540から、キャブ540でつなげるというトリックだ。今では考えられないようなイージーなトリックだったが、あの当時の横回転系では最高の組み合わせ。ヤンチャなショーン・パーマーのスタイルがクレイグを負かした伝説の一戦。

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しかし、台頭して来たテリエ・ハーコンセンには一度も負けないまま大会を去ることになる。
あのまま続けていれば、いつかテリエには負けていただろうが、その後は、ビデオの世界でファンを魅了することになる。

当時は、ビデオでプロってどういう意味だ?と言われていた時代だった。
スノーボードのプロ創世記では、大会で活躍してこそプロフェッショナルと言われていた時代だったから、それでプロを名乗ることは不思議な世界だったのだ。
しかし、クレイグは、そんな大きな扉も開けてしまうことになる。今、映像でプロをアピールする全盛時代は、クレイグによってもたらされた世界なのだ。

自分が出演するビデオの時間に応じて、バートンに請求書を送った。これが、スノーボード界初のビデオ・インセンティブだ。ビデオの尺の長さだけ、バートンというブランドをアピールしたのだから、それでお金をくれ!ということである。

さらに、クレイグは、同様に雑誌の掲載で、スノーボード初のフォト・インセンティブも勝ち取っている。雑誌掲載ページ量により報酬が入るシステムは、この後のライダーたちに大きな恩恵をもたらした。

今では、あたり前となったこのプロのシステムは、クレイグが初めて行ったものなのだ。

クレイグが、スノーボード界で行ったことは、それだけではない。世界で初のシグネチャー・ボードを作ったのもクレイグなのだ。
そして、その自身のシグネチャーボードが売れた分だけマージンをいただくということを初めて確立したのである。

ライディング・スタイルしかり、ビデオの世界を切り開いたことしかり、まさにすべてのルールはクレイグから。彼がスノーボード・プロライダー教科書の1ページであったと言えよう。

2003年1月20日、クレイグは自身が愛した雪山、カナダのレベルストークの雪崩事故で、帰らぬ人となった。
スノーボード界に最も大きな影響を与えたゴッドファーザーは、本当に天に召されてスノーボードの神になってしまった。
残念でならないが、クレイグの功績は永遠にスノーボーダーたちに語り継がれるだろう。

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ノア・サラスネック Noah Salasnek
スケートスタイルを注入した先駆者

スノーボードの歴史は、様々なアクションスポーツの要素を取り入れているユニークなヒストリーでもある。
例えば、かつての大会には、スキー的要素であるダウンヒル、さらにはモーグル大会もあった。
また、80年台後半、日本ではパイオニア・スノーボード・ブランドでもあるMOSSが、スノーサーフィンという言葉を誕生させ、そこで生まれたトリックはオフザリップやボトムターンのようにサーフィン用語であった。

しかし、スノーボード界に最も影響を与えたと言えば、スケートボードであろう。
トリック名は、圧倒的な多さでスケートから来たものだし、現在のビデオシーンでもストリート・ジビングに代表されるように、完全にスケート文化が影響を及ぼしている。
そして、そのスケートスタイルを注入した先駆者が、ノア・サラスネックだ。

ノアは業界で初めてスノーとスケートの高いスキルをビデオで披露したライダーだ。
当時、ジェフ・ブラッシーなど、スケーター的な匂いをするライダーはいたが、ノアほどスケーターっぽいライダーはいなかった。
その背景にあるのは、ノアが元々、スケーター・プロから来たプロ・スノーボーダーに由来する。

子供の頃から始めたスケートで抜群のセンスを発揮し、14歳でサポートを受けることになる。15歳の頃には全米でその名を馳せるほど注目を集めた。その後スノーボードに出会い、スケーター的なスタイルを確立した。
そして、ノアのスケートのスタイルは、すぐにスノーボーダーに受け入れられ、特にコア層に強い指示を受けた。

90年、クリス・ローチらと出演したビデオ『New Kids on the Twock』は、Mack DawgとFall Line Films Productionsが合作した画期的な作品だ。
そこでノアは、スケーター的な映像を連発。決して、エアーは高くないが、足を伸ばすポークを入れて180回ったり、パイプのバックサイドのウォールで、バックサイドで360回す渋いトリックを見せたりした。当時の感覚のスノーボーディングでは、まさに一風変わったスタイルを見せた。

スノーボードの大会では、古くからスタイルをジャッジングすることを苦手としているところがある。結果、やたらに回転数が高いことや斜め回転や、エアーの高さ的な要素でジャジング技術を発展させてわけだが、ノアは元祖、ジャッジングを困らすライダーだったとも言えよう。
例えば、当時、ノアが見せた、ちょっとしたテク。レイトで回したり、インディでもポークを入れたりすることなどは、ジャッジングすることは難しかった。しかし、一方、横乗りマインドが充分にわかるライダーには、強く受け入れられたのだ。

