20年目のベテラン原点回帰へ/武田 英樹

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スノーボード歴20年目にキングがウィスラーにやって来た! 業界をよく知っている大御所ライダーに、これから何を目指すか伺ったところ、そのキーワードには「原点回帰」が浮かび上がって来た。過去のスノーボード界を勉強でき、なおかつこれからのスノーボード界を占う注目インタビュー。

フサキ(以下F):武田英樹さんと言うと、昔からスノーボード界に長くいるようなイメージなんですけど、かれこれ何年くらいやってるんですか?
武田(以下T):えー、初めてやった時から考えると・・・。1979年12月に始めたから、ちょうど21年目になりますね。

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F:21年目ですか!こりゅあ、ぶったまげました。始めたきっかけは何だったんですか?
T:15歳くらいの時から、スケートのライダーやってて、たまたま、雪の上で乗るサーフィンの板があったら撮影があるから来てくれ、って誘われて、3人でニセコに撮影に行ったんですよ。

F:それは何の撮影ですか?
T:どこの局か分からないんですけど、「独占!女の60分!」っていう番組・・・。その時はまだ、ストラップじゃなくて、ただ足を引っ掛けるタイプのバインディングだったんですよ。それで一応、撮影の時にインストラクターが来てたんですよ。

F:えっその時代にもういたの!?スノーボードのですか?
T:うん、スノーサーフィンの。多分サーファーだと思うんですけど。

F:誰だったんですかねえ?
T:いやー、ちょっとわからないんですけど、結構カッコ悪かったですよ(笑)。

F:(笑)。なんかインチキくさい匂いをする人たちですね。じゃあ、その人が、武田さんたちがスケーターだということで、教えて、何かいい絵が撮れるだろうといった感じだったんですね。
T:はい。そういう感じだったんですけど、その方は全て手をついて曲がってたんですよ。

F:最悪ですねえ(笑)。
T:うん。最悪なんで、僕らも立った感じでスライドさせながら・・・、

F:もう、できちゃったんですか?
T:でも、直進性が全然ないボードだったんで、どうにかこうにか乗って、撮影は終わったんですけどね。それで、後から3人に1本づつ板を送ってくれるって言うんで、すっごい楽しみにして待ってたんですけど、なかなか来ないんで電話してみたんですよ。そしたら「いや、ゴメン。1本だけなら送れるんだけど・・・。」って言うんで、「じゃ、いらないよねー。」って、みんなで話して。

F:へー。じゃ、スノーボードはそれからどうなったんですか?
T: それから、しばらく時間を置いて1年くらいしてから。僕ね、サーフ・ショップのスケートライダーやってたんですよ。その関係で北海道で一番最初にスノーボード入れたのが「ポパイズ・ハウス」って言うウィンドサーフィンのショップだったんです。この間までバートンのディーラーやってたショップなんですけど、ウィッシュボーンっていう会社の社長がやってたショップなんですけどね。その人は昔から知ってる人で「いいモノ入ったから遊びに来いよ。」って言われたので遊びに行ったら、バートンの「バックヒル」があったんです。

F:バートンのバックヒル。その時はまだボトムは丸だったんですか?
T:いや、フラットで全部フル・ウッドでした。メープルの。で、ノーズの方に穴が開いてて、紐が付くようになってました。 バインディングもついてて、ストラップが付いているもので、ゴムの板みたいなものに足を突っ込む感じですけどね。一切留めるモノがないんですよ。

F:へ~。滑れました?
T:「これおもしろいなー!」と思ったら、「じゃ、貸してやるから練習しろよ。」って言ってくれたので、2ヶ月くらい、友達や仲間で乗り始めたんですよ。しかも、公園で。

F:公園で!(笑)北海道らしいですねえ。
T:その次の年に全日本の第1回大会があったんです。

F:もう、仕掛けてたヤツがいたんだ?
T:結局、全部バートンが始めたんですよ。JSBAとかといっしょに。

F:なるほどー。で、その第1回大会は出られたんですか?
T:僕は出てないです。

F:あっ、出なかったんですか。
T:うん。第1回の大会が不明なんですよ。普通リザルトありますよね。でもなくて、「優勝、松島勝美」ってことしかわからないんですよ。

F:あー、松島さん。あのビールをたくさん飲む人の良さそうな方ですね。じゃあ、第1回は幻なんですか?松島さん優勝したってすっげえなあ!
T:ええ。でも、その映像もないし、たぶん、一人で優勝だったんじゃないかと・・・。

