スノーボード界の新巨人!?SBN代表/塚田 卓弥

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今でこそスノーボードが誰からも知られる時代となったが、かつてはこのスノーボードを世に広めるために、様々なライダーや業界人がいた。ライダーの竹内正則プロや、元BURTONジャパン代表の小倉 一男氏などはこの業界を押し上げた巨人という言い方もできるだろう。
これだけ認知度が高まったスノーボードが、これから巨人を輩出するのは難しいが、もしかしたらこの人が!という人物に出合った。その人は、 スノーボードとビジネスをこよなく愛する人。巨大スノーボード・サイトSBN代表ツカダ氏に迫ったぞ!

 
interview by Fusaki

どうも、やっとこうしてお会いできてインタビューできることになって嬉しいです。まずはツカダさんのスノーボードを始めたきっかけとなったアメリカに行った経緯から教えてください。
実家が軽井沢でレストランをやっていたので、将来いずれ漠然と健康食をやりたかっような気がします。それで19歳の時にサンフランシスコの上の方にあるワインの産地に行ったんです。そこのワインの産地と軽井沢とで提携して、そこで健康野菜のターキー・サンドイッチなんか作れたらいいな、とか考えていたんですね。それでアメリカの大学も潜り込む調整がつき、安心したのでオレ、スキーに行きたくなってコロラドに行ったんです。 その時に雪山見た瞬間に「ああ、いいなあ」と思ったんですね。

コラロドと行ったら、高級スキー・リゾート地ですね?
そうなんですよ。 そこに行った経緯を話します。オレ、スキーではクラウンという資格を持っていて、その時、軽井沢でイントラやっていたオレの師匠がいたんですね。その師匠はソニーの森田会長の専属インストラクターをやっていたんです。当時、オレは会長の滑りをビデオに納めるお手伝いをやっていました。その師匠が、コロラドにケン伊藤さんがいる、ということを紹介してくれたんですね。ケン伊藤さんは、森田会長のアメリカでの専属インストラクターだったんです。そんな経緯があって、コロラドにいるケンさんのところにお世話になったんです。

だけど、大学の方はどうなったんですか?
速攻で「すみません!やっぱりオレ、入学しません」ってことで入学しませんでした。一生懸命世話していただいた方々には申し訳ないと思ったんですけど、やっぱ雪山がいいっ!って改めて気がつきました。
そこでアメリカで仕事するためにPSIA(注:アメリカのプロ・インストラクター協会)の資格を取ったんです。そのために死ぬほど勉強したな~。親に頼んで東京タワーで販売しているような、「必勝」と書いてあるハチマキを買って送ってもらった。そこに彼女や親兄弟に頑張れコメント書いてもらって、それを毎日締めて勉強した。必ず一発で受かってアメリカで仕事してやろうと決めていた。就労ビザさえ取れば仕事ができる。
フサキさんわかると思うけど、 アメリカ人というのはうまいへたとかよりも「どれだけ楽しませるか」というところがあって、そういった意味で自分に合っていたと思います。
でも英語で説明ができない…、この悔しさがあったからこそ必死に勉強し合格できたのかも知れません。という意味ではここで試験勉強していたのかもしれません(苦笑)。

なるほど。人を楽しますということにおいては、実家が商売していた、というのも役立ちましたか?
メチャクチャ、ありましたね! オレ小学生の時に、浅間山で噴火した火山灰を集めて瓶詰めにして売っていたもん。あとカブト虫もどんどん採って、 標本用にカッコよく仕上げてあげて売っていたし。カブト虫はちゃんと幼虫の頃から育てていましたから。

自分も八百屋の息子だから、その気持ちはよくわかりますね。どうやれば商売になるのか子供の頃から考える習慣ができて、今のビジネスにも役立っている、という。そんな商売人の子供だったツカダさんがコロラドでケン伊藤さんのところに修行に行って、どうでした。
まさに、修行。人格を変えさせられたくらい。すべて認めないといけない。絶対に「ノー」と言えない。オレが正しくても「イエス」。正直なところ、嫌でしたよ。だけど、何かオーラが出ていて、この人に付いていかなくてはならない、という強迫観念に襲われていたというか。 ケンさんは宿、飯も提供してくれたし、チャンスもくれたし。 そのチャンスに自分が一歩一歩進んでいるのもわかっていたんで。
一番凄いのは、オレのウンコでないのにオレのウンコと認めたこととか。 朝、オシッコに行って、水を流したら、詰まってウンコが浮かんで来てしまったんです。そんなアクシデントも自分がやったことにして掃除しないといけない、と思っていましたから。