ノアがスノーボード・トリックに取り入れたレイト180などは、その後に登場するブライアン・イグチなどにも影響を与えた。
もしかしたら、ノアがいて、ジェイミー・リンが誕生し、そこからピーター・ラインがやって来て、そしてJPウォーカー、さらにはシモン・チェンバレンなどにも発展したのかもしれない。
以上は、筆者の妄想範囲であるかもしれないが、ノア・サラスネックというライダーはそれほどスノーボード業界に大きなインパクトを与えたライダーだったと思う。

90年初め、クレイグ・ケリーが大会から離れた時期、スノーボード界は絶頂のバブル向きに走っていく。
その旗頭には、ジェイミー・リン、ブライアン・イグチがいて、さらにビデオ、『ロードキル』があったわけだが、この頃、生まれた「ニュースクール」という言葉は、ノア・サラスネックのスタイルに由来した感が強い。そういった意味で、ノアはニュースクールの生みの親でもあった。

当時、決してナンバー1でもなく、やや地味な大関から関脇的な位置付け的なプロだったノア・サラスネック。だが、スノーボード・ヒストリーを振り返れば、大きな役割を果たしたと言えよう。

そんな伝説のライダー、ノアは2017年に癌のために他界。また一人レジェンドがこの世いなくなり残念でならない。

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(スケーターとしても名を馳せたノアのシムスボードのグラフィック。その以前には、今は亡きケンパーのライダーとして活躍した。)

テリエ・ハーコンセン Terje Hakonsen
史上最もスノーボード界に影響を与えたレジェンド中のレジェンド

1990年初めのコンペティションシーン。それは、スノーボードのヒストリーにおいて、最も輝いていた時期だ。
なぜなら、この頃のスノーボード界は、ビデオスターというライダーが少なくて、大会において名を馳せ、プロとしての実力をアピールしていた時代だったからである。

当時、世界のスノーボード大会を管轄していたISF(国際スノーボード連盟)は、まさに世界のスノーボード大会を牛耳る団体で、スノーボードの権威を高め、認知を広げるものであった。
その輝いていたコンペティションシーンで、圧倒的な実力で神のように君臨したのがテリエ・ハーコンセンだ。

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(1990年初頭に彗星のごとく現れた若者は、その後のスノーボード歴史において最も有名なプロ・ライダーになった。)

1990年のテリエは、まだ16歳という若者だった。
しかし、すでにその実力はBurtonビデオを通して、世界中に知られるようになっていた。

まだあどけない笑顔だった青年は、ハワイのビッグアイランドでその高いスキルを披露。今で言うグラトリをこの時期からカッコ良く見せていた。

1992年にクレイグ・ケリーとバトンタッチしたように、大会シーンで活躍しまくったテリエ。当時すでに最も大きな大会として知られていたUS Openで優勝。さらには、翌年93年も、さらに1年開けて 95年にも優勝している。
ハーフパイプでのエアーの高さやスタイルのカッコ良さは、ダントツ。今の時代のように、多くの優れたライダーがいたわけでなく、540回していたぐらいで「スゲエ!」と言われていた時代だったので、テリエの存在感は他を圧倒していた。

テリエの凄さは、90年初めから長い年月メジャー大会で活躍し、結果を残しているところ。

例えば、レジェンドから実力ある若手ライダーが集まることで知られるマウントベーカーのバンクドスラロームでは、1995年から2012年まで7年という長いサイクルの間に実に7回も優勝しているのだ!

さらに自身が始めたA級レベルの国際大会Arctic Challenge(アークティックチャレンジ)では、2007年クォーターパイプで世界最高ジャンプ、9.8メートルを記録する。
うまくRでスピードを殺さずに滑るテクニックが必要なパイプやクォーターパイプで、誰もが驚く高さを出したテリアは、R使いの最高峰ライダーとも言えるだろう。

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(バックサイド360で世界最高記録の高さ9.8メートル・ジャンプを達成!)

テリエの名声は、大会での結果だけではない。
ハーコンフリップを代表するように、オリジナルトリックを発案し、さらにはワンフット・マックツイストのようにインパクト高いトリックも誰よりも早く披露している。
そして、まるで鷲が舞うかのように、右手を羽にように上げる豪快なトゥイーク・エアーは、今なお多くのライダーからリスペクトされるスタイルだ。

もちろんテリエのプロフェッショナルな名声は、大会だけでなくビデオでもいかんなく発揮している。
バックカントリーで見せるテリエのターンは、クレイク亡き後、最も美しいターンとも言われ、そのターンは華麗だけでなくとてつもなく高速だ。
1つのジャンプだけ、1つのターンだけ、という短い画ではなく、ターンとジャンプを組み合わせる画を魅せることができるのもテリエならでは。こうした流れた画は、見る者をスノーボードに誘ってくれる。

世界最高峰のプロフェッショナルなライディングを20年以上披露し続けることができるのは、後にも先にもテリエしかない。
テリエ・ハーコンセンが、史上最も影響を与えたレジェンド中のレジェンドという所以だろう。