F:じゃあ、そのへんは松島さんに聞かないとわからないんですねぇ。
T:それは、わからないですねえ。ちょっと戻るんですけど、その初めて乗った年に、ジェーク・バートンとグリース・キャロル(昔のバートンのライダー)が来て、キャンプをやってましたよ。

F:日本で?
T:いや、北米で。ちょっとどこかわからないですけど。「グリース・キャロルキャンプ」っていうのをね。

F:へー、そうなんですか。
T:ジェイク・バートンが来て札幌のアライ山スキー場って言うところでデモンストレーションもやってましたよ。

F:ジェイク・バートンも当時ライダーみたいな感じで。
T:そうですね。まあ、当時は「あ、こんなもんかー。」って感じでしたけどね。

F:えっ、大したことないんじゃないか!?みたいな?
T:いや、「楽しそうだなー!」と。で、やってみたいなーと思ったし、「こんな感じで滑ればいいんだ。」というのもわかってきたし。それで、まあ、貰ったような感じになったんですけどね。で、その次に第2回の全国大会、全日本の北海道予選があったんですよ。

F:第2回は予選やったんですか?
T:予選やりましたよ。各地区で。北海道、東北、関東・・・。

F:えー!?僕、第4回の時、いきなり全日本行けちゃいましたけどねー。
T:えー!?

F:なんでだろ?第4回スノーサーフィン大会菅平の峰の原で・・・。
T:あっ、それ、スノーサーフィン大会だからじゃないですか?たぶん第1回か2回の時に湯沢かどっかでやらなかったですか?

F:いやー、どうだろう。その時、僕はただの高校生のガキくらいでしたからね。丸井スノーサーフィン大会って言うのがあったんですよ。それで帰りに全日本のチラシを配ってたんですよ。「出ない?」とか言われて。
T:北海道予選もありました。でもね、人数は決められてなかったんですよ。僕ら、その初めての大会に出て、優勝しちゃったんですね。

F:え!?初めての大会で優勝しちゃったんですか!?
T:ええ。

F:それは競技は何だったんですか?
T:スラロームとダウンヒル。

F:ダウンヒルなんて、怖いことやってましたよね。
T:でも、斜度17度くらいのところで、竹の棒さして、直線状態だったですね。

F:もしかして武田さんもあのダサいウェット・スーツみたいなの着てたんですか?
T:いや、着なかったですね。結構、着ないで粘ってました。

F:あ、そういうタイプだったんですか?
T:うん。やっぱり、スキーじゃないから、できれば着たくないなって・・・。

F:その頃から、そういう横乗り系一種独特のポリシーあった人って珍しいですね。
T:かもしれないですね。僕はスキー競技をやってたんで、できれば寒いから着たくないなって。

F:うーん。なるほどね。武田さんを僕が知ったのは90年前後なんですけど、その時にスラローマーとして活躍している武田英樹って言う名前を聞いたことがあるんです。でも、今回いっしょにカナダに来る時に空港で実際に会った武田さんは、スケート・ボード持ってたり、すごいフリースタイラーっぽいですよね。どうしてスラロームに行ったんですか?
T:時代背景もあったんですけど、スノーボードって最初からスラロームだったなあ。日本では、ハーフパイプが出てきたのも88年くらいからだし。その前って、スラローム・ダウンヒル、もしくはGSしかなかったんですよ。北米ではモーグルはあったんですけどね。日本でも87年くらいで正式じゃないけど、エキスビジョンでモーグル競技があったんですよ。

F:あったんですか!?
T:ええ。ただ、やっぱり、ジャッジの面でスキーと似ちゃうからつまんない。やっぱり、そこまでの技術、スキーのコブでスノーボードがやってもひじょうに難しいし見ていてもおもしろくないということで1回でなくなってしまったんですよ。スキーも最初は競技をやっていて、スラロームとかを中学時代ずっとやってたんですよ。スノーボードだと最初普及するためにスラロームやってて、大会をやるために何が一番いいか考えるとやっぱり、タイムでしか成績を作れなかったんですね。で、最初に全国大会に出て、優勝して、最初のチーム・バートン・ジャパンのスポンサーが付いたんです。