凄いなあ、自分はオシッコしただけなのに浮かび上がったケンさんのウンコも「自分の責任」として処理したんだ。そんな生活していて、大丈夫かな?と思わなかったですか。
こんなことして大丈夫かな、と思った。だけど、そこはその状況をプラス思考して楽しみました。ケンさんのビジネスの1つで空港でホットドックを焼け、と言われたら一日中焼いていたんだけど、そこでは時間をもてあますので、英語のスキーの教科書を読んでいたり。また、空港に到着したスキー客に話しかけて、どんなインストラクターが好きか、とかリサーチしたり。
夏場は兵隊になるんですよ。冬の間は、ケンさんにアメリカのデモを紹介してもらったり、インストラクターの仕事ができるように斡旋してくれたりするんだけど、夏場は稼がないといけないんですね。それで、オレのトラックがあるから、お前ケイタリング(注:トラックでの出前飲食のこと)やらないか、と聞くんですよ。もちろん「ノー」はないから「イエス」です。また、オレも料理ができるから、やきそばとか餃子とか作って、そのへんの工事現場のおじさんたちに売ってました。
(この後、様々なツカダ氏のコロラド武勇伝が炸裂しまったため、話の続きはインタビュー後に飲みながら行うことにした。一応、参考資料として、一番下に「ツカダ武勇伝記inコロラド」をつけておこう。)

それにしてもよくそんなハチャメチャな方に付いて行きましたね。
それは、ケンさんにも言われました。ここに来たのは、みんな辞めて行き、ずっとい続けたのはオレだけだった、と。二十歳の時に、自分の思考概念が変わる、永遠の師匠に出会えたと思います。ケンさんには一生頭が上がらないです。

スノーボードを始めたきっかけは?
そのシーンは今でも忘れないのだけど、コラロド2年目のシーズンで朝一番ビーバークリークというゲレンデでリフトで上がっていたんです。その時に、そこのスノーボードのインストラクターが現れて、ターンをした後、コブでポーンと360を決めたんです。その瞬間、スノーボードに対して凄い自由を感じたんですね。それで、オレもやってみたい、と思ったんです。
スノーボードを始めてやった日、いつもならスキーで10分以内で降りれるコースを1時間以上も掛けて降りました。ともかく逆エッジで転びまくって、とても悔しかったですね。

当時スキーで腕前がプロ級だったツカダさんが、スノーボード出会い、痛い思いばかりして、「痛えー、チキショー!辞めたーい!」とか思わなかったですか?
いや、逆でね。むしろ痛さを味わうたびにコンチキショー、うまく滑ってやる、と思いました。オレこんなに自由が利かないということに納得できなくて。
その日は固いバーンだったんですけど、3日後に再度やった時にはヒザ下のプチ・パウダーだったんですね。それで、ターンが簡単になって、その日に劇的にうまくなりました。スキーというのは肩、股関節、ヒザなど8関節ぐらいをきちんと動かさないとパウダーとか滑れないじゃないですか。 だけど、スノーボードの場合にはその半分で4関節ほどを動かせばターンになります。だから、今でも思うんですよ。初心者には、アイスバーンとかの固いバーンはダメだって。それよりも春先とかのシャバ雪がいいですよね。安全、安心、暖かい、というのがスノーボードを始める条件。 雪がやわらかくて、ゲレンデに人がいなくて、温かいから体も良く動く。

なるほど。確かに初心者に固いバーンはご法度で、そこでできなくてもあたり前ぐらいなことはありますね。
それで、スノーボードができるようになったツカダさんが、その後に「よっし、いっちょこの世界でもプロを目指すか!」ということを考えたのですか?