しかし、テリエを最も有名にし、スノーボードの歴史に名を刻んだことと言えば、1998年の長野オリンピック・ボイコット事件だ。
IOC(国際オリンピック委員会)がISF(国際スノーボード連盟)ではなくFIS(国際スキー連盟)に出場選手選定を委託したことにテリエは強く反発。また、オリンピックによる国対国の構図はスノーボードの「自由な精神」に反するしたのである。

この後、IOCのパワーに屈したかのように、ISFは消滅していくことになる。
しかし、スキー連盟がスノーボード競技を管轄することを嫌ったテリエは、世界の主要スノーボード大会を結ぶTTRワールド・スノーボード・ツアーを発足させた。

現在のスノーボードのフリースタイル大会、ハーフパイプとスロープスタイルにおいては、FISよりもTTR(注:現在はワールドスノーの名称)の方が実力ある選手が出場し、より世界チャンピオンにふさわしい大会を行なっている。
しかし、五輪の前になると、五輪出場枠のほしさから、選手は一時的にFISワールドカップでポイントを稼ぎ、五輪出場チケットを取りに行っている。
そして、五輪のハーフパイプでは、テリエが出場しなくなった後に登場した選手たちが、まさに世界一を決める戦いを繰り広げている。

テリエの残したメッセージは、五輪というパワーに飲み込まれてしまった。言葉は悪いが、五輪出場という名声に屈服されてしまった、とも言えるかもしれない。

しかし、テリエは、どんな強力な外からのパワーにも決して屈することなく、スノーボーダーとしての誇りを守った。
「スノーボーダーは自由である」というメッセージは永遠に我々スノーボーダーたちに語り継がれることだろう。

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ジェイミー・リン Jamie Lynnwell
スノーボードも最も熱くなった時代のアイコン

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以前、布施忠や平岡暁史と飲んでいた時、スノーボードを始めた頃に最も影響を受けたライダーの話をしたことがあった。
僕は、クレイグ・ケリーと答えた。自分の中では、絶対的な答えである。
しかし、二人の回答は違う名前だった。しかも同じ名前のライダーを挙げたのだ。

ジェイミー・リンだ。

スノーボードという新しいスポーツは、80年後半からボチボチ知られるようになって来たが、本当の意味で盛り上がって来たのは、90年初頭だ。
キャンプファイヤーで例えるなら、燃えやすい小枝や新聞紙を入れていたのが80年代。それが、やっとのことで燃え出し、大きな木を入れて一気に炎が舞い上 がったのが90年代だ。
その時の象徴的アイコンという存在が、ジェイミー・リン。
だから、今、30代後半~40代のベテランのスノーボーダーというと、やたらに ジェイミー・リンにやられちゃったという人が多い。あの時、スノーボード人口が急激に増えて、その時に最高のアイコンだったけに、ジェイミーこそカリスマ、 レジェンドという声がこの業界には根強いのだ。

僕が初めて彼を見たのは、1991年、ウィスラーで開催されたWestbeachクラッシック大会だ。
優勝したのは、ケビン・ヤング。2位はショーン・ジョーンソン。そして3位に入ったのが、当時、名を知られていなかった若きジェイミー・リン。

僕も参加していてこの時の決勝を目の前で見ていたのだけど、あの日、鮮明に覚えているのは、優勝したケビンと、3位のジェイミーの安定感抜群の ぶっ飛んだ姿だった。しかし、インパクトという意味で、ジェイミーは強烈だった。何しろ、素手で滑っていたのだから。今でこそ、素手でライディングする姿 が見られるが、あの時代、素手で滑っていたのは、ジェイミーだけだ。

しかも、そのスタイルが独特だった。スケートのスタイルは、すでに確立されつつあったが、ガニ又を強調するようなあのスタイルはジェミーならではのもの。

この翌年から、ジェイミー・リンの姿は、どんどんビデオで発信されるようになる。そして、その独特なスタイルはたちまち当時のスノーボーダーたちの虜となった。

代名詞にもなっているメソッドエアー。対空時間あるエアーから後ろ足を蹴り出すトゥイークの形は、当時、世界で一番カッコ良いスノーボード・トリックとなった。

そして、ノーグラブというスタイルを流行らせたのもジェイミーの功績だろう。
ジェイミーは、エアー中にヒザを胸に引き付け、前足を蹴り出すポークの形を作り、ノーグラブでもエアーはカッコいいということを見せた。

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(左、素手のままでグラブするジェイミー。無理矢理グラブすのではなく、空中で板をコントロールできているからこそできる。右、ノーグラブでもスタイルを出している姿。)

当時、540を回せば十分という時代で、720を安定感抜群で回せるのもジェイミーだった。
360のスピンでは、エアー中に動きを止めてスタイルを作り、そこから急動作で着地するレイトスピン。さらには、上半身と下半身を捻るシフトもジェイミーあたりが最初で、その後のブライアン・イグチがさらに広めた感じである。