F:それは全日本ですか?
T:はい。全日本はその時6位ですね。その時の最初のチーム・バートン・ジャパンのメンバーが、僕と北海道でもう一人、折原紀満って言うのがいて、東北が高橋邦彦。関東が松島さん。長野が北沢さん。で、関西が三俣ひろき。その6人が最初のメンバーですね。

F:そうなんだー。懐かしい昔のヒーローの名前がズラリ揃っていますね。三俣さんなんか、マジシャンでも有名になっちゃいましたけど(笑)
T:で、スラロームとかの、タイムでしか競えないじゃないですか?それから、モーグルもやりました。で、ハーフパイプもやったと。パイプも良かったんですけど、そんなにいいパイプじゃなかったんで、正直言って、つまんなかったんですよ。まともなパイプに入ったのって、多分90年のISFワールドカップだと思うんだけど。

F:あの時、僕、観客で行って写真撮ってたんですよ。パイプの形は良くて選手のコメントなんか聞くと「良かった」って言ってましたからねー。ちょっと土見えてたけど(笑)。
T:うん(笑)・でも、こういうのが、本当のパイプなんだなーって。

F:そうですよね。ほんとに立ったいいパイプでしたよ。でも、なんで、その時にパイプに行かなかったんですか?
T:年齢もたぶんあったと思うんだけど。当時は90年頃だから28歳とか、だったのか。大会の成績を自分で見て、当然ハードブーツのGSの方が成績が良くって、優勝までもう少しだったこともあるし。パイプの方もシングルは取ってたんですけど。どう見ても難しいかな、と。練習する場所もそんなにないし。レースの方がもうちょっとで天下取れるところだったから。

F:もうちょいだったら、やりたくなるもんねー。人間の心理的に。
T:そうなんですよね。

F:あと、聞きたいのは、武田さんは20年以上スノーボードやってるじゃないですか?今まではスノーボード界はどうだったか?また、これから21世紀どうなっていくと思いますか?僕たちが知らない最初の10年はどんな感じだったとか・・・。そういうのと合わせてこれからどうなっていくと考えますか?
T:そうですねー。ボードの最初は、バートンとシムスとモスの3つ。バートンは最初ソリから来てるでしょ。で、シムスはスケート・ボードでしょ。それから、モスがサーフィンでしょ。まあ、そういう、3つの流れの中から、モスはスキー・ブーツを付けたバインディング、バートンとシムスはストラップをつけたバインディング。で、最初にハイバックができた時は、本当に折れるようなハイバックだったんですよ。バートンだったんだけどね。そのあとに、プラスチックの立体成型のができて。でも、その時にはシムスが折りたたみ式のモノを出してたんです。

F:先進的ですね。
T:その時はシムスがフリースタイルのナンバー1。バートンはレース。

F:グレイグ・ケリーも最初は、シムスでしたからねー。
T:で、グレイグ・ケリーがバートンに移籍してから、バートンが変わったんですよ。

F:なるほどねー。
T:僕、バートンにいて、「グレイグ・ケリーかっこいいなー!」と思って、シムスに移ったんですよ。ところが移籍しちゃったんですよ。

F:移籍というか、引抜っぽいところもありましたよね。当時はちょっとしたニュースだったことを思い出します。
T:そうだねー。まあ、そういう流れとかもあって、ある時に、ヨーロッパがレース関係が強くなったんで、それまでモス以外はアルペンでハードブーツ使ってるメーカーがなかったんですけど、ジョセ・フェルナンデスっていう、シムスのヨーロッパの選手が出てきた時にハードブーツに替えたんです。ハードつけてるヤツがやっぱり、ワールドでも優勝するようになって、僕らも早い方に行かなきゃいけないんで、ハードに履き替えるじゃないですか。1年目は全くダメでした。せっかくいいところにいたのに、ハードブーツを履いたために、次の年の順位を下げちゃったんです。慣れてないせいか。その頃に、バーンと全日本上がって行ったメンツはほとんどソフトブーツだったんですけどね。だから、その流れの中で、ハード履いたり、ソフトはいたりしてましたね。

