スノーボード創生期時代から今に生きる「超」業界人/安藤 友規

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今回ロング・インタビューに応じてくれたのは、ご存知スノーボード・ワールドの代表の安藤さん。スノーボード・ネット・ビジネスの先駆け人であり、さらにスノーボード業界のパイプオニアである安藤友規の言葉は、ひじょうに興味深く、今後ビジネス展開する者にとって参考となるだろう。

フサキ(以下F):まず、最初に安藤さんがスノーボードに出会ったきっかけは?
安藤(以下A):僕の場合は完璧に商売から入ったんです。バートン・スノーボードが1980年くらいだったと思うんだけど、前の小倉貿易っていうところで新しい商売を開発していくというセクションがあって、いろんな商品を、特にスポーツ商品を海外から見つけてる中での1アイテム、それがバートンだったっていうところからの始まりです。

F:もともと小倉貿易は何をやってたんですか?
A:いわゆる商社なんですけど、輸入とか。ただ、その時分っていうのは“商社冬の時代”といわれた時代で。今まではコミッション商売といって、右から左へ商品を流す。これは輸出、輸入を含めたことだけど、それで商社の商売が成り立ってたワケです。それでは成り立たなくなってきた時代で、商社がいろんなことを考え出した時なんですね。そんな中で新しいことをやっていかなきゃいけないんじゃないかという流れで、スノーボードがその中の一つだったってことです。

F:バートンを見つけてきたのは安藤さんだったんですか?それとも小倉社長?
A:その時、小倉さん(現バートンジャパン代表)がアメリカに住んでたんで、そのコミニュケーションの中でいろんなトレードショーを回って、小倉さんが出してきた商品の中の一つでした。

F:バートン・スノーボードを見たとき、最初にどんな印象を受けました? 1980年、この時期にこれからスノーボードは来るぞ、とか思わなかったですか。
A:その当時からバードン・スノーボードっていう名前だったんだけど。それ以前にスノーボード自体を誰も知らない時代だった。パンフレットと、滑った時のビデオがあって、それを見てまず、どうしてどうするものなのかなっていうのが先ずあったよね。それで100本取ってくれると、日本の総代理店にしますよ、という条件があってね。まずはやってみようと。100本とったところで、商社としてはたいした金額ではないし。でも当然ひとつの商品を取るということになると、会社にビジネスプラ
ンをを出さなきゃならない。その時に5年間の見通しまで作るんだけど、今年、こんな感じで流行らせて、こうやって、こんな感じでやります、というのを。2年間でプラスになるように考えて作ったんだけど、結局はプラスになるまで5年かかったかな。

F:うわあ、5年かかったんですか。ずいぶん大変でしたね。
A:会社がね(笑)。

F:最初、不安とかあったと思うんですけど、5年目になった時に、これ行けるんじゃないかっていうのが出てきました?
A:正直なところ、その当時、バートンと取引を始めたわけだけど、それだけに僕自身が潜入してたワケじゃなかったから、他にもいくつもいろんな商材があって。この業界(商社)では基本的に商品をいっぱい集めて、「千、三つの世界」ってよくいわれるんだけど。

F:「せんみつの世界」って?
A:つまり千個やって、3つ当たれば大成功っていうのが商品開発で。何にも土壌のないところからだからね。そういう意味でいったら千個もやらなかったから、今考えれば、ビジネスとして、もの凄いものを引き当てたなっていうことだね。たぶん大勢の人たちが、何かでスノーボードを見て、ものすごく好きになっちゃったっていう形だと思うけど、僕の場合は、まさに商売として、もっというとバートン・スノーボードとのつき合いが、スノーボードのつき合いなんだよね。

F:実際、初めて雪山でスノーボードやってみて、どうでした?
A:最初の板は、ベニヤの合板で足をカパッとかける所があって、リーシュっていう板のトップのところから紐があって、紐を操作して引っ張って降りるという、そんなにカッコイイものじゃなかったね。まずは、こんなもの滑れるかなぁって思った。
1年目に100本取った商品っていうのはほとんど売れなかったんじゃないかな。その当時、日本だと何があったかな。モスが同じくらいの時に同じような商品を開発していて、彼らはFRP(注:プラスチックのような素材)にスキーのバインディングをつけていて。走行性でいえば、一番初期のバートンとモスを比較したら画然にモスの方が滑りやすいよ。