ドラム缶に当て込む姿も様になっていた。メリハリあるタップ・トリックは、あの時代のライダーたちの中では異彩を放っていた。

このようにジェイミー・リンを有名にした舞台、それは、ビデオというメディアだ。今でこそ、ビデオはスノーボード・プロの表舞台な感があるが、当時のスノーボード・ビデオというのは、まだまだマニアックな世界だった。
ところが、ジェイミーが登場してからというもの、僕たちはテープが切れるほどブラウン管にくぎ付けになった。VHSのテープをガチャンと入れて、ウィーンという音と共に再生が始まる。あの懐かしい音が思い出される。

ジェイミーの前にもビデオスターはいたが、その前のスターたちが大会にも比重を置いていたり、まだまだマイナーだったことを考えると、まさにジェイミーがスノーボード映像というメディアを大きく発展させたと言えよう。

だが、ジェイミーを走らせた舞台は、まだゲレンデ内だった。今、ストリートの世界ではまったくゲレンデを使うことがないが、ジェイミーの時はほとんどの映像がゲレンデ内だったのだ。それでも、ジェイミーはすでにこの時から、ストリート映像も見せていたので、その後の時代の担い手、ピーター・ライン、そして JPウォーカーなどに大きな影響を及ぼしたと言えよう。

ジェイミーは、単にプロ・ライダーとしてだけではなく、アーティストとしても成功を収めている。自身のグラフィックを施したボードを最初に注入したのもジェイミーだ。しかも、今なおその活動は続いていて、さらにミュージック・アーティストとしても才能が花開いている。
現在もその影響力は測りし切れなく、今なお最もいっしょに記念撮影を撮りたいレジェンド・ライダー。まさにグレート・アイコンという存在だ。

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ピーター・ライン Peter line
スノーボードの持つアンダー感をメジャー舞台に昇華!

本当かどうかわからないが、以前、ピーター・ラインはいじめられっ子だった、ということを聞いたことがある。
確かにもの静かでチビなピーターは、学校の中では一風変わった子だったのかもしれない。
しかし、一度一枚のボードを乗った青年は、水を得た魚のように暴れ周り、スノーボードの新しい世界を切り開いていった。

表舞台の感覚で言えば、クレイグ・ケリーからのテリエ・ハーコンセン、その後のショーン・ホワイトに続くという感じだが、アンダーな感覚で言えば、ジェイミー・リンがいて、ここに紹介するピーター・ライン、そしてその後のJPウォーカー、ジェレミー・ジョーンズという流れで、現代の映像全盛期に続くように思う。

ジェイミーの時代もすでにそのスター性から表舞台に立ったと言っていいだろうが、さらにその勢いに拍車を掛けたのが、ピーター・ラインと言っていいだろう。ジェイミーの時は、いくらかパイプのコンペティションに出ていた記憶もあり、映像だけでなく大会でも活躍する時代。しかし、ピーターの時代となると大会に出ていたことを思い出せない。このピーターが台頭したい時代には、まだスロープスタイルがなく、ライダー表現は映像世界が主だった。

ピーター・ラインは、Forum(フォーラム)を創設した。そう、JPウォーカー、ジェレミー・ジョーンズ、ヨニ・マルミ、BJライナス、ヴィレ・イリ・ルオマ、デバン・ウォルシュ、クリス・ダフィシーなどがいた、あのフォーラム8だ。

元々、ピーターは、マーク・モリセットらがいたDivision 23のライダー。Division 23は、日本のハロルド・ミヤモト氏が、「東京23区で良いんじゃない?」の適当な発想の元(!?)、作られたブランドと言われている。そこにライダーがブランドを立ち上げる素地があったわけだ。

ピーターが創設したForumは、圧倒的なブランド力があった。

Forumは、ファッション・アイコンに留まらない。ギアの歴史においても大事な一石を投じている。それが、今、バートンが採用している自由にスタンス幅を調整できるチャンネル方式だ。そう、スタンス幅、角度が自由に動かせるシステムを最初に考えたのが、フォーラムである。

ビデオ全盛時代に行く背景には、当時リーディング・フィルムカンパニーだったマックダウが欠かせない。スノーボーダーたちがこぞってVHSビデオを買っていた時代。マックダウの映像にピーター・ライン、Forumのライダーたちが躍動して、彼らが時代の寵児となったのだ。長いスノーボードの歴史の中で、開拓時代のシムス以降、唯一バートンに牙をむいたブランドと言えよう。

もう1つピーターに関して伝えないといけないことは、彼こそ斜め回転の元祖と呼ばれたことだ。ミスティー・フリップやロデオフリップ。当時、最もクールな斜め回転トリックを映像という媒体に載せて、世に伝えたのがピーターなのである。