F:一時期、「これからはスノーボードはハードでしょ。」っていわれてた時代もありましたよね?
T:ありましたねー。やっぱり、アイス・バーンでも、パウダーでも、全然行けてたんですよね。で、しかも、山登り用のブーツの改造版でしたからね。結局、レースはハードブーツでやっていって、ソフトはソフトで進化はしていったんですけど、ボード自体は変わってもブーツの開発がそんなに伸びなかったんです。で、ハードはずっと良くなっていって、ソフトの方はどうも調子悪かったんでね。まあ、当然勝ちに行くじゃないですか。大会はハーフパイプとかなかった時代だから。だから、ハード・ブーツ履いて。たぶん、90年を境に変わってきたんじゃないかな。また、ソフト派に。僕は大会でどうしても1位欲しかったけど、もう、あきらめてプロに上がったんですけど。パイプの大会とかGS、スラロームを金・土・日にやってたんですよ。それがバラバラになっちゃったんです。で、ソフトとハードの接点が全くなくなっちゃって。

F:それは何年くらいのことですか?
T:プロになってからだから、93年くらいのことかな?その頃、プロに上がって、当然ハーフパイプの大会にも出たいと思ってたんですけど、日程が合わせられないんですよ。その中で、レースの人間とオールラウンダーっていうのが、だんだん消えていったんですよ。で、90年中盤くらいから、レースはちょっと下火。そんな中で、草レースがほとんどなくなって、一般の人が衰退していったんですね。そこから、ソフトの時代です。僕も96年くらいにプロ登録取り消して。まあ、年齢もあったし。そんなに成績もあげれなくて。それから、パウダーの時代、バックカントリーの時代がきて、98年くらいから、パークの時代がきましたね。で、ある程度、パーク、ハーフパイプ、フリーライディング、バックカントリーといろんなカテゴリーが出てきましたからね。パークなんかも、ウィスラーとか凄いですし、たぶん、いたらやっちゃうだろうな。とりあえず、アイテムとして入れちゃうだろうなっていう。今、子供が少ないじゃないですか。そうすると、人口では僕らの年齢が多いんじゃないですか?スキーにしても、スノーボードにしても。少ないバンドよりは多いバンドとは言わないですが、だんだん、パークよりはフリーライディング、バックカントリー等の体を壊さないタイプのものになっていくんじゃないですかねえ。

F:なるほど。今の発言、目からウロコです。
T:スノーボードとかって、昔は整備は良くなかったし、アイシ-なバーンが多かったし、昔のエッジがついてないボードで滑ろうと思ったら、新雪しかなかったんです。コース外とか。

F:そうですよね。僕もリフト下の新雪とかよく行きました。春に丸沼とか行って、リフトの鉄柱の穴にボコッと落ちたりしてましたからねー(笑)。
T:今はゲレンデもよく整備されているので滑る環境もあたえられてるんで、普通にパークももちろんあり、年代的に変わってくるんじゃないかなあ。例えば、フサキくんも40歳・50歳になった時、普通にパークには入れます?

F:いやあ、わかんないですねえ。
T:まあ、多少、ストレートとかはできますよね。でも、3Dとか・・・。

F:ええ。まあ、ストレートはできるだろうけど、3Dとかは・・・。ブラックの上級者用とかは、無理ですね。
T:だから、僕も、立て回転・横回転は体にインプットされてるけど、斜めっていうのはインプットされてないですもん。たぶんアナログなんですよね。

F:僕も完全にアナログ状態です(笑)。回転は360度まで。
T:間違って、斜めになったりはしますけれどね(笑)。最近、あんまり、飛んでないですしね。アルペンで720°とかするのも昔は「絶対フリースタイルのヤツには負けないぞ!」って言うのはあったんだけどね。何が自分の中でカッコいいのかを考えた時に、原点に戻って、パウダーで、人のマネをするんじゃなくて、自分のスタイルを造ることだと思うんですよね。それも、ほんとに、楽しみながらスタイルを作っていく。いいスタイルかどうかはわからないんだけど、楽しみながら滑るっていう・・・。