コロラドで2年スノーボードをやった当時、2人の方に誘われていたんです。クラブメッドの会長さんにフランスでインストラクターの仕事をやってみないか、と。もう1つはSONYの森田さんで、息子がARAIというリゾートをやるから、それを手伝ってくれないか、と。ちょっと悩みましたが、ARAIに行くことを決心しました。コロラドで2年スノーボードを真剣にやったし、これで日本に帰ればヒーローだなあ、日本のトップ・プロになってARAIの仕事もやってこれで安泰だなあ、なんて単純に考えていたんですね。

それで、ARAIはどうでしたか?
最初行く前は、そこでスキーやスノーボードのスクール・プログラムなどを作成すると思っていたんですね。ところが行ったら、木しかなくて。 開発部というところに配属させられて、毎日毎日、杉の木ばっかり切るような仕事です。でもヘリコプターとか乗り放題でしたからね。視察とか名目でたまににヘリ・スノーボーディングをやっていましたよ。大変だったけどゼロからのリゾート開発の経験ができたんです!こんなことって人生の中でもあまりチャンスはありません。できているものじゃなく、自分たちで作っていくプロセスにいることはひじょうにワクワクしたし、安月給だったけどめちゃめちゃ充実していた時期でした。
この時は、スノーボードは「ゲレンデ暴走族」と真剣に言われていた時で会社の中でもスノーボード導入に対して150対1という大差でスノーボードは否定されていた。今思えばまるでプロジェクトXのように一人ひとりスノーボーダーにしていく作業だった。上司の息子に対してはスノーボードを教え、自分の道具を貸し週末は洗脳した。「ねっ、楽しいでしょ?スノーボード」 って。

肝心のスノーボードの上達は?
ARAIはできなかったから、隣の関温泉に行ってました。そこには当時のプロがいて、自分が想像していたよりもうまい日本人スノーボーダーたちがいたから驚きました。特に竹内さん(注:日本を代表するレジェンド・ライダー竹内正則)は衝撃を受けましたね。しかも、もう本も日本にあって。BURTON SNOWBOARDというやつね。

ああ、ありましたね。安藤さん(注:BURTONを日本に入れた功績者。スノーボード・ウエブの世界では力があったSNOWBOARD WORLDを製作している)が仕掛けたやつですね。
そう、編集長がヨシゾーさん(注:古くからスノーボード専門誌で活躍する編集&カメラマン)で。ニコラ・エンジェラス(注:当時最も知名度の高い女性ライダー、おまけに可愛かった)とか黒越早苗さん(注:日本のスノーボード界の元祖女王ライダー)とか、当時のトップ・ライダーが出ていてね。スキーヤーといっしょに滑らせてターンの特性の違いとか。 当時テリエ(ハーコンセン)が15歳で、ジェイソン・フォード(注:元BURTON、RIDE立ち上げ時期のメイン・ライダーでもある)に頭抑えられている写真なんかあってね。
自分のイメージよりもスノーボードの世界が広がっていた日本だけど、まだまだプロにもなれると思っていたし、あきらめなかったですよ。
ARAIのパイプで修行して、大会に行きました。地区予選を突破して全日本に出場。当時は植村能成 、石川健二、山崎勇亀などが、アマチュアで全日本に出ていた時代です。
だけど、オレ舞い上がっていて、いつもフロントサイドから入っていたのに、バックサイドから入ってしまったんですね。それで撃沈です。きっと、ライタくん(高橋雷太)とかウエ(植村能成)とかの高いエアーやカッコいい滑りを見て、自分がやっていることが幼稚に見えたんですね。それで、冷静な自分でいられなくなったんです。その時、思いました。オレはこれから裏方業をやろう、と。

凄い!!!天才だ。普通、年齢も若ければ、一回の挫折でプロ・スノーボーダーを目指すのを辞めるなんてこと、できないものですけどね。
いや、もうやらないとハッキリと決めました。
それで、オレが勝てなかった原因を考えたんですけど、関温泉って毎日手掘りでシェイプするんだけど、どかどか雪が降っちゃんうんですよ。これじゃあ、練習にならないし、日本人勝てないな、と思っていたんです。そんな時、たまたまトランズ誌を見ていたら、
アメリカにパイプ・ドラゴンというのがあるのを知って、
「へえ、まだアメリカでも1機しかなくて、USオープンに登場するのか」
という情報を得たんですね。それを日本にもほしいなあ、と思ったんです。