F:モスの方が上だったんですか。それは意外ですね。
A:その当時っていうのはベニヤの板とFRPで。当然まだエッジはついてないんだけど、エッジの代わりがFRPのレールだから、なおかつ、バートン・スタイルは足をただ入れるだけでひじょうにフレキシビリティがあり過ぎていて。ところがモスはいわゆるスキーブーツを使ってるわけだから、完璧に固定してるからね。今でいうハード・バインディングだから。それは画然と性能さでいえば、モスが良かった。彼らはスノーボードという言葉は使ってなかったけど、ほんと別物だったよ。

F:スノーボードを普及させていくという上で、安藤さんは大会の面倒も見てもらったと思うんですけど。
A:JSBAそのものも、バートン・スノーボードを売るとか、その前に、誰もスノーボードを知らないから、まずはスノーボードっていうのはこういうものなんだよ、という、スキー場でこれを滑らせてくださいという活動が一番最初だった。スノーボードそのものの普及活動をやるには協会が必要でしょうということで、小倉貿易がJSBAを作ったわけです。

F:小倉貿易がJSBAを作ったわけですか。実質その上にいたのは安藤さんですか。
A:そうそう、形を作って、コントロールしたわけだけど。だから辞めるまでは専務理事という形でいたけども、その当時作った頃は専務理事もへったくれもないからね。その時の会長は、うち(小倉貿易)のセクションのトップを形の会長としてね。実質、僕がやらなければね。その当時はモスのスノーサーフィン協会というのがあったわけだね。

F:あったんだ!
A:ある意味で言うと日本の活動はやっぱり、田沼さんだよね。

F:田沼さんというと?
A:モスの社長だよ。だからスノーサーフィン協会というのがあって、もう一つ僕らが作った日本スノーボード協会というのがあって。で、実はこれはまったく同じ時期ではないんだけど、もう少し1、2年先に、アヤックというのがあった。今でいうスノーボードに近いんだけど、そういう横乗り系のね。これもまたFRPで作った商品なんだけども。アヤックがね、あの当時はシルバー精工というところがやってたと思うんだけど。そこが、スノーなんとか協会というのをやってたと思うんだよね。

F:協会戦国時代?
A:もちろんモスさんにしてもスノーサーフィン協会というのは他に何もないから、当然自分のところのブランド。うちの部分については、自分のところでバートンをやるから、普及活動として作らなきゃいけないというのはあったんだけども。当然、海外で、同じようなものがあったりだとか。その当時もシムスが作り始めたりだとか。いろいろなものが出てきてたんでね。ただ、一番最初はバートンしか世の中にないからね。シムスがその次の年くらいから出て来たのかな。

F:なるほど、3つの協会が存在してて、アヤックのほうと、モスのスノー・サーフィンとバートンを始めとするスノーボード。最終的にこれらは一つに統合されたんですか?それともどこか落ちていったんですか?
A:アヤックのところはアヤックそのものが自然消滅的になくなっていったんで。それでスノーサーフィン協会とは話し合ってジョイントしたんですけどね。

F:画期的ですね! 僕が大会に出始めた1988年、「スノーサーフィン」をやった時は、「スノーボード」という言葉はあまり世の中に出てなかったと思うんですけど。むしろ、「スノーサーフィン」の方が一般的だったというか。
A:そうだね。活動をやってて1982年にもう全日本を立ち上げてるから、当然取材が来るわけで、NHKを始めとしてね。その時に、スノーボードというのを、実はバートン・スノーボードとして登録商標をかけてたんだけどね。一般名称になってなかったんでね。とくにうるさかったのはNHKなんだけども、大会が第一回全日本スノーボード選手権と言う名前だったんだけど、テロップで出てくるのは雪上サーフィン大会というテロップなんだよね。