しかし、このことに関しては、ちょっと注釈が入る。
というのも、以前、自分がケビン・ヤングと話した時、「ロデオフリップは自分が考えた。」とコメントしているからだ。

当時、ケビンはアメリカにトリップしていて、新しい3Dトリック、つまり今で言うロデオフリップを編み出した。そのトリップ中に、たまたまロデオの風景を見て、この新しいトリックにロデオ・フリップと命名したというのだ。つまりケビンの言うところでは、確かにほぼ同時期にピーターも同じトリックを発案したが、それよりも前に自分が先にこのトリックをメイクし、命名したというのである。

真相は定かないが、ピーターが斜め回転を世に伝えることに成功したのは確か。そして、スノーボードの世界は、大会ライダーでなくビデオスターが君臨する!その現象を強く打ち出したライダーこそ、ピーター・ラインと言えよう。つまり、スノーボード界が持つ独特なアンダー感を、メジャー舞台に昇華させて立役者だったのだ。

JPウォーカー JP Walker
スノーボード・ビデオ全盛時代の王者

ジェイミー・リンが、スノーボードのカッコ良さを強く打ち出すことに成功。その後に登場したピーター・ラインは、スノーボードを映像という世界から、さらにスタイルを昇華をさせる。そしてこの後の時代に舵取りを任されたライダーこそ、JPウォーカーではないだろうか。

JPと同時代に生きたジェレミー・ジョーンズもスケート・スタイルで、ジブ全盛時代を築き上げて来たレジェンドであるが、JPの方がそのカリスマ性、影響力は高かったと思う。

このJPとジェレミーのようなライダーいたからこそ、シモン・チェンバレンのようなライダーが誕生したと思うし、その後に続くジョー・セクストン、そして現代のストリート・スーパースターにつながって来るのだ。
しかし、その源流には、ジェイミー・リン→ピーター・ライン→JPウォーカーというラインは外せない。

JPウォーカーは、ライダー同士で勝者を決めるセッション型ジブ大会、ニクソン・ジブ・フェスタを行いジビングを盛り上げた功績者。さらに、これまでに数多くのメジャーフィルムからジブ映像を配信していることから、ジブの教祖というイメージが強くある。

しかし、JPが台頭して来た初期は、ハーフパイプ、パークジャンプ、バックカントリー、ストリートまで幅広いスタイルで当時のスノーボーダーたちを魅了し、絶対的地位を確立。ダブルコークなど、現在に流れるトリックの礎も築いている。
そして同時代に活躍したジェレミー・ジョーンズが際立ったスケート・スタイルを見せ、デヴァン・ウォルッシュがスタイリッシュなバックカントリー・ライディングを見せた。その影響力が連鎖爆発するような形で、彼らのグループ、フォーラム8に人々は熱狂していったのだ。

JPが、これまでに17ものビデオパートを残した功績というのは、永遠に破られることのない記録だろう。

特にJPウォーカーを世に広めた、マックダウの11年に及ぶシリーズ。
1997のSimple Pleasuresから始まり、Decade、Technical Difficulties、The Resistance、True Life、Nixon Jib Fest、Shakedown、Chulksmack、That(Forumチームビデオ)、そして2008年のDouble Decadeは、スノーボードの映像を楽しんで来たファンにとっては、タイトルを聞いただけでもときめくもの。まさにスノーボード・ビデオ時代の王者。

VHSからDVDへ。世界中の多くのスノーボーダーが買い求めた映像作品に、必ずJPは主人公のように君臨した。

多くのレジェンド・ライダーたちが、時代の進化について行けず引退するような中で、JPだけはかなりの長い時代、トップ・ライダーとして活躍し続けて来た。何より、常に進化を求めたJPは、2009年マックダウから移籍レーベル、Stepchildのチームビデオ、This Video Sucksで全映像がスイッチというとんでもないことも成し遂げている。
どんな年齢になっても、常に新しいことにチャレンジし続ける姿は、まさにリスペクト。ちなみにこのビデオのエンディングシーンでは、すっとぼけた感じで僕もちょっと出ているので、良かったら探してみてね(笑)。


(真夏の世界最大パークとして知られるCamp OF Chamopionsで出会った時のJP、左。真ん中にジョー・セクストン、右にシモン・チェンバレン。彼らがジブのヒストリーを継承していった。)

ショーン・ホワイト Shaun White
スノーボードのプロがミリオン稼げる時代を作った

かつて90年代にトレバー・アンドリューの年収が2千万円に到達したと聞いた時、スノーボードのプロもこれほど稼げるようになったのか、と思ったものだったが・・・。このライダーの年収には驚かされる。スーパースター、ショーン・ホワイトは年収が10億とも言われている。
現在の年収は定かでないが、以前、アメリカ大手ディスカウント百貨店チェーンのターゲットがスポンサーに付き、ゲームソフトのキャラクターになっていた時、彼の推定年収は10億と言われたいた。