それで、まさか日本に輸入しちゃった?
はい、アライ・リゾートで。だから、オレ全部その時のこと覚えている。
まずコレを考えたドグ・ワグという人がいてこの人に手紙で連絡をした。「お宅の商品に興味がある、情報がほしい」そしたら返事が来た。「いいよ売ります」って(笑)。
ホント今考えるとめちゃめちゃな話だったけど、実はオレ、この機械を買って2年以内にスノーボーダー関連で2億円稼ぎますって会社に宣言しちゃったんです。
この機械はその起爆剤なんです!こんな収益化や来場者の増加により・・・、みたいなのを数え切れないくらい上司に提案しましたよ。 そのつど、ここが、あそこがマズイといってたたき返されましたけど、それが今の仕事に思いっきり役立っています。(苦笑)
あっそうそう輸入に関してですよね。初めての機械購入、そして輸入、すべてが初めてでとにかく時間がかかった。そして値段交渉も済みいよいよ機械が到着。 本物のでかさにみんなでビックリ! その後凄いことが起こり、この機械はウィーンってパイプを削るところが起き上がるんだけど、起き上がるときは油圧が効いていて油圧で持ち上がったんだけど、下りの油圧のことはすっかり全員忘れて下りの油圧ケーブルのオイルはゼロ!当然だけど90度になった時点で、反対側にガッシャーンって巨大な音を立ててアームがひっくり返っちゃって、結合部分がねじれちゃったんだ。
日本発のハーフパイプ・ドラゴンメイクによるキャンプがあと1ヶ月位に近づいている時だったと思う。徹夜でみんなで溶接したり直した記憶がある。これも今となってはいい体験でした。

うわあ、まさにツカダさんらしい破天荒なハプニング! ともかく当時、ARAIのパイプは凄いという噂があったけど、それの仕掛け人だ。
そう、その前からスノーイング誌で、竹内さんが登場したり。アドバンスドカップで、ジェイミー・リンやマイク・ランケットを呼んだりして話題作りをしました。だから、当時の話題のホットスポットになりましたね。

そこからSBNサイトへの道のりは、どのようなことがあったのですか?
ARAIからSONYの資本が撤退して人が変わったんです。その時に今まで支えてくれたスノーボードに理解のある上司たちと同時に僕もスパンと辞めてしまいました。

辞める時に、次のこととか考えていたんですか?
なんとなく漠然とはあったけど、特別に決めていませんでした。スノーボードの世界でこれだけやったし「何とかなるだろう」とは思っていましたが。最初の1年は親戚のスーパーマーケットの手伝いとか、いろいろやりましたね。だけど、何かこう自分の中で燃えるものがなく、東京に出て来たんです。その時、SONYの紹介で銀座のソニー・ビルディングにあるインターネットカフェでアルバイトを始めました。そのSONYでビルで働いた経験が、今の仕事にこれまたリンクするんですよね。 バイトだったけど、実質店長みたいな感じ。そこにいた店長を励まし頑張りましょうって共に頑張っていましたから。その時にスノーボードのウエブを作ろうと考えたんです。

だけど、ツカダさんはインターネットとか前からご存知でしたよね?
1年間実家の方にいた時に後輩に教えてもらったんです。 コロラド・ベイルのウエブ映像を見ながら、凄いビジネス・チャンスを感じましたね。スノーボードを始めた時と同様、いやそれ以上にビビっと来るものを感じました。これでスノーボーダーのオレは会とか組織を作るぞ、 と思いました。その翌年、96年9月にスタート。ところが、その前に安藤さんが1週間早くスノーボード・ワールドをスタートさせたんです。オレらもそのずっと前から作ってはいたんですけどね。

しかも、ワールドはsnowboard.co.jpを持っていますからね。
うわあ、やられた!と思った。まあ、向こうは情報もあったしお金もあったと思うので。始めてから3年は行く先々で、スノーボード・ワールドの存在がありましたからね。