F:なるほどね。でも、丸井の冠でスノーサーフィン大会やってたじゃないですか。あれでよく勝っていたのは、大曽根さん(注:初期の頃のバートンのトップ・ライダー)とか、バートンの方ですよね?
A:丸井も最初はモスさんとの付き合いであの大会ができてたわけでね。今とはまた違う状況の中で、当然そのスノーサーフィン協会の全日本ができてるわけで。それで、スノーボード協会でも全日本をやっていた。その当時は2つの大会にお互い出ていたんだね。その時代の流れでいうと、バートン・モス時代というスノーボードの大きな流れができていた。ようするに、モスで勝つのか玉井(注:今ではバックカントリーのライディングで有名な玉井太郎プロ)とかね。大曽根とか、竹内(注:ご存知、日本のスノーボードの王者、竹内正則プロ)がバートンで出てきたかな。

F:そんなのがあったんですか、おもしろい! 僕はちなみにモス派でしたね。玉井さんかっこいいなと。バートンの方は、えびのように身体を反らせてズラしながら滑るライディングスタイルで、あの姿はどうもなあ、と思っていました。モスはもっとカービングのイメージがあったんで。ところで、第一回の優勝者は誰なんですか?
A:松島(注:スケーターのプロからやって来た松島勝美プロ。創世紀時代の有名ライダー)。

F:それはきちんと競技としてやったんですか?
A:うん、競技としてやった。20人くらいじゃないかな。

F:女子もあったんですか?
A:女子は、和田千鶴じゃないかな。

F:和田千鶴さん(注:僕もスノーテックのライダー時代にお世話になりました。和田あき子のように怖くてやさしくて姉御肌の方)なんだ、すげー。前に武田英樹さんをインタビューした時に、たぶん松島さんだったと思うんだよという話をしてて、でもそれ競技だったのかなあと言ってて。
A:それはね、公式記録として残ってるんだよ、JSBAの第一回のね。秋田のキョウワスキー場なんだよね。

F:いやあ、話を聞いてると画期的ですよね、モスとバートンがいっしょになって1つの協会を作ったという。それ、何年前か憶えてます?
A:何年だろうなぁ。

F:ルスツで初めてワールドカップやったのが90年だったんですよね。僕が88年に大会でた時は「第4回全日本スノーサーフィン大会」として出てるんですよ。それは統合されてない時ですよね。
A:当然そうだろうね、統合されてからはスノーサーフィン大会というのはなくなったから。

F:じゃ89年くらいかなぁ。では、小倉貿易には安藤さんどのくらいまでいたんですか? それで、自ら今、会社を立ち上げてやってるんですけど、その辺の経緯というのは?
A:94年かな。その前3年くらい小倉貿易の駐在としてアメリカに行ってたんでね。その当時のアメリカではバートンとの取引が半分以上含まれてた。94年までは小倉貿易にいて、バートンの仕事をかなりしてましたけどね。

F:その後また自分で出るというきっかけは?
A:アメリカに3年いると、いいよね・・・。生活するのと商売するのはまた別なんだけども。それとアメリカナイズした考え方がどんどん入ってきた。もともとアメリカが好きだったというのもあるし。いい意味でも、悪い意味でもアメリカナイズした部分があったんで、日本の会社の考えにちょっと合わないというところが出てきたし。それは3年というひとつの約束だったんで、戻ってくるという話があった時に、日本にいて一つの組織の中でどうこうするという気になれなかった。それが大きかったかなぁ。だから、大志があったから、脱サラして、こうしてと、いうのがあったわけじゃないんだけどね。

F:それでスノーボード・ワールドが発ち上がったわけですか。その時はどんな考えを持ってましたか?
A:その小倉貿易にいる時代、ちょうどアメリカで94年くらいにインターネットっていう流れがあった。その時はモザイクができましたという時代だったんでね。ただ、アメリカの時代感覚、決して大きいオフィスにいたわけじゃないんだけど、どこにいってもLANがあるんだよね。それから一人に一台のパソコン。だからコンピューターがないとコミュニケーションを含めて、表計算的なこと、ワープロ的なことができない環境。全てがネットワーク化していた。それは日本と画然の差があったよ。イン
ターネットマガジンが94年の創刊だったと思うんだけど。いわゆる、コミュニケーションをネットでしていきましょうという時代の流れで。すぐにインターネットと統合しようという頭はなかったんだけど、日本にもだんだん出てくるようになって。結構コンピューターが好きだったんで。だから立ち上げたのが97年。コンピューターを立ち上げる前の準備はその1年くらい前から始めたんだけど。