10億と言えば、有名なメジャーリーガー、プロ・サッカー選手並である。
日本人のスポーツ選手で年収10億も稼ぐスポーツ選手というのは、ほんの一握りだろう。

今のショーンは、選手の他にAir+Styleという大会イベントのオーナーをやっている。それだけではなく、自身幼少の頃に通ったというマンモスマウンテンのオーナーも。さらにスノーサミット、ベアーマウンテンのオーナーにもなっている、というから驚きだ。現在の年収は定かでないが、もっと稼いでいるのかもしれない。

ショーン・ホワイトの他にも億を稼ぐプロ・ライダーがいると言われているが、ショーンの場合は桁外れ。
スノーボード・プロの世界で億万長者になれるという時代を作ったと言えよう。

すでに多くの人が知っているショーン・ホワイトだが、改めて彼の功績を辿ろう。

1986年9月3日生まれのショーンは、現在、30歳。
幼少の頃からアマチュア大会に優勝するなど頭角を現し、13歳の時にバートンと契約。
以後、X-Gamesなど国際大会で活躍し、2006年トリノ五輪ハーフパイプで金メダル、続く4年後のバンクーバー五輪でも金メダル。ソチでは金メダル候補と言われながら苦杯を嘗めて4位に終わったが、平昌で金メダルに返り咲き!そして、北京ではメダル獲得とならなかったが、その実力は最後まで現役トップレベルだった。
さらにX-Gamesでは、18個ものメダルを持ち、内13個もの金メダル。8個のメダルは、スロープスタイルだ。
夏のスケートのX-Gamesでも5つのメダルを持ち、内2つは金メダル。
クレイグやテリエも王者となったスノーボード界で最も古くから行われていて権威も高いUS OPENでは、2003年にスロープスタイルで金メダルを獲得。2006年にはスロープスタイルとハーフパイプで金メダル。さらに2007年、2008年、2012年、2013年も王者となり、驚きべきは2016年、今季2017年の王者に返り咲いていることだ。
つまり、ショーン・ホワイトは長期に渡ってハーフパイプで優勝をし続けているのである。

以前ショーン・ホワイトは、スロープスタイルでも活躍していたが、ソチ五輪後からのコンペティションはハーフパイプにフォーカスした。

かつてのショーンの好敵手と言えば、ロス・パワーズ、アンティ・アウティ、國母和弘、ユーリ・ポドラドチコフあたりが思い浮かぶ。彼らはショーンよりも早くハーフパイプを卒業。しかし、ショーンは北京オリンピックまで大会に出場し続けた。

最少年齢で大会に挑んでいたショーンも、北京オリンピックでは最高年齢のコンペティター。数多くの古傷と戦いながら、自分よりも圧倒的に若い選手と競った。

プロ・スノーボーダーに留まらず、プロスケーターとしても活躍。プロモーターになり、さらにミュージシャンにもなったショーン・ホワイト。
これから50年先においても、彼の伝説は語り継がれていくに違いない。

2022年北京オリンピックで最後の競技生活を終えたショーン・ホワイト。その時、金メダルに輝いたのは、これから歴史を築き上げるに違いない日本人ライダー、平野歩夢だった。
ショーンは、今後、新たに立ち上げた自身のスノーボード・ブランド、WHITESPACEでこの業界と共に歩む。

トラビス・ライス Travis Rice
スノーボードビデオを劇場映画レベルにした立役者

これまでに数多くのビデオ・パートを獲得し、X-Gamesや X-Rail Jam 東京ドームでの輝かしいコンペティション成績を収めた。
トラビス・ライスも多くのプロ・スノーボーダーたちが通過した、「コンペティション→ビデオ・パート」という道を歩んで来た。
しかし、これまでの先人と違ったのは、まるで映画レベルのスノーボード映像作品をリリースしたことだろう。

仕事柄、世界中の一般スノーボーダーの方と接しているが、彼らに「誰か知っているプロ・スノーボーダーいますか?」と聞くと、必ず出て来るのが、ショーン・ホワイト。そして次にトラビス・ライスだ。トラビスはそれくらい一般のスノーボーダーに知られている名である。

しかし、そんな一般のスノーボーダーは、トラビスがかつてコンペティターだったことは知らない。

ジャクソンホールで育ったトラビスは、どこにでもいそうなスノーボード大好き少年だった。ジャクソンホールのパウダーに誘われスノーボードの魅力にハマり、プロ・スノーボーダーの夢を抱いていく。そのため大会に出るようになる。努力家で度胸満点のトラビスは、どんどんうまくなっていった。
それは現在の多くのプロ・スノーボーダーが辿った道。しかしちょっと違かったのは、ジャクソンホール特有のシュート(超急斜面)の多さとそのラインの充実ぶり。彼が現在、真の雪山を滑る映像を残し続けるのは、この育った土地柄が大きく影響しているだろう。

トラビス・ライスを一躍有名にしたのは、2001年のこと。
スノーボーダー誌が主催する春イベント、SUPERPARK(スーパーパーク)が設置した巨大ヒップで多くのライダーが、ストレートでサイドに着地していたのに対し、なんと117フィート(35メートル)の全越えでのジャンプでバックサイド・ロデオをぶちかましたのだ!当時では考えられないほど規格外な巨大ジャンプ。しかもロデオという3Dトリック。ノー・ヘルメット、ノー・ビーニーで!