F:それが一番大切なところですよね。
T:そう。最初は、もう、楽しくて楽しくてしょうがなかったからね。

F:そうですよね。楽しくてしょうがなくって、その中でレースというチャンスを与えてもらって、それに乗って・・・。その中で、葛藤とかはあったんですか?
T:葛藤はありましたねえ~。

F:「あれ?オレはこれじゃないでしょ。」みたいな?
T:でも、やっぱり、レースとか出てても、板の開発とかで、フリーの板も乗ったりしてたんですよ。ま、一応、バートン・ジャパン、シムス・ジャパンっていうメーカーの最初のライダーだったから、プライドもあったんですよ。このまま、レース止めたら、普通のおっさんになっていくのかなー?って思ったり。でも、そんなの、全然関係ないなーと考えて。

F:なんか、自分の歴史とダブってるところがあって、ひじょうに興味深いですねー。僕も、自分的に何が楽しいって、パイオニアの楽しさがあって、その次にスポンサー・ライダーとかあって・・・。やっぱり、そのプライドがここまでやってきたっていう・・・。
T:それもあるし、どんどん板も進化してきているっていうのもありましたね。あの、「去年はこれだったのに、なんで今年はこれなの?」っていう板が出てくるんですよね。「やっぱりこれはダメだから、次の年はこれ。」みたいな。だから、ほんとにいろんな形の板とか出ましたよね。シムスの初期のモノで、今まともにゲレンデで乗れる板って何本かあるんですよ。バートンはほんとに新雪じゃないと無理ですね。ダウンヒルとか。どんどん進化していくものを自分も手伝えるのが凄くくいいんでしょうね。それに付け加えて、自分もいろんなところを旅できるのがいいんですよね。最初は国内だけだったけど。大会に出ることによって、大会の時にしか会わない友達だって出てくるじゃないですか。例えば全日本とか行ったら、「じゃあ、また、1年後に・・・。」とか言って。それもまた、楽しいんですよね。

F:武田さんが好きなスノーボーダーって誰ですか?
T:僕ですか?時代時代で変わりますけどねー。いまだに結構好きなのはやっぱり、クレイグ・ケリー、ある意味、ショーン・パーマー。

F:グレイグ・ケリーのナチュラルさ、美しさ、躍動感・・・。
T:うん。なんか、楽しそう。らくらく滑ってて。

F:プラス、ショーン・パーマーのプッツンみたいな?
T:そうだねー。

F:なるほどねー。
T:その2面性が自分もほしいなーって。

F:武田さんにとって、スノーボードって何ですか?
T:一言で言うと・・・難しいですね。でも、ライフスタイルの一部にはなるでしょう。うん。日本人の米みたいなもんですね。

F:日本人の米(笑)。黒人のダンスとか・・・。最後に、武田さんの夢は?
T:雪が地球上に残るかわからないし、いつまでスノーボードができるかわからないけど、60歳超えても、結構バリバリのスノーボーダーでいたいなって思いますね。これは、願いですね。それと、1本だけでいいから、この世に残るような板を作りたいですね。パウダーをメインにしたオールラウンドな板ですね。

F:たぶん、オレもそれを作った方がいいと思いますね。スノーボードの神様がいるなら、武田さんにそういうことを言ってると思いますよ。だって、20年やってて、インスピレーション感じて、そういうボードを作りたいと思うんですよねー。
T:それに近い板とか、友達が作ってるのを協力してるんですけどね。

F:楽しみですねー。で、また、「武田英樹」って言う名前が雑誌とかでガンガン出るようになって・・・。スノーボード界がまたおもしろくなってくると思うんですよ。今までと違う流れなんで。古いライダーなんだけど、新しい流れになると思うんで、ぜひそれは続けてください。本日はありがとうございました。
T:ありがとう。

編集後記:
史上初の超ロング・インタビューになり、どこを切るか迷ったけど結局ほとんど切れなかった。どんな歴史でもそうかもしれないが、振り返ると忘れていた大切なものが見つかる。そんな忘れ物を探求するインタビューは、まさにタイトルにあるように「原点回帰」への旅となった。

 

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