ちょっと後手に回ってしまった感じですが、ワールドとはどのような色分けを考えたのですか?
(戦うのに)苦しかったんですけど、安藤さんのサイトを見た時に情報とかは凄いから、ライダーとか現場の声を届けてコミュニティ性を上げよう、と。今、ウチがコミュニティ性あるかというと、そうでもないのだけどこれからきちんと構築して行きます。
安藤さんのビジネス情報がり、掲示板もコーディネイターをしてまとめて行くというスタイル、用品に関してもニューポート(注:当時、関東地区のBURTON代理店)の力もありBURTONの情報とか出ていたじゃないですか。だけど、オレたちはライダーたちとコミュニケーションを取っていたので、そこから得た情報をアップしました。
だから、95年、96年のレポートは当時知り合った忠(布施)の情報があったり、 ケンジ(石川)の情報、またマサ系(竹内正則に集まるライダーたち)の情報、 それと竹内さんがやっていたキャンプ・イン・ジャパンのレポートなどアップしてました。
安藤さんのように上から見た情報でなく、ライダーとコミュニケーションを取った情報をアップして色分けをするようにしてました。

車の空きシートを埋めていっしょに行こうというコーナーがその当時あり、それが新しいメンバーの中で新しい形となって、今日のゲレアイになったりコミュニケーションをベースにしたwebコミュニティーを目指しました。
でもなかなか難しいんですよこのコミュニティーというヤツ・・・、すべての人とコミュニケーションするのは難しくなくなってしまったコンテンツはたくさんあります。好きなことをするため、継続してやっていく難しさを痛感しています。

現在はスノーボード・ウエブで一番大きな存在になりました。また、ツカダさんは長い間、スノーボード業界を見て来たわけですが、今の業界どう思いますか?
オレね。凄く楽しいし、やる気があるとしか思えない。必要がない人はいなくなったし、正常の状態になった。まだまだ淘汰されて行くのかもしれないけど。マーケット市場の縮小に対して、 リゾート、メーカー、ライダーなど、オレたち関わる人間が努力して正常にして行けば、ちょうどいいレベルになる。リゾートもまだ多いと思うもん。やはり、お金が掛かるスポーツだから。高度成長とバブルに合わせてリゾートもポコポコ作り過ぎちゃったし。 本当に好きなら、今が一番おもしろいと思う。

しかし、まだまだメーカーやショップは売れない、苦しいというところだと思います。何かこのような要因を排除できる名案は?
よくぞ聞いてくれました。いっぱいありますよ。
名案かどうかはわかりませんが、ジャパホ(SBN雪番長eco-s)などでやっていることで言えることは、この産業にかかわる人同士が協力し合い、ぶつかり合って新しいことにチャレンジしていくことが重要だと思います。
オレは会社でいつも、変化と創造に向けたぶつかり合いは大いにやるべきと言っています。
スノーボード業界にかかわる全ての人が、変化と創造に向かった試行錯誤を繰り返して新しいルールややり方や経験の仕方などを、それそろ本格的に始めるべきだと思う。いいところは残し、変化する部分は変化させる。

TSB通信というメルマガを発行していて、その中にも書いたんだけど可処分所得が10年前に比べて約16万円も減り、代わって新しい通信機器のケイタイコミュニケーションの時間とコストが同じくらいの金額が年間でかかっている。今さら、ケイタイなしで、スノーボードしようぜっ!って言っても現実味がない。
であれば、それでもどんな人がスノーボードに行くのか?その人たちはどんな属性を持っているのか?どんな商品に注目しているのか? などなど、今のケイタイに年間16万円使う人たちのことを知るといいと思う。

手前味噌ですがSBNのデジタルカタログはマーケティング調査機能を持たせているのでメーカーの人にユーザー視点で見た場合ユーザーさんこんなの見ていますよって、データで見えるようにして使ってほしいと思ったし。
ゲレアイは友達になって、ゲレンデに少しでも安くスノーボードにいける仲間が出会える場にしたかったし。
SBNで週末のスノーボードのゲレンデや天候を決めて、最後に雪番長のケイタイでそれを確認しながら現場に行くなど。
ユーザー=スノーボードをやる生活者と見た観点で商品やサービス開発をしています。