このジャンプは、セッションに参加していたライダーやカメラマンなどメディア関係者にもの凄いインパクトを与えた。トラビスの現在までのサクセス・ストーリーはこの一撃で決まったとも言えよう。

この出来事をきっかけに、トラビスは当時3大スノーボード・フィルムクルーと言われるアブセンス・フィルムと契約。アブセンスはマックダウ、スタンダードフィルムらのアメリカ発とは違って、ヨーロッパのクルーであるがトラビスの活躍によりアメリカでもさらに人気が高まったと言える。

トラビスは、世界メジャーのビデオスターとして旅立つと同時に、コンペティションシーンでも活躍した。X-Gamesではビッグエアーとスロープスタイルで2度の金メダリストにも輝いている。かつて東京ドームで行われていたX-Rail Jamでも彼は主人公だった。

この東京ドーム大会では、室内ゲレンデでPRイベントがあったのだが、この時、トラビスはスノーボード・ブーツをホテルに忘れていることに気づく。まあ、面倒とばかりにそのまま履いていたシューズでジャンプ。トラビスのゴリラっぷりな豪快性格を表すエピソードだ。

ここまでの功績なら、これまで活躍したトップ・プロライダーにも近い印象を与える。しかし、彼の名がスノーボード・ヒストリーに刻ませたのは、これまでのスノーボードのビデオでは考えられなかった映像美、ハイクオリティ作品のスノーボード・ムービーをリリースしたことだ。

2008年にThat’s It, That’s All を発表。
人々はハリウッド映画並のスノーボード映像に酔いしれた。
さらに、2011年には、The Art of Flightを発表。

これらのようなスーパーハイクオリティ映像作品は3年に一度プロジェクトと言われ毎年リリースできるようなこれまでのスノーボード・ビデオレベルとは違った。
もうこんなスノーボード作品、できることはないと思っていたが、2度あることは3度あった!
昨シーズン、The Fourth Phaseをリリースしたのである。

トラビスがこのような大作に出演できた理由は?
それは、彼こそが当時のベスト・ライダーだったからだ。

ベストのプロ・スノーボーダーとはどういう意味だろうか?

それは1つのカテゴライズされた世界でトップに立つこととは違う。例えば、ハーフパイプで金メダルを獲ってワーワー騒ぐのは一般世間。スノーボードの世界では、コンペティションだけではなく、映像でもトップに立たないと認められない。トラビスは、常に他ライダーよりも先に進化していた活躍を見せて来た。それはバックカントリーで見せたダブルコーク1080の巨大ジャンプなど。

彼がベストであるからこそ、That’s It, That’s Allに出演。その後の映画並のクオリティ作品にメイン・ライダーとして登場し続けている。その結果、トラビスは多くの人に知られる存在に。そして、スノーボード界のレジェンドに君臨したのだ。

そして忘れてはならないのは、かつてクレイグ・ケリーも愛したカナダのバックカントリー、ネルソンで史上初のバックカントリー版コンペティション、SUPERNATURAL(スーパーナチュラル)を開催したこと。彼の構想は、テリエなど過去のレジェンドから将来のレジェンドとも言えるライダーを一堂に会してみせた!
SUPERNATURALは、その後、NATURAL SELECTIONというツアー戦という形で昇華。2022年そのツアー王者となったのは、トラビスだった!一次のパパとなったトラビスだが、まったく衰え知らずのモンスター・ライダーだ。

トースタイン・ホグモ Torstein Horgmo
トリプルコークの幕開け!現代の高回転時代の扉を開く

正直、2000年以降の時代となると、レジェンド・ライダーの選択がひじょうに難しくなる。というのも、もの凄いタレント性あるライダーが出て来て新しいムーブメントを作っているが、その一方でスノーボードの長い歴史の中では、インパクトに欠けるのだ。多くのライダーたちが、あまりにもレベルアップしたため、決定打が弱い。もし、現代のライダーたちが、タイムマシーンに乗って数十年前の過去に行ったのなら、もの凄い脚光を浴びたことだろう。

そう、今、スノーボード界は特出した存在を見出し難い時代だ。それだけに多くのプロ・ライダーたちは、自分の存在価値を見出せないジレンマに陥り、結果、オリンピックで脚光を浴びる方法がわかりやすい方法になっている。

現代のスノーボードのトップシーンは、一部のスノーボーダーにしか理解されないマニアックな世界になったとも言えよう。

先に紹介したトラビス・ライスは、スノーボードの映像をムービーレベルにしたということ、多くの一般スノーボーダーを巻き込む活躍したということで入れさせてもらった。
この時点で残り一人紹介しないといけないのだが・・・、

いろいろ迷ったあげくにトースタイン・ホグモをピックアップ!