F:スノーボード・ワールドの今後の展望は?
A:創刊した時に、環境がインターネット人口が出始めてた頃で。インターネット、インターネットってみんな言ってた頃だけど、そうかといって、どこのブランドも自分のホームページを持ってたかというと、ほとんどもってなかった。その当時、そういう意味で言えばバートンでさえ持ってなかった。だからここ3、4年でものすごい環境の変化があって。ただ、その当時からスノーボード・ワールドというのが商売というベースになった時、とてつもないものになるとは思ってなかったよ。例えば、こういうネットの世界でいうと孫さん、日本でいったらYAHOOジャパンを作ったああいう方たちが、いわゆるインフラの部分をどんどん自分たちがやっていくんです。

F:インフラっていうと。
A:インフラっていうのは、環境基盤、ようするに、NTTをはじめとしてドコモ、iモードとか、そういうものを含めた回線とかね。プロバイダさんみたいな世界。

F:業界が育つためにその土台みたいな。
A:それを作るというのはすごい資本がかかるわけだよね。インターネットの世界、1つはそれが必要になってくるわけだよね。誰でも見れるという環境を作るわけだから。環境整備の方に僕らがどうのこうのする余地はない。そうなった時に自分た
ちでアウトプットする。インプットとする部分とアウトプットする部分とインタラクティブな部分を安くできるっていうメリットがあるわけだよね。ただそれは、インフラが揃ってないと。ようするに環境基盤がしっかりしてないと無理。全世界50億の人たちに届くためにはそれなりに基盤整備をしていかないといけない。そうでないと、50億の人たちには環境が整わないわけでしょう。で、それはどのくらいの段階でなっていくのかといった時に、アメリカはもの凄いスピードでできてきた。日本ももちろんそれを追っかけてるけど、その世界の中で日本はどうしてもインプットの材料なんだよね。というのは、全部アメリカ発の材料をいかに早く取れるかというところなんだよ。今なんかでもみなさんが使われてる多くはインプットだと思うんだよね。特にスノーボードの業界で言った時に、アメリカの情報が80%~90%だったわけだよね。だいぶ状況は変わってきてるけれども。まだ、やっぱり情報源という部分で言った時に、アメリカをはじめとした欧米からの情報に日本の業界、ユーザーは知りたがっている。今までだといわゆるインターネットのようなメディアがない場合だと、結局業界の中で持ってる。その情報をセールスマンなり、そのいわゆる業界の人達がみなさんに出していくことによって出てきた。もちろん雑誌なんかもあるんだけど。それをインターネットという武器を使えば、こういう人でなくてもわかっちゃう。そうやっていかないと、情報の公開と言う部分でいうと、みんなが知っていい情報というのは、どんどん出して知った方がいいんじゃないか。
話しは長くなったけど、何しろ2つあって、1つは一般にはなかなか出ない情報をインターネットを通じて出していくこと。ちなみに、雑誌の場合だと遅いわけだし。それからフィルターが掛かっちゃうわけだから、フィルターをかけずにアウトプットするということも大切。もう1つは、どうしても弱いアウトプットの強化。日本だって受け入ればかりでなく、必ずアウトプットもあってもいいハズ。それをもっともっと出すメディアになっていけたらいいね。これがスノーボード・ワールドの原点。

F:なるほど。例えば、アウトプットの具体的なものとしては、どういうものがあるのですか?
A:最近は正直言うとわからない部分もあるけど。10年前まで日本のライダーというのは、あんまり役に立たなかったよね。最近はいいライダーが育って来て、またローカルという大切な部分もあるけど。例えば、バートンだとクレイグ・ケリーの情報をほしがる。雑誌にしても日本人じゃなくて、外人のライダーの名前がどんどん出て行った。だけど、これからはもっと日本のライダーがいて、日本の乗り方があって、そういったものを国外にも出していかないと。