でもまだやりたいことがたくさんあり、もっとユーザーのことを勉強してそれを商品やサービスに活かして生きたいと思っています。
この努力の積み重ねが、今まで通りだと、そりゃ、売れない=感動を与えていないということになってしまうと思う。

ツカダさんから見て、今のショップはどうですか? 何かうまくネットを利用していないようですが。
大きく分けて2つあると思う。1人はメーカーさんに文句を言ってネットで物を売っている人をあまり良いと言っていない人。もう1人はネットを活用したり、提携したり変化し進化を進める人。
そりゃ海外から平行で輸入して、それを日本で売り、アフターフォローは代理店というようなビジネス上フェアじゃない場合は論外としますが、私は、どこでどうやって選んで買うのかは、そのお客様の価値観で決定されることだと思っています。
メーカーや僕らも含めたSHOPは、こういう人に買ってほしいというのであればそれを主張し買っていただく人を選んでその人と共に行くことを決意しなくてはいけないと思います。 ようはここSHOPでしか味わえない感動を付加すると言うことです。

ジャパホは好きなことをして、それで儲けて好きなことに投資していくというのが我々のスタイルです。eco-sもその一つです。 人生のうち40年間くらいは仕事をしています。 その好きなことにかかわれることを仕事にすのであれば、自然とその変化を捉えて変わることも代わることもできると思う。

ツカダさんは体験からこうしたマーケティングのこととか勉強していると思いますが、本もよく読みますか?
はい、よく読みます。それで、私は結婚式でも言っちゃったんだけど、スノーボードとビジネス、この2つが大好き。だから、大前研一氏とぶつかったんですよ。アタッカー・ビジネス・スクールに通って。その時、室内事業リゾートを作ったらいい、と。それで大前賞を取りそうだったんです。その時に大前さんには言われたのは「お前のそのプランは8億円以下で九州でやったら成功する」と。そしたら、スノーバさんが翌年、初めて成功。オレは20億円って出したんだけど。
その時に大前さんに言われたのは「趣味を仕事にするには良くない」と。それでこれはオレとは違うと思った。オレが好きなことで仕事したいと思った。後でわかることだけど、趣味を仕事にするとダメと大前さんが言った理由は、感情移入してしまい市場をきちっと分析できないこともあると思うけど、もっと根本的なところで趣味を仕事にしないで、趣味を趣味として楽し見たいということもわかった。
なので最近はこういうようにした、趣味は仕事にしてはダメでも好きなことを仕事にしたほうがいい!
でも、好きだからこそチャレンジしたくなる。70で人生を区切ると、あと33年間。 好きなことに時間を掛けたい。

最後にツカダさんの夢を教えてください。
世界中の山をスノーボードをして渡り歩く旅がしたい。
そしてスノーボードでめぐり合った人々に感謝して感動を伝えるビジネスをしたい。
そして地球から雪がなくなってしまわないように環境活動に投資をしたい。

●インタビュー後記
スノーボードとの出会い、インターネットとの出会い、この2つの大きな出会いが今のツカダさんの活動を形成していることを強く実感した。そして、子供の頃から商売に馴染んでいたことが、ツカダさんの豊かな人間像を形成し、さらにはコロラド時代の修行を通して、どんな逆境や困難にもプラス思考で立ち向かえる強さを身につけたと思われた。
唐突だが、人間には2種類のバカがあると思われる。1つは、本人は利口ぶって理由をつけてはその場にい続けて、挙句の果てには墜落するバカ。もう1つは、何も知らなくても新しい世界を知りたくて失敗を重ねながら挑むバカ。ツカダさんは間違いなく後者のバカの代表格で、この人は新しい世界を切り開けると、インタビューを通して強く実感した。
そして、自分もバカ度に関しては、同じようなものを持っていると思うので、ツカダさんといっしょにスノーボード業界の新しい扉をぶち壊して行こうか、と考えている。