トースタインの功績は、現代の高回転難易度スーパー級トリックの先駆者だったこと。
またトースタインは、かつてのVHS & DVDで映像作品を買うという時代から、無料で見れる現代のFREE動画時代という流れの中で、トップ・ライダーとして走り続けて来た実績がある。つまり現代のスノーボード・プロフェッショナル時代までの重要な架け橋な存在となっている。

ほぼ同時期に台頭したホルダー・ヘルガソンは、トースタインと同様な動きをし、しかも技をよりトリッキーかつユニークに昇華させて、その姿は今なお輝いている。しかし、より時代を動かしたという点では、トースタインが一枚上手という印象があるのだ。

僕が初めてトースタインに出会ったのは、2007年の夏のブラッコムグレーシア、Camp Of Champion。
当時、僕はシモン・チェンバレン、マーク・ソラーズ、ジョー・セクストンなどNomisライダーたちと撮影していたのだが、そこに突如彗星のごとく現れたのが、トースタインだった。誰よりも巨大ジャンプに挑む姿勢は魅力的だったし、当時、彼のうまさは際立っていた。またジャンプだけでなく、ジブも安定感抜群でうまかった。

以下は、この時にインタビューした時のものだ。

https://dmksnowboard.com/interview/torstein-horgmo

この時のトースタインは21歳。すでにインターナショナル大会で台頭して来たが、まだまだ無名な存在だった。
今のようにインスタやユーチューブも広がっていなかった時なので、伝わる速度が遅かったことも関係しているだろう。

トースタインは、スノーボードが大好きな点では、誰よりも勝っていた。
撮影するのも好きでしょうがない。高速でハイクアップを繰り返す。この世界でロックスターになるために走り続けていた。その瞬間に僕たちは遭遇し、僕はこの夏、トースタインに向けてシャッターを切り続けた。

このトースタインの出会った夏以降、彼のモンスター化が始まる。スタンダード・フィルムでのカット編集まったくなしのパークライド映像は彼の実力者ぶりを語る上で大きな話題となった。さらには、2008年X-Gamesからの金メダル獲得などのコンペティション王者時代を迎えた。

そして、その活躍のピークとなったのは、2010年にトリプルコーク1440をメイクし、動画を公開したこと!

3Dトリックを最初に披露したのは、ピーター・ラインが決めたミスティ・フリップ(94-94シーズン)。ピーターはさらにバックサイド・ロデオもメイク。
その後のバトンを受け取ったJPウォーカーは、ダブルコーク900をメイクし、ダブル時代の幕開けを告げた。
さらにトラビス・ライスがダブルコーク1080をメイク。
その後しばらくは、ダブルコークがスノーボードの最も難しいトリックとして君臨することになる。
そして、その扉に風穴を空けたのが、トースタインのトリプルコークだったのだ。

近年、マックス・パロットが世界初のスイッチ・クワッドコーク・アンダーフリップ1620を決め、またビリー・モーガンがバックサイド・クワッドコーク1800をメイクして話題となったが、今ではよく聞く『誰々が世界初の何かを決めたという動画』。その決めた最新トリックを、ほぼ同時期に公開するということを最初に行ったのが、トースタイン・ホグモだろう。

こういう最新動画は、世界中の若手ライダーたちに影響を与えている。彼らに「できる!」という観念を植え付け、それがさらにスノーボード・トリック進化に歯車を掛けているのだ。

2007年にCamp Of Chanpionsに登場したトースタインは、それ以降もCOCのレギュラーメンバーになっていた。
そんなトースタインのようなライダーになることを憧れて、2009年夏、日本から13歳の少年がやって来た。
大人のライダーたちに交じってフルチョッカリで挑むも、巨大キッカーの前にランディング届かない。フラットのところに着地して弾かれて痛い思いをしていた。しかし、彼は失敗を恐れずにトースタインと同じところまでハイクして、何度もトライしていた。彼と同じ場所に立つために。いや、いつかそれを超えるために。


(一番左、当時13歳の角野。右、23歳のトースタイン。)

2015年US OPENで角野友基が史上初のトリプルコーク1620コンボという神がかったランは、世界のスノーボーダーたちを驚愕させ歴史に残るランとなった。もうこの時に角野は世界を見ていたのだろう。

トースタインは、言葉でなく態度で、多くのライダーたちに影響を及ぼしていた。
北欧人らしく、決して高飛車になることはない。常に謙虚にクールに、この業界を見続けている。
彼もまたスノーボードの歴史に名を刻んだと言っていいだろう。


(2009年、メジャーになったトースタインに再開した時も、彼は変わらずクールでナイスな人格者だった。)

●関連おすすめ記事

スノーボードの歴史
https://dmksnowboard.com/snowboard-history/

●参考リンク

Craig Kelly (snowboarder) – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Craig_Kelly_(snowboarder)

Terje Håkonsen – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Terje_H%C3%A5konsen

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