F:興味深い話しですね。そういう視点で見ている人って少ないかもしれないなあ。
ところで、ここでおさらいと未来について聞きたいのですが、今までの歴史を振り返りつつ、これからの予想をしてほしいのですが。

A:スノーボードの歴史は切り方によっていろいろ見方があるので、一言で言うのは難しいけど。ただ、これは一番最初にお話したように私の場合ビジネスという関わり方としてきて、それと協会という関わりもあって。そこに身を置いてきたので、その見方の中での歴史になるけど。
まず最初に、何にもなかった。ゼロ。スノーボードという横乗りで雪上を滑るものができた。それが楽しいじゃないか!ということになった。最初はソリから始めた人もいるし、サーフィンから考えた人もいるし、スケート・ボードという発想から始めた人もいる。それが、だんだん年と共に道具として進歩していく。それは当たり前のことだけど、その過程の中で、これはこういう遊び方ができるんじゃないか、と。つまり、道具の進歩と共に遊び方が広がってきた。まっ、簡単に言うと、それの連続だったと思う。世間の認知度とう面では、オリンピックも一役買ったと思う。正式な種目に採用されたのが、日本の長野だったというのも認知度を上げた大きなものだった。
ただ、それが良かったのか悪かったのか、はわからないけど。みんなは知っているけど、業界としていい方向になったのかどうかとは別問題だから。ビジネスの部分で言うと、それを頂点にして、いわゆるスノーボード・バブルがあって、それが弾けて今に来ているということだし・・・(沈黙)。

F:これからは暗いのでしょうか(笑)。
A:いや、バブルというのは、必ずあるんだよね。世の中もそうで、バブルにならないってことはなく、ただバブルというのはコントロールできないんだよね。コントロールできるようだったら、誰かコントロールしているし。当時、僕たちはこれはバブルだという認識があったからね。その時にバブルだという認識があった人は、手を打っているわけだ。だから、現状認識をどうするか、というのがビジネスで一番肝心でさ。最初のうちは業界を作っている時は、コントロールできると思っている。自分たちで牛耳ってしまっているという気持ちだから。だけど、そんなレベルじゃないんだよね。だから、こそバブルなんだよ。ワケのわからないところで、いろいろ起きているわけだから。バブル、イコール、アン・コントローラブル(コントロールできない)なんだよね。だから、今、バブルが終わって、清算された。次の展開が始まったというところだと思うよ。だから、ビジネスとしては次のことを考えないと辛いよね。

F:最後に安藤さんの夢を教えてください。
A:ある意味ではいっぱいある。スノーボードという部分ではゼロから関わって来たというある種の自負、もちろん反省もあるけど(笑)。まっ、死ぬまで関わっていきたいな。僕の場合はライダーとかじゃないけど、スノーボードって楽しいじゃない。スキーとかもあったけど、スノーボードって楽しいよね。だから、まずはおもしろいと思う人たちを広げたいなあ。スノーボードの楽しさというのは、いろいろな切り口があるんだよね。例えば、去年始めた人たちにとってはアルペンとかなくて、飛んだり跳ねたりしかないんだよね。だけど、こういう楽しさがあるんだよ。こういう板に乗れば、また違う楽しさがあるんだよって伝えていきたい。ネットの場合、商業雑誌と違って知らせることができる。だから、こういう楽しみもあるんだよって教えてあげたい。競技に使わなくても、違った楽しさがあるよって。いっぱいある夢の中で、スノーボードに関しては、そういうところかな。スノーボードというのは、100年に一度とは言わないけど、たぶん30年や40年に一度の素晴らしい遊びだよね。これは必ず定着するってサインだから、何らかの形で関わって普及活動に勤めたいね。

インタビュー後記
ロング・インタビュー、またどちからとうと固い話しに、一部の読者は拒否反応を示したかもしれない。しかし、安藤さんの言葉を聞けば、僕たちが今後歩む道が見つかるきっかけとなるのでは。例えば、僕たちはとかく「飛び」などにこだわるが、実を言うとスノーボードの楽しさは他にもあるということを、氏の話しを聞くとわかるのではないか。最後の質問で「死ぬまで関わっていきたい」というコメントにスノーボードに対する強い愛情を感じ、とても嬉しかった。

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