ケンさん最高!ツカダ氏精神修養事件簿inコロラド

死が迫る!暴走馬事件
馬に乗った初めての日、「乗馬だ!」とケンさんに言われるがまま馬にまたがり、ツカダ氏はお客さんといっしょにパッカパッカと山間のレストランまで林道を登りながら乗馬。レストラン到着後、「ケンさん僕は・・・」と質問をしたかしないかの間に、他のカウボーイが先頭の馬の尻を叩く。すると、またたく間にツカダ氏の馬も暴走。
必死に鞍を掴み鐙から足が離れないようにしながら坂を駆け下りた。 すると、突然馬が側溝に足を取られて転びそうになる。2.5メートルほどの高さから、一気に地面が近づき「死ぬか」と思ったツカダ氏。しかし、なんとか馬が踏ん張り地面との衝突を避けた。その後も馬の首とツカダ氏の顔面がぶつかり鼻血、さらには右足が鐙から離れて落とされそうになったりなどのハプニングを体験。しかし、なんとか生き残ったツカダ氏にケンさんからの温かい一言。
「ツカダくんよく生きていたね~、初めてには難しいかと思ったけどその通りだったね~、イヤーいい経験ができてよかったね。」
顔面血だらけとなり頭も真っ白となったツカダ氏は、その言葉を放心状態で聞いたのだった。

突然投げ縄を食らう!カウボーイ練習台事件
珍しく機嫌がいいケンさんが、「ツカダくん今日はステーキなんだ~食べに来なさい」 とのお誘い。「えっいいんですか?」と大食漢のツkダ氏はケンさんの甘い言葉にまんまとはまり、一路ケンさんの牧場へノコノコと出掛けた。
焚き火がされていていかにもコロラドの大自然というロケーションの中、 ステーキとビール飲んでなんて素敵なんだろう~と夢を膨らませていた。そんな、矢先、ぴゅーん、と縄がツカダ氏の体を見事にすり抜けた! わけのわからないツカダ氏だったが、この時に投げ縄される牛の代わりにディナーに招待されたことを悟るのだった。
「うわっー」と牧場内を走り回るツカダ氏。それを追いかけ投げ縄を振り回し、投げ込むケンさん。
やっぱりただ飯ほど怖いものはないことをこの時に実感したのだった。
このトレーニングが良かったのかどうかはわからないが、数年後ケンさんは壮年の部のアメリカの投げ縄のチャンピオンになった。

その他、ケンさんに頼まれたフェンス作りを朝から晩まで永遠にやらせるなど、文字通り過酷な精神修養のコロラド滞在であった。
さらにおもしろい話もたくさんあるので、聞きたい人は、ぜひツカダ氏が行っているeco-s活動などに参加して、チャンスあったら聞いてみよう。

ツカダ・プロフィール

全体進行担当
日本スノーボード産業振興会 広報委員長
株式会社スタジオジャパホ 代表取締役
スノーボード総合情報 WEB サイト SBN snowboardnet (R) 主宰
http://snowboardnet.jp/
NTT ドコモ公式コンテンツ 「雪番長」 (R) 運営
SlopeStyle 実行委員( http://slopestyle.net/ 運営管理)

略歴
1989年 12 月 SAJ 公認クラウンプライズを 19 歳にて取得後、コロラド州 Vail Resort に移り住みトレーニングに励む。

1990年 4 月 米国「 First Aide 」(救急法)・「 Service of America 」資格取得。日本人としては 3 人目の「PSIA アメリカ国家検定スキー教師」に合格後、 Vail Associates Inc. (米国コロラド州)へ入社、スキーインストラクターとして活躍。夏期期間はスキーコース設計サポート、ホースライディングガイド等を行う。

1991年 5 月 新井リゾート株式会社入社。海外での 2 年間の職歴を生かし帰国、新天地の新井リゾートにて建設部にてコース設計、開発許認可申請業務の仕事に就く。

1992 年 Vail Associates Inc. (米国コロラド州)でのリゾートスタッフの研修者の通訳として再度渡米。財)盛田スポーツ振興財団での海外研修中ガイドなどで海外リゾートを訪問する。その傍ら積極的に海外のメディアやリゾートの情報を収集していく。

1993年 第 11 回全日本スノーボード選手権大会ハーフパイプ出場、 SAJ 公認スキーパトロールに合格。世界で 2 機目となる、まだ誰も発見していなかった、「パイプドラゴン」の日本発輸入を行う。 1994 年日本初のパイプドラゴンシェイプによるハーフパイプを提供。またスノーボードパークの設計・イベント会場設営ど行う。 JSBA 認定スノーボードスクールの立ち上げを行い、校長として若手育成にも力を注ぐ傍らスクールを通してのゲレンデでのスノーボーダーのマナー、モラルの指導、スタッフの技術講習会、パトロールでの対処マニュアル等でノウハウを提供。

1996年 現(株)スタジオジャパホを設立。デジタルとアナログの掛け橋をテーマにリゾートとスノーボーダーを結ぶ総合的なプロデュースを目的に、インターネットを駆使したプロモーション展開を行う。またスノーボードをテーマにしたバーチャルコミュニティー「 SBN snowboardnet 」を総合スノーボード情報サイトとして国内で最初に立ち上げ現在では会員数3万4千人を超える No1 スノーボード WEB サイトとして成長させ、現在も躍進中。

1999年 SBJ フレンドリーリゾート企画立案をし、全国のリゾートをユーザーのニーズに合わせてランキングするシステムを構築。その他、ウインタースポーツに絡んだ様々なコンサルティング、イベント企画、など実施。

2000年 EC アプリケーションの開発、 EC サイトの設計・制作から運営までを行ない、数々のサイトコンサルティングを行なうと供に、商品保証・商品流通動向管理のシステム 「 Digital Warranty system 」 を開発(ビジネスモデル特許申請中)。

2001年 業界初の自由に閲覧できるスノーグッズカタログ DigitalCatalog を SBN 上にスタートさせた。ニューモデルの商品画像をキーワードで検索できるだけではなく、チームライダーの情報やブランドの最新ニュースを手軽に知ることができるようになる。

2002年 出版社連動コンテンツ、大手有名海外ブランドサイト構築などスノーボード関連 WEB サイト以外にも多くの WEB サイトを手がけ、企業戦略やブランド戦略立案から構築までを行う。

2003年 「 eco-s 」プロジェクトの発足。「 GET ON BOARD THINK ENVIRONMENT 」を合言葉に、自然環境を大切にする気持ちを持ち、フィールドとの良い関係を通じて、スノーボードによる後世に残る社会還元できる活動をスタートさせた。( http://eco-s.jp/

2003年 専門学校東京アナウンス学院スノーボードビジネス科・講師就任。スノーボード業界での IT 技術の活用について講義。

2004年~ i-mode を皮切りに 2005 年から EZweb & vodafone も公式スノーボード専門サイト「雪番長 」 ( R )をスタートさせた。 8回 / 日に更新する積雪情報や、日々更新される HOWTO コンテンツが人気。リゾートに足を運び笑顔と感動を持ち帰える人々を、新しいコミュニケーション手法でつなげていく伝導師として活躍中!

 
 

SBN は1996年からスタートした日本で一番のスノーボーダー会員が集うwebサイト。 主要ブランドのアイテムがチェックできるデジタル・カタログ、全国のゲレンデ情報、カジュアル、小物など用意したSBN SHOP、さらには有名プロ・ライダーのページまで情報もりだくさん。

http://snowboardnet.jp/

 

雪番長はスノーボーダーに人気のある公式スノーボードケイタイサイト。 540ヶ所のリゾートの積雪情報を一日8 回という更新頻度で行っている。さらに全国の高速道路の混雑情報など誰もが知りたい情報の他、プロ・ライダーの日記、最新ビデオまで豊富なコンテンツが揃っている。

http://snowboardnet.jp/yukibancho.html

 

eco-sは 「環境について自らの意志で立ち上がり、考え行動する人々の波動」、eco(環境)をechos(共感、反響)させていきたいという想いをこめてネーミングされた。 ス ノーボーダーがフィールドに感謝しつつ、スノーボードを通じてできる簡単なことから、行動を起こしていこうとしている。

http://eco-s.jp